166 「小澤征爾 覇者の法則」 中野雄 文春新書




 先頃亡くなられた小澤征爾。私はこの小澤征爾から・・・というよりも、その人生のなかでの印象的なエピソードから、生きてゆくうえで重要な、いくつものことを教えられてきました。今回はその、私の「気付き」についてお話しします。そのいくつかのエピソードがほかならぬ当人によって語られている本、紹介されている本はほかにもありますが、この中野雄の著書を選んだのは、小澤征爾贔屓に過ぎることなく、また妙な「知ったかぶり」や「思い込み」による断定があまり見受けられない、わりあいバランスのよい論述であるからです。



小澤征爾

 頂点を極めたときがいちばん危ない

 ひとつは、1962年の「N響事件」に関すること。この本の該当箇所から引用すると―

人間は「大成功」という美酒を味わった瞬間、頂点を極めた瞬間がいちばん危ない。/ 脳内にあるリスク・センサーの働きが鈍るからである。/ 自らの持つ能力への過信、可能性に対する楽天的な信仰、そして無制限に湧き上がって来る欲望―その流れに身を委ねたり、向こう見ずに暴走を始めた途端、運命の神は容赦なく懲罰を下す。

人間、成功し、「わがこと成れり」と油断したり、「これで間違いなく栄達への道を歩き出した」と自信を抱いたときが怖いのである。


 「N響事件」について語ったり検討したりすることが目的ではなく、調べればいろいろ詳しいことが分かるはずなので、ここでは詳述しません。NHK交響楽団が小澤征爾とのリハーサルと定期公演をボイコットした事件です。原因はN響、小澤、双方の側にあったと思われますが、ここで中野雄が上記のとおり書いているのは、「いずれが悪いか」ということとは別に、社会に生きる者が心しておくべきことだと思います。

 当人の慢心により不都合な言動・行動に至ることもあるでしょう。またそのようなときには「他人に足下をすくわれる」ことも少なくないと心得ておくべきです。


 指揮官に必要な支持率

 ふたつめ。指揮者に対して、オーケストラのメンバーのうち、どれくらいの割合が「納得」しているかという話。これもこの本から引用―


小澤征爾はNHKの有働由美子アナウンサーとの対談のなかで「まあ七割ぐらいが納得してくれれば、相当上手くいくわけです」/ 有働は「ちょっと待ってください。指揮者って指揮官ですよね。七割納得して、三割納得しない人がいるわけですか?」と問い返しているが、国家であろうと、企業であろうと、「支持率七〇パーセント」というのは大変な数字である。

 この対談は私も見たか聞いたかして、この話題に限らず、有働というアナウンサーのトンチンカンぶりに驚いた記憶があります。音楽に関して無知なのは仕方がないとしても、発言があまりにも幼稚。あるいは視聴者がよほど低レベルの莫迦だと思っていたんでしょうか。

 それはともかく、支持率70%なんて、ロシアとか中国のように(悪い意味で)独裁体制を敷いたうえで情報統制が行き届いていない限り、ふつうなら、ほとんどあり得ない話。この本に書かれていることではありませんが、ある若い指揮者がこの小澤征爾の発言を聞いて、「小澤さんさすがだなあ、ぼくなんか3割いるかどうか・・・」と言っていたそうな。そのとおり。集団のリーダーとはそういうもの。

 だから私も勤め人時代に管理職となって、10人ほどの部下がいるときは、自分がやりたいことを「3人」がわかってくれればいい、30人ほどの部下がいたときは、「10人くらい」がわかってくれればなんとかなるだろうと割り切っていましたよ。そしてそれは正しかった、といまでも思っています。何人か、わかってくれない、内心反発しているやつがいるからって、どうってことないんですよ。ただし、納得していなくても、指示に従ってもらわなければならないのは、組織であれば当然のことです。それはたいがい相手も分かっている。分かっていないようなら、そもそもその組織にいてもらっては困る。そういう人間は、従わなくても大きな問題にはならないような仕事を担当させるしかありません。もちろん、部下とは、「この人の指示には従おう」と思ってもらえるような関係を保っておくことが理想であるのは言うまでもありません。


 「嫉妬の毒で死んだ奴はいっぱいいる」

 みっつめ。これがもっとも重要な「教え」であり、私のなかで大きなウェイトを占めている「心しておくべきこと」です。これはテレビ・プロデューサーの萩元晴彦のインタビューから該当の箇所を引用します―


小澤 僕はね、師匠の斎藤先生のことすごく信用してたの。あそこでシボられたから大丈夫という自信がどこかにあったわけね。だけども世の中ってのは、それでも売れるか売れないかは運できまるって、うすうすわかったから、不安とミックスしてるから・・・。ひとつ救われてたのは、ヨーロッパやアメリカの指揮者を見て感じてたのは、僕は若い頃にに親父から「嫉妬心が男を駄目にする」って聞かされて、なるほどと思ってたことがあるの。そのとき、僕はうんと嫉妬ぶかかったから・・・。

萩元 へぇ、若い頃?

小澤 肺炎で何ヵ月か休んでたとき、仲間がTVに出てきたり、指揮してたりすると、すごい嫌になっちゃうのね。そういう僕を見てたから親父が言ったんだろうけど。

萩元 何て言われたの。

小澤 「競争心はいいけど、嫉妬の毒で死んだ奴はいっぱいいる」―そんな言い方だったみたいね。



小澤開作

 「競争心はいいけど、嫉妬心は男を駄目にする」。この御尊父の発言を、小澤征爾はこのインタビュー以外でも折にふれて語っていますが、私はその昔、この話をはじめて読んだとき以来、忘れず、常に意識してきました。

 そもそも嫉妬心とはなにか。

 まず、嫉妬心というのは自らの現状に対する不安から生じるものです。パートナーへの嫉妬など、まさにこれ。自分は恋人に愛されていないのではないか、あるいは妻は自分以外のほかの男と通じているのではないか・・・そうした妄想は、この嫉妬心の持ち主がパートナーを「敵」と見なしていることのあらわれです。妄想と言ってしまえば、愛も嫉妬も想像力の働きによる感情であり、妄想と言ってもいいものなんですが、愛があるから嫉妬が生じるのではありません。嫉妬心のあまり、相手を監視する、たとえばスマートフォンのメール履歴を確認するとか、外出や帰宅時間を管理する、生活のあらゆる面で束縛するとかいった行動は、これは本来敵対する相手に対してとる行動です。

 怒る人は原因があって怒るのではなく、怒る理由を自ら探して怒る、とよく言われるじゃないですか。嫉妬なんかもそうなんですよ。嫉妬する理由を、自ら探し出してきて、それでさらに嫉妬心を募らせている。不信感を持っているのは自分、嫉妬心は、その自分が持っている・勝手に作り出した不信感に基づいて生じるものなんです。

 自分を他者と比較しなければ嫉妬心は生じません。この場合の他者というのは、パートナーその人であったり、パートナーの知人や職場の同僚であったりする。自分と他人を比べることが、嫉妬心発生には必須の条件です。

 以前にも言いましたが「勝ち組・負け組」とか「リア充」なんてことばは、自分と他人を比較することから生じたことばなのです。それほどまでに、多くの人たちは、自分と他人を比べないでいられない状態なんですよ。なぜ自分と他人を比較するのか。これは他人が存在するからではありません。自分が抱いている「不信感」や「不安」「コンプレックス」が原因です。そうしたネガティヴな感情が、自分と他人を比較させているのです。そもそも「コンプレックス」なんてものからして、他人と比べるから生じるものでしょ。

 いま、パートナー云々と言いましたが、嫉妬心というものは、恋愛感情(関係)に限った話ではありません。嫉妬心は、自分より高い地位にある人、自分よりも恵まれたなにか(たとえば収入・資産とか)を持っている人に対して抱く感情です。ただし草野球のプレーヤーが大谷翔平に嫉妬したりはしない。その差が絶対的ではなく、自分も同じ境遇になり得る可能性が認められると考えられるからこそ、発生するんです。しかし、「おれだって、努力すれば同じように成功していたかも知れない」「おれだって、準備して(勉強して・練習して)いれば、もっといい成績を残せたかも知れない」というのは、あくまで仮定の話。だって、努力も勉強も練習もしていないんですから、おそらくこれからもしないでしょう。嫉妬する人は自分を高めるための行動はとりません。

 それでは嫉妬する人はどうするか。相手を貶めようとするのです。どのくらい? 自分と同じ位置まで。自分と他人の比較だから、あくまで相対的な差でしょ。自分を高めなくても、相手を貶めれば同じことなんですよ。

 この嫉妬心が果てしなく高じてゆくと、犯罪などの社会的逸脱に至ることもあります。つまり、盗み、詐欺などの犯罪は、権力への意志、すなわち優越感を満たすために行われるという説があります。そうした社会的逸脱は、ほとんど苦労をせずにお金を持っているという優越感、自分がすぐれた英雄であるという実感をもたらすものであって、根本的な生まれつきの悪のあらわれではないという考えですね。たとえばアドラーは、「あらゆる神経症は患者が自分自身を劣等感から解放して優越感を味わおうとするひとつの試み」であるとしています。この考え方に従えば、麻薬嗜好やアルコール中毒も、責任を逃れて偽りの快楽を得るという点では同じであるということになります。この説を検証することはともかく、自己欺瞞による優越感で満足できる・満足してしまうことの危険性は心しておくべきです。

 「競争心はいいけど」というのは、これが自分を高める努力につながるから。

 「嫉妬の毒で死」ぬというのは、自分を高める努力をしないで、相手を貶めて満足する自己欺瞞だから。

 嫉妬の原因になることって、特殊なこと、個性的なことじゃないんですよ。地位とか財産とか、異性に人気があるとか、ごく日常的で非個性的な問題なんです。だから嫉妬心は質に対しては働かない、量的な差に対して働くんです。言い換えれば、嫉妬する人間は、なにが自分にとっての幸福なのかということを問い直すことはしません。なぜなら、幸福というものは人それぞれで、比較できないから。しかし地位や収入なら非個性的なものなので比較できる。なにによって、自分を成功者として他者に認めさせることができるか・・・嫉妬心の根底にはこの発想があるんです。つまり歪んだ「承認欲求」が作用している。他人に対してマウントをとりたがる人が、じつは劣等感が強く、同時に嫉妬心も強いのは、こうした理由から。

 「承認欲求」が強いということは、自分が周囲から・社会から、価値ある人間であると認められていないと、当人が感じていることを示しています。これは常に他者からの視線や、他者からの評価の問題。さらに、先に述べたとおり、「承認欲求」で問題とされる要素というのがまた、日常的で非個性的なものです。だって、周囲の人たちから認められたい・称賛されたいということは、だれの目にもわかりやすい優位性を持ちたいということですから。

 承認欲求についてもう少しお話ししておくと、これが満たされないで煩悶しているということは、他者の期待を満たすために思い悩んでいる状態、常に他者からの評価を気にしてそれに振り回されているということです。他者からの承認とか評価って、あなたにとって、どうしても必要ですか? それでは褒めてもらうために行動するのなら、誰からも褒めてもらえないことは一切やらないのですか? キリスト教徒は神はすべてお見通しだから悪いことはしないで、善行を積むんでしょうか。もうしそうだとすれば、神が存在しないのならいかなる悪行も許されるということになりますよね。善行も悪行も、自分の考えに従うべきではないでしょうか。その結果を引き受けるのは自分自身なのですから。

 これは逆方向から見ると、他人に期待しないということでもあります。他人が自分の思い通りに動かないと言って憤慨している人、いますよね。でも他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。だからそれはその他人自身の問題なのです。自分と他人の双方向的な「承認」とか「評価」というものは、それぞれ「承認」「評価」する側の問題なんですよ。それを自分の問題だと考えるからおかしなことになる。「承認」「評価」される側がそれを求めるのは筋違いなのです。筋違いは接骨院に相談して下さい・・・って、これは以前にも言いましたかね(笑)その筋違いでどのような「おかしなこと」になるかというと、それが嫉妬の毒なんですよ。他者からの見返りなど求めているから、いつまでも、なにをしても、満足できないのです。

 自分の境遇に満足しているひと、幸福な人というのは、たとえば収入は他人より低くても、また他人に対して自慢できるような特別な要素がなかったとしても、嫉妬心にとらわれることがありません。そうしたひとたちは、たいがい個性的です。自分は自分、他人は他人。つまり、自己形成が出来ているということです。自己形成というのは、その人それ自体であるとともに、その人の生活、人生そのものでもあるんですよ。そこでは、自分と他人の比較なんてしない、そもそもそんなことをする必要もない。自分のために生きているんですから。他人からどのように働きかけられても、それは自分が形成した個性ですから、なにも変わらない。独立独歩の個体であるということです。

 大事なことなので、もう一度繰り返しておきます―

 「競争心」は、正しく作用すれば自分を高める努力につながる。

 「嫉妬心」は自分を高める努力をしないで、相手を貶めて満足する自己欺瞞だから、自分を殺すことになる。

 小澤征爾の御尊父・小澤開作氏に関しては、これ以外にも伝え聞くエピソードがあり、たいへん立派な方です。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「小澤征爾 覇者の法則」 中野雄 文春新書

「音楽芸術」 1982年11月号 音楽之友社



Diskussion

Hoffmann:まあ、三つとも実践できていたかどうか・・・必ずしも自信はないんだが。

Kundry:頭に入れて、心がけているだけでも違いますよ。


Parsifal:嫉妬心が自分の内にある「不信感」によって生まれるというのはそのとおりだと思うな。嫉妬っていうのは「自家中毒」なんだよ。

Kundry:その源泉で大きいのが「コンプレックス」と「承認欲求」というわけですね。

Parsifal:勝手に嫉妬しているだけならまだしも害は少ないんだけど、他人の攻撃に向かってしまうと、「自家中毒」だから結局自分を殺してしまうわけだ。

Hoffmann:そう、「自己欺瞞」というのは、自分で自分を騙す行為だからね。自己欺瞞の極端な例をひとつ挙げてみよう。1945年、ブラジルで起きた事件だ。

 1945年の8月にメディアが日本の降伏を報じると、サンパウロに日本人の結社「臣道連盟」が結成された。その結社のメンバーは、日本降伏のニュースは日本人の自尊心を打ち砕くために西欧列強が流したデマであると信じていたんだ。2,600年に及ぶ歴史を通じてただの一度も戦争に負けたことのない日本が負けるはずがあろうか―と。2、3ヶ月のうちにブラジルの日本人移民およそ20万人は、敗戦を信じない臣道連盟を中心とした「勝ち組」と、敗戦を受け入れた「負け組」とに分裂。両者の間には内戦が勃発して、臣道連盟の殺し屋集団である特攻隊は、「負け組」のリーダーたちを国賊として暗殺しはじめた。そして数千人の死者を出したところで、ついにはブラジル政府が介入、「勝ち組」のリーダーたちを国外追放することでようやく内紛は収まったという事件だよ。

 この事件で特筆すべきことは、日本が勝ったという「幻想」を支えるために臣道連盟がとった手段だ。彼らはアメリカの太平洋艦隊が敗北し、マッカーサー元帥が日本の将校たちの前で頭を下げたことを報じる偽の記事と写真を載せた、偽の「ライフ」誌を発行したんだ。この偽の「ライフ」誌こそフェティシズム的な否定の極端な例と言えるだろう。

 わかるかな? これを作成・発行した首謀者たちは、日本の降伏を否定することが誤りであることを、ちゃんと「知っていた」んだよ。それにもかかわらず、日本の降伏を信じることを拒んだ・・・狂信的にその幻想にしがみつき、そのために自分の命を犠牲にすることを覚悟していたんだ。

Klingsol:なるほど、真実を知ってはいても、知っていることを他者に悟られてはならない、という構造だね。

Kundry:人は見たいものしか見ない、聞きたいことしか聞かないという認知バイアスの、その次の段階の問題ですね。

Parsifal:相手を貶める言動で、もっとも大きな問題となる例を挙げると、ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、それにナチスドイツ時代のユダヤ人排斥など、さらに、多くの宗教の選民思想だよね。これらの共通点、わかる? 貶める対象が、個々人ではなくて、国民や階級、人種などに向けられていること、つまり「顔が見えない」anonym、匿名の集団なんだよ。

Klingsol:以前、Parsifal君が話ししてくれた、「けやきの郷事件」を思い出すね。あれも鳩山ニュータウンの住民が、「集団」という匿名性のもとに、なんらの罪悪感を覚えることもなく、差別や排除をしようとした事件だった。

Parsifal:憎しみの対象をanonymにすることは、罪悪感なき無差別殺人と同じなんだよ。同時に、anonymだから自分がその対象にされてしまうことなど思いもよらない。相手を「個人」として見ていない。そして自分もanonym、匿名性のおかげで自分という「個人」が見えていないんだ。

Kundry:嫉妬心の非個性的な問題とよく似ていますね。自分と他人を比べるという習慣とか、「けやきの郷事件」のような、自閉症者という名の異人に向けた敵視と排斥の態度の根底には、共通する現代の病理が横たわっているような気がします。

Hoffmann:以前言ったことなんだけど、我が国の文学作品って、他人との関係でしか自己を表現できない。そう考えると、かなり根が深い、ひょっとすると国民性にまで至る問題なのかも知れないな。


Klingsol:「承認欲求」に関しては、逆に、これを満たしてあげることで、他人をコントロールすることもできるだろうね。つまり、「私はあなたに関心を持っていますよ」という態度を示して、良好な関係を築くわけだ。


Hoffmnann:「承認欲求」を拗らせるとどうなるか・・・どこかに、なにかというと相撲も茶道もゴルフも、なんでもかんでも自国にその起源があると主張している国(民)があるよね。あれなどは、まさにコンプレックスが高じた末の、歪んだ「承認欲求」のあらわれなんじゃないか?


Parsifal:その「承認欲求」につけ込まれて詐欺に遭った事件があったよね。2015年にスイスに本部を置くニュー・セブン・ワンダーズ財団(New 7 Wonders)が主宰した「世界7大自然景観」選定をめぐる活動を覚えてる? 風光明媚なリゾート地として知られ、2007年6月に「火山島と溶岩洞窟群」が韓国初の世界自然遺産に登録された韓国・済州島(チェジュド)。数百年前から流刑地で、本土からの差別も酷、朝鮮戦争直前の1948年には軍や警察が左派系島民を虐殺。その数は1万人以上とされ、1957年までに計約8万人が虐殺されたとされている島だ。

 地元自治体が遺産登録による観光客増加の相乗効果を狙い、スイスに本部を置くニュー・セブン・ワンダーズ財団が主宰した「世界7大自然景観」の登録を目指したんだよ。選定は2011年12月に行われて、世界中から電話やインターネットによる人気投票で、美しい景観のベスト7を決めるという趣旨。この候補地のなかに済州島が入っていた。ひとりで何度投票してもよいというルールであったので、韓国は選定に向けて、「選定汎国民推進委員会」なんてものまで結成して、済州特別自治道知事は、電話投票にかかる電話料金を道庁が全額負担すると決定。済州市では市職員に電話投票をするよう促し、「一人一日70回」のノルマを設定。役所に訪れる市民にも専用電話を用意して投票を勧めた。なんでも投票のほとんどが公務員による昼間、つまり仕事時間中の電話で、電話料金は計約211億ウォン(約23億5,160万円)にもなったそうだ。こうして2011年12月22日に済州島は世界7大自然景観に選ばれたんだけどね・・・。

 ところがこの電話投票のための電話料金は、その一部が財団の収益になるというカラクリ。しかもこの「非営利団体」を標榜している財団は、国連やユネスコ(国連教育科学文化機関)とは一切無関係。財団本部に事務所はなく、住所地にあったのは財団創設者の母親が運営する博物館。あるはずのドイツ事務所も存在しなかった。投票先の電話番号はサントメプリンシペ(アフリカ)やセントクリストファー・ネイビス(カリブ海)などのタックス・ヘブン(租税回避地)の国ばかり。投票すればするほど、同財団が儲かるという仕組み、つまり国際詐欺だったんだよ。ついでに言うと、得票数も公開されていない。当然のことに、済州島の「7大景観」選出について報じたメディアは韓国だけで、世界のどこにもない。残ったのは多額の電話料金の税金での支払いだけ。

Kundry:世界中からの電話やインターネットによる投票で、ひとり何回でも投票可能という時点で、おかしいとは思わなかったんでしょうか。

Parsifal:おまけに、最終候補地28か所に選ばれたインドネシアのコモド公園が、財団側から世界7大自然景観の発表式の開催費用として3,500万ドル(約27億円)を求められたそうだから、公表されていないけど、済州島も相当な費用を請求されたはずだ。

Klingsol:電話代は、たしか何年間かの分割払いになったんじゃなかったかな。国家(国民)全体に蔓延する「コンプレックス」と「承認欲求」につけ込まれたという例だ。



(参考) 「音楽を聴く 035 小澤征爾のレコードから」(こちら