078 「カサノバ」 "Il Casanova di Federico Fellini" (1976年 伊・米) フェデリコ・フェリーニ




 フェデリコ・フェリーニFederico Felliniの「カサノバ」"Il Casanova di Federico Fellini"(1976年 伊・米)です。御存知、晩年に自伝「カサノヴァ回想録(我が生涯の物語)」"Histoire de Ma Vie"を執筆したジャコモ・カサノヴァの波乱に満ちた人生を描いた作品です。音楽はニーノ・ロータ、主演はドナルド・サザーランド。



 いま、「波乱に満ちた人生を、女性遍歴を中心に描いた作品です」と言おうとして、とっさに「女性遍歴を中心に」を省いたんですよ。だって、カサノヴァといえば、黙っていたって、女性遍歴が中心、というよりほとんどそればかりになるのは、当人が書き残した回想録を読めば分かりきった話ですからね。


Giacomo Casanova 弟である著名な画家フランチェスコにより描かれた1750-55年頃の絵姿。

 物語は18世紀中盤のヴェネツィアにはじまります。文化爛熟のヴェネツィアです。そもそもカサノヴァはヴェネツィアの生まれ。で、死んだのはボヘミアのドゥクス城。パリを経て、ベルン、ドレスデンと、どんどん北上している。これは言ってみれば都落ち。ながーい時間をかけて、落ちぶれていったわけです。カサノヴァの生没年は1725年4月2日 - 1798年6月4日ですから、れっきとした18世紀人。19世紀には届いていない。18世紀っていうのはね、行動・実践の時代なんですよ。だからやたらと回想録が書かれた。19世紀になると職業作家というものが出てきて、文学の時代となった。つまり文筆で食べられるようになる。ところが18世紀、カサノヴァの時代は行動あるのみだったからむしろ「分泌」の時代。あ、これはダジャレですよ(笑)回想録なんて、文学としては認められていない。それが後々まで尾を引いて、サドやレチフあたりが文学としての地位を得るようになっても、カサノヴァの回想録は文学的な価値が認めてもらえないわけです。

 あらためて考えてみれば、回想録は小説ではない。書いている当人には、いい小説、上手い小説を書こうなんて考えはない。ただただ読者を楽しませようと、虚実ないまぜにいかがわしいことを嬉々として書いている。ナーニ、読んでいる方だって、嘘を承知で楽しんでいるんです。おかげで18世紀の風俗習慣の貴重な資料にはなっているんですよ。文学なんか、その意味では時代を映す資料になんかなりゃしませんから。高い調子で「人生とは・・・」なんてやられたって、後の時代の読者には、なんの役にも立ちゃしません(笑)



 カサノヴァの女性遍歴っていうのは、回想録に書いてあることを全面的に信用していいものかどうか、甚だ疑問もあるところです。読んだ人にはおわかりでしょう、「紋切り型」なんですよ。宮廷サロンの形式、我が国でいえば歌舞伎狂言の世界と同じなんです。つまり「お約束」どおりに展開して、「お約束」どおりに対応する。悩んだり葛藤したりするなんて、野暮です。野暮なことは言わない。それが宮廷人のマナーってもんです。19世紀のリアリズムはこれを無視してしまったから―というのは演劇的な作法をあえて排除してしまったから、「文学」になったんです。

 フランスでもどこでもいい、宮廷人、あるいは王室、たとえばポンパドゥール夫人の処世術をご覧なさい。誇るべきは美貌、それは王様を楽しませるため、退屈させないため。そこで必要とされるのは、啓蒙主義者や哲学者なんかじゃありません。オペラ歌手とか俳優女優に宮廷道化なんです。モーツアルトだってそんな時代だから重用されたんです。19世紀になっても、同じようなことをしていたのが、バイエルンのルートヴィヒI世の踊り子ローラ・モンテスです。ただ、時代が19世紀だったので、ルートヴィヒI世は退位に追い込まれてしまったのです。これが18世紀だったらなにも問題なかったはず。

 

 カサノヴァに話を戻すと、頭ンなかは女性のことばかり・・・というよりも、享楽にしか関心がないんです。これはケナしているのではありません。むしろ、ホメているんです。恋愛と誘惑の練達の士、それは己の享楽のためであり、しかしその対象を自らの享楽のための犠牲とすることなど思いも及ばず、優雅で快活な社交人の面目を保ち続ける、礼儀正しい宮廷紳士。だから別れた後でもカサノヴァの悪口を言う女性はいなかった。後に元カノに会っても、みんな好意的。女性に対する優しさと尊敬に満ちた誠実さにこそ、カサノヴァの面目躍如たるものがあるのです。

 もっともそれだけに、19世紀的な、社会からの孤立とか疎外された高貴な存在などという英雄的要素はない。ただただ生活を楽しいものにして、時には資金を作るために詐欺まがいの行状にも手を染めている。しかしどこかの国の政治家のような、立場や権力を行使しての不当利益ではない。そんなところが、微笑ましいのです。魅力あるペテン師。

 しかしやがて生活のためには宮廷から宮廷へと密偵のような役割を果たすようになって、遂には異端審問所の密偵にまで身を堕とす。そうでもしなければ生活できなくなって。その晩年の落魄ぶり―不本意な孤独と、女性もなければ金もなく、華やかさもない境遇は、時代に取り残された旧世代の宮廷人のそれです。これはカサノヴァのまったく個人的な問題というわけではありません。

 カサノヴァの回想録に書かれているのは1774年、すなわち49歳まで。もっともこれを書いたのはもっと後のことで、どうやら老いて病に伏せっていた1789年に冒頭の数章を起稿したらしいと伝えられています。これが正しいとすると、1789年なら既にボヘミアのデュックスで、孤独と退屈に満ちた、辛い生活を送っていた時期です。それなのに、「自分は告白録は書かん、なぜ書かんかと言えば、自分には悔い改めることなどなにもないからだ」と豪語しています。まあ、これはジャン=ジャック・ルソーが嫌いだったからだと思いますが、これこそがカサノヴァの矜恃であり、自分がそれまで生きてきた人生の責任を負う姿勢なのです。こういうところは見習いたいものですな。

 翻って我が国の例を見てみると、文明開化でいきなり自然主義が入ってきてしまった。つまり18世紀を飛ばして19世紀の文化が流入してしまった。おかげで行動人よりも、肉体はひょろひょろなくせに、頭でっかちな思索人、というより妄想人ばかりが生まれてしまった。だから左翼文学までが貧乏を売り物にするような私小説めいたものになってしまったわけです。そこに、ひとりだけ異を唱えるがごとく、「愉しい」フランス詩を紹介してくれたのが堀口大學なのです。ここんとこ、よく理解しておいて下さいね。



 さて、そうは言うものの、73年の生涯です。苦労もあったでしょう、絶望したこともあったはず。そんな生身のカサノヴァを、フェリーニはどう描いたか。フェリーニは、自分はカサノヴァを読んでいないなんて言っていましたが、これは嘘。結構読んでます。映画のなかでも、使えるところは使っています。ただ、いま「生身の」なんて言ってしまいましたが、フェリーニって、あまり生々しいものを描かないんですよね。いや、人間そのものは生々しいけれど、その人間がとる行動は、かなり客体化されてしまっている。やおらはじまる性交場面はサーカスめいたアクロバティックな「運動」で、横ちょでは機械仕掛けの鳥みたいなのがそれに合わせて「運動」している。

 

 その性愛場面には必ず見物人がいる・・・我々もその見物人の末席に連なっているわけです。おまけにロケを行わずになにもかもセットを組んでしまうのがフェリーニ流なので、スクリーンやモニタの前に腰かけているつもりの我々も、じつはそのセットのなかにいるようなもの。つまり、広場と見えても広場ではなく、サロンと見えてもサロンでもない、そこはカサノヴァ劇場。

 機械仕掛けといえば最初の鳥だけじゃない、風車もパイプオルガンも出てくる。みんな機械仕掛けの無機物。そして遂には機械仕掛けの女性までが登場する。これは時期的にはロンドンでシャルピヨン母娘に放り出されて、さしものカサノヴァも、その「回想録」では語らなかった、時代に取り残されつつある身を自覚せざるを得なくなってきて間もなくのこと。このあたりから「観客」はその姿を消して、見世物の舞台はくるりと回転して、回り込んだ裏側でカサノヴァも落ち目一方に―。

 

 晩年、城の使用人たちに嘲笑され、カサノヴァが夢見るのは機械人形ロザルパだったというのは象徴的ですね。これはおそらくE・T・A・ホフマンの「砂男」のオリンピアの引用と思われますが、磁器人形なので不妊不毛。これと水入らずの場面というのは、つまりはカサノヴァの機械人形への同一化。何者でもなくなるということ、そして冒頭のヴェネツィアの水の情景が回帰してきて、言うまでもなくこれは羊水のimage、文字どおりの回帰。母体回帰願望が果たされて、「回想録」に記した記憶こそが、胎児の見る夢となる逆転現象で幕を閉じるのです。

 申し遅れましたが、ドナルド・サザーランドはさすがですね。



 さて、私が読んだカサノヴァの回想録は、イギリスの怪奇小説作家アーサー・マッケン Arthur Machen が英訳した以下の12巻本です。

The Memoirs of Giacomo Casanova di Seingalt Twelve Volumes
Translated into English by Arthur Machen
Privately Printed for Subscribers only. The Casanova Socy.
(H.S.Nichols, 3 soho Square, London)



 初版は1894年で、私が持っているのは1922年のreprint。マッケンがウェールズの山奥で習ったフランス語はどうもおかしなシロモノだったらしいのですが、その翻訳は意外と正確で格調高いと定評があり、いまでも古書店(あるいは古書店の目録)で見かけることがあります。


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。