123 「テナント 恐怖を借りた男」 "The Tenant" (1976年 仏) ロマン・ポランスキー




 原作はロラン・トポールの小説「幻の下宿人」です。ポランスキーが監督と主演を兼務。脇にイザベル・アジャーニがご出演。



 storyは―

 パリの建築事務所で働くポーランド人のトレルコフスキーが、とある古めかしいアパートを紹介されて、無愛想な管理人に案内されたのは、前の住人のシモーヌという若い女性が窓から投身自殺を図ったいわく付きの部屋。

 まもなく入院中のシモーヌが他界したことで、トレルコフスキーは部屋を借りることができたが、階下に住む大家や古株の住人たちから相次いで理不尽なクレームを受ける。その悪意によって追いつめられ、精神の均衡を失ってゆくトレルコフスキー・・・。



 どうも陰々滅々としているためか、我が国では劇場未公開の、しかし紛れもなく、ポランスキーの傑作です。じつは、当初「マクベス」"Macbeth"(1971年 英・米)を取りあげようかと思っていたんですが、前回の「センチネル」"The Sentinel"(1977年 米)の話でこの映画にふれましたのでね。ひさしぶりに観てみたところ、記憶していたより以上の作品でしたね。

 いやあ、前半まではパリで異邦人が遭遇する「隣人トラブルもの」と見えるんですよ。ところが、部屋の壁に開いた穴から人間の歯が見つかったり、アパートの向かいの棟のトイレに立っている何者かが夜な夜なこちらを凝視していたり・・・と、日常に悪夢が浸食してくるかのような展開から、これ、なにもかも主人公の被害妄想じゃないか、と気付かされるんですね。一方で、前居住者のシモーヌという女性が、既に死去しているにもかかわらず、その存在感が迫ってくるのも恐ろしい。



 もともとポランスキーはユダヤ系ポーランド人。第二次世界大戦中にナチス・ドイツのホロコーストに巻き込まれ、両親を強制収容所に送られ、自らも流転のサバイバル生活を強いられた人。やはりその作品には幼少期のトラウマに根ざしたものがあるのでしょう。

 ついでに言っておくと、原作者であるロラン・トポールもまた、第二次大戦中に父が逮捕され、ピティヴィエの収容所に送られています。幸運にもアウシュビッツに移送されることなく生き残り、パリ南部に身を潜めたのですが、トポールや彼の姉は、家主から父親の居場所を明かすように説得されました。口を割らずにいたところ、フランス警察とゲシュタポが建物全体を捜索する予定であると隣人から知らされて逃亡、九死に一生を得て生き延びることができたという人。奇想作家のロラン・トポール、ご存知ですよね、ヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ」"Nosferatu:Phantom der Nacht"(1978年 西独・仏)でレンフィールドを演じていた人ですよ。

 さて、隣人への不信を描いているところは、同じくポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」と同様。しかしこの映画はオカルトめいたオチには着地しません。視点はあくまでトレルコフスキーなので、本当のところは推測するしかないんですが、隣人たちの嫌がらせが、じつは主人公の強迫観念と妄想の産物だったという解釈を可能とする展開です。だからサイコ・スリラーと呼ばれることもあるんですね。じわじわと浸食してくるもの、これがなんということもない、パリの古アパートで展開される物語であるところが怖い。それは、ニューヨークのアパートを舞台にした「センチネル」と同じです。



 なんといっても怖かったのは、病院にシモーヌを見舞うと、ベッドには目と口の部分だけを残して包帯でぐるぐる巻きの彼女が横たわっており、友人ステラ女性が声をかけると、突如、恐怖の叫び声をあげるところ・・・。しかもこれはある意味で伏線ですからね。あと、部屋の壁の穴から人の歯が出てくるのも、これ、恐ろしいというよりも、生理的な嫌悪感を催させるものがあります。



 中庭を挟んだ向こう側の棟の共同トイレの窓から、何者かがこちらを凝視している・・・なんだか、ハンス・ハインツ・エーヴェルスの短篇小説「蜘蛛」を思い出させるシーンですが、これがじつはトレルコフスキー自身だった、というのは、これはちょっとネタばらしですよね。私は、ここでこの物語の全体像が見えてきました。



 誰しもはじめに気付くのは、異邦人の疎外感というテーマでしょう。

 そもそもトレルコフスキーは路上に放り出されたも同然、どうしても住居を探さなければならない必要に迫られていたわけですよ。これはナチスから逃れようとするユダヤ系ポーランド人と同じ。

 家主や隣人たちの偏執的な嫌がらせが現実なのか、ことさらに疎外感を抱いているトレルコフスキーの被害妄想なのか・・・。

 前者である場合、トレルコフスキーは自らの意識の標的を家主や隣人に向けることができるような男ではない。なぜなら、自分が小心者で根無し草の異邦人だから。後者であるとすれば、隣人に対して偏執的に執着しているのはむしろトレルコフスキーの方であるということになります。しかし、それでもその意識は家主や隣人たちには向けられません。家主や隣人たちの視線、すなわち彼らが見ているであろう自分自身に向けられてしまうのです。理由はやっぱり、自分が小心者で根無し草の異邦人だから。

 それが、共同トイレの窓から、トレルコフスキー自身がこちらを凝視している、という場面にあらわれているんですよ。この映画はトレルコフスキーの視点で描かれているわけですが、それが外部には向けられていない。徹頭徹尾、トレルコフスキーの自意識に向けられているのです。見つめているのも、見つめられているのも、自分。

 一方で、叫びながら投身自殺を図ったシモーヌが病院で亡くなり、その古いアパートに移ってきたトレルコフスキー。シモーヌが窓から飛び降りた理由は不明なままであり、この時点でトレルコフスキーの頭にはこれが引っかかっているわけです。そして彼女の家財(衣装も)がおかれたままの部屋に住むことになる。

 つまり、異邦人の疎外感、前居住者の不審な自殺、その家財に囲まれている状況と、お膳立てが整った状態におかれていた過剰な自意識が、人格解離を誘発してしまった・・・トレルコフスキーは前居住者であるシモーヌその人になってしまったのです。だから、疎外感が主たるテーマではありません。トレルコフスキーのidentityの問題なのです。じっさい、世の中で報告されている「憑依現象」というものは、こうした経緯で発生したものなんじゃないでしょうか。つまり、多重人格ですよ。

 ただし、私はそんな理屈を付けてまで「スッキリ」したいとは思ってはいません。不条理系と観てもよし、それでも十分怖い。suspensiveなstoryとそのまま受け止めてもかまわないと思います。どのように観たとしても、なにより恐ろしいのは、シモーヌになってしまったトレルコフスキーが窓から身を投じた、この自殺が無限のループとなることですね。



 映像も、不安をかき立てるようなカメラワークは見事なもので、ポランスキーの演技も、容姿も含めて、この役柄にはうってつけでしょう。


(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。