052 「メランコリア」 ”Melancholia” (2011年 丁・瑞・仏・独・伊) ラース・フォン・トリアー




 「メランコリア」”Melancholia”(2011年 丁・瑞・仏・独・伊)です。



 監督は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「アンチクライスト」のラース・フォン・トリアー。巨大惑星の接近で終末を迎えつつある地球を舞台にしており、音楽はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲。監督自身の言うところによれば、自らのうつ病体験を投影させた映画だそうです。



 あらすじは―

 コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊したのみならず、上司のジャックや他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、夫のジョンや息子とともに、仕方なく彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるにつれ、奇妙な周回軌道をとる惑星が地球に接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず、惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった・・・。

 ・・・というもの。



 主人公ジャスティン役がキルスティン・ダンスト、姉のクレアにシャルロット・ゲンズブールその夫がキーファー・サザーランド。

 公開当時は賛否両論だったようですね。称賛の声もある一方で「理解不能」「疲れた」「意味が分からない」といった声が寄せられたそうです。

 映画は二部に分かれていて、第一部が「ジャスティン」、第二部が「クレア」という表題。第一部はジャスティンの結婚披露宴で、これがトラブル続きで、結局新郎とは当日のうちに破局を迎えます。この日に起きたことを―

 ジャスティンの希望でリムジンを選んだが、道が狭すぎて通れない。おかげで披露宴に遅刻して、姉夫婦に文句を言われる。父親は元妻がいるのに愛人を二人連れてきている。父はスプーンを胸ポケットに刺すなど、行動がいささか異常。上司が披露宴の最中に昇進を伝え、同時に仕事を催促する。父親のスピーチはジャスティンへの祝辞よりも自分と元妻の気まずい関係を語る。対して、母も暴言を吐く。新郎のスピーチが求められるが、準備しておらずしどろもどろ。新郎は(良かれと思って、またサプライズで)相談もなく土地を購入していた。ジャスティンは屋外で上司の部下と性行為する。披露宴は台無し、新郎も見切りをつけ、破局となる。仕事をクビになる―。

 第二部ではクレアを軸に話が進み、鬱のジャスティンとは対象的な常識人クレアの行動を描写します。

 ジャスティンの鬱が悪化してクレアが自分の屋敷で面倒を見ていたが、惑星メランコリアが発見され、地球に接近するというニュースが報じられることで、クレアは惑星衝突の不安にかられる。対するジャスティンはメランコリアが接近しているこを知り、鬱が改善してゆく。召使いたちが出勤しなくなり、決して地球に衝突しないと言い張っていた夫はひとりで自殺。クレアは自分も死から免れないことを悟る。ジャスティンはクレアの長男レオに、「魔法のシェルター」を作れば生き残れると信じさせて木の枝を集め、10本ほどの枝を寄せ合い「魔法のシェルター」を作り上げる。そこに入るジャスティンとレオ、そしてクレア。地平線上に巨大な惑星メランコリア。次第に大きくなって、ついに地球に衝突―。



 「毎度お騒がせ」のラース・フォン・トリアー、2011年5月18日、カンヌ映画祭会見場で、「ヒトラーは間違ったこともしたけど、彼のことは理解しているつもりだ。(中略)オーケー、僕はナチスだ」などと発言して、後にジョークだと弁明したものの、カンヌは彼を映画祭から追放。しかし作品はそれなりの評価され、キルスティン・ダンストはカンヌ国際映画祭女優賞を受賞しています。それにしても、問題発言や問題行動の後に「冗談でした」ですまそうというのが、昭和のセクハラ親父みたいでいいですね(笑)「冗談」「ジョーク」だというのなら、この発言のどこが面白いと思ったのか、説明してもらいたいものです。



 巨大惑星「メランコリア」が地球に接近していることが判明し、衝突の可能性にクレアたちが恐れおののくのに対して、ジャスティンは逆に生気を蘇らせていくのはなぜか。これはラース・フォン・トリアー自身が長い間うつ病を患っていたことから、主人公ジャスティンに自身を投影したもののようです。その体験では「基本的に人生におけるすべてが怖い」という、メランコリー親和型のうつ病。ドイツの精神医学者フーベルトゥス・テレンバッハよって提唱された「メランコリー親和型」というのは、一般的に「生真面目で責任感が強いタイプ」に多く見られるもので努めて摩擦を避け、自分よりも他者を重視しすぎることから、精神的なバランスを失って抑うつ状態になってしまうという病態。

 そんなトリアーが、治療のためにセラピー・セッションを受けた時にセラピストから聞いた一言が、「悲惨な状況に陥ったとき、うつ病の人間は普通の人よりも冷静でいられるものなんだ」というもの。これがこの映画「メランコリア」のモチーフとなっているのですね。



 その「悲惨な状況」、避けられぬ死、人類滅亡をもたらすものを、「メランコリア」と名付けられた巨大惑星の地球への衝突としたのはいいアイデアだったと思います。「メランコリア」といえばやはり連想するのは、謎に満ちた銅版画、デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉です。翼を持つ女性、その足元に散乱しているのはかんな、のこぎり、定規、釘抜き、曲がった釘にハンマーといった道具、壁の天秤、砂時計・・・この不思議な銅版画には、さまざまに加えられた解釈・解読がありますが、空には虹と四方八方に妖しい光を放つ彗星らしきものが見えます。これを思い浮かべた人は少なからずいたことと思われます。



Melencolia I

 以前、この銅版画に関連して少しお話ししたことがありましたね。おさらいしておくと―

 人間の体内を巡る四種類の液体のバランスによって人間の気質が決まるという四体液説という考え方がある。この説の起源はピタゴラス教団にまで遡るもので、地水火風とか春夏秋冬といった四つでひと組といった考え方のシステムに連なるものだ。

 四種類の液体というのは、多血質を生み出す血液、胆汁質は黄胆汁、粘液質の粘液、そして憂鬱質を生み出す黒胆汁だな。この最後の憂鬱質こそメレンコリア。それぞれに長所短所があるとされながら、憂鬱質だけは永らく悪いことばかりの救いがたいタイプとされてきた。

 この憂鬱質を再評価したのがイタリア・ルネサンス期の人文主義者マルシリオ・フィチーノ。中世においては黒胆汁が憂鬱質をもたらすが、占星術では土星の下に生まれた者の運命とされる。じつはフィチーノ自身の誕生日が「サテュルヌスの星の支配下に」あった。それで、フィチーノは自己の悪しき性質を改めようと努力するとともに、大きな価値転換を図った。つまり、生まれながらの憂鬱質は正常なバランスを欠いているが故に、狂気や愚行に走ることもあるが、時に正常な人間の水準を遙かに超える存在にもなり得ると・・・。

 デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉には、そのような価値転換が見て取れる―たとえば、描かれたユピテルの魔方陣はフィチーノの星辰魔術の応用と考えられ、土星の感応霊力に対抗する木星(すなわちユピテル)の感応霊力を招来する、これによって、土星は高尚な知力の守護者となる・・・といったような寓意であろうとされている。

 なお、デューラーは〈メレンコリア Ⅰ〉しか残していないが、フランシス・イエイツが〈 II 〉があったという説を唱えている。 もともとこの〈メレンコリアⅠ〉はアグリッパ・フォン・ネッテスハイムの思想で表現されているとされてきたもので、そのアグリッパ・フォン・ネッテスハイムは、世界(人間と全宇宙)を3つの段階に分けて論じている。一番下がイマギナティオ(想像力)、より高い段階がラティオ(理性)、最も高い段階がメンス(魂)という、ヒエラルキア(上下階層)。

 パノフスキーは〈メレンコリアⅠ〉に憂鬱質と土星の影響を受けた創造力という人文主義色の濃厚な見解の表現とみて、そのアレゴリーを知性の敗北、挫折せる天才の沈鬱なメランコリーをあらわしているとしたが、イエイツはメランコリーが精神構造の最も低い部分、すなわち想像力と結びついた未だ低い段階の知性の働きをあらわしているとした。だから〈 I 〉の次には〈 II 〉があり〈 III 〉がある、という考えに至って、デューラーが同じ年に製作した「書斎における聖ヒエロニムス」が〈 III 〉にあたるのではないだろうか、というのがイエイツの仮説。

 後にはこのデューラーの影響下に、ルーカス・クラナハも〈メランコリー〉の連作を描いている。ただし象徴的アレゴリーは薄められており、イエイツ女史によると、ここでは有翼の女性が魔女として描かれていて、デューラーから20何年かの間にメランコリー像が変化したことをあらわしているという。具体的に言うと、アグリッパ・フォン・ネッテスハイムが魔術師として知の歴史から葬られつつある時代となって、クラナハ自身もオカルト哲学にアンチテーゼを示していることが読み取れるとしている。



Die Melancholie Lucas Cranach der Aeltere

 対象の喪失からの喪の過程を論考したフロイトによれば、喪は通例、愛された人物や、そうした人物の位置へと置き移された祖国、自由、理想などの抽象物を喪失したことに対する反応であるとされています。さらに、喪には正常な生活態度からのはなはだしい逸脱がともなうにもかかわらず、私たちは、喪は一定の時間がたてば克服されると信じている、とも。

 また、自我に向けられていたリビドーは自我の発達に伴い、対象に振り向けられ、自我の中に取り入れられるとされる一方、対象を喪失したことにより、リビドーが対象から分離されることがなぜこうも痛ましいのかについては、未だ理解されておらず、リビドーはあくまで対象にしがみついていて、代替物を手にすることができるときでさえ、失われたものを諦めようとしない、これが喪の悲しみなのであると述べています。

 そして1920年に著した「快原理の彼岸」の中で、欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫であるとし、そこから生命の究極の目標を無機的状態の元に帰ろうとする「死の欲動」”Todestrieb”と名付けました。この「死の欲動」とは、生命を内的緊張が生じない状態である元々の物質の状態に還ろうとするもの。その一方で生命は、無機質から生命が誕生し二つの個体に分裂して以来、分裂した個体同士が再び融合することによって生命の刷新を行ってきたわけで、この融合と刷新を断続的に行うことで生命の不死性を確保しようとするのが、「生の欲動」”Lebenstrieb”です。フロイトは有機体が人間へと進化する過程の中でも受け継がれて来た生命の意識の中に、有機的生命体を生命なき状態へ引き戻すことを使命としている「死の欲動」と、生命を長らえて保持しようとする「生の欲動」が同時に存在するとしています。



 いかがでしょうか、ジャスティンが「死の欲動」、クレアが「生の欲動」を体現した存在なのだと思えませんか。ジャスティンがブーケを持って小川に浮かぶ姿を見て下さい。これはラファエル前派を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレーの代表作「オフィーリア」から着想を得ているそうなんですが、オフィーリアといえばシェイクスピアの「ハムレット」で、錯乱状態の果てに川に落ちて死んでゆく、まさに「死の欲動」―タナトスの体現者です。死こそジャスティンにとっての「救済」なのです。


Sir John Everett Millais ”Ophelia”


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ」 谷川多佳子 講談社選書メチエ
「フロイト講義〈死の欲動〉を読む」 小林敏明 せりか書房