138 「フレイルティ ― 妄執」 "Frailty" (2001年 米) ビル・パクストン 1990年代あたりから、悪魔祓い映画が数多制作されたのは、やはり世紀末的・黙示録的visionの息吹によるものでしょう。それでは21世紀の盛況ぶりは? これは悪魔祓いが黙示録的ということではなくて、世紀を超えてしまって、いまさら黙示録でもなくなってしまっても、悪魔憑きなら問題なく制作できるから。それに、もうひとつ考えられる理由は、これは1980年代あたりからのことなんですが、アメリカでキリスト教原理主義の福音派が勢力を増してきたこと、これも理由のひとつといえそうです。 アメリカでは、宗教ロビーと呼ばれる宗教票が大統領選挙に大きな影響を与えますのでね、とくにブッシュJr.大統領在任中(2001-09年)には、福音派はいっそう勢力を拡大しています。米国同時多発テロ(9.11)のあと、イラク戦争に関して「十字軍」だとか「聖戦」などと発言したのはそのあらわれでしょう。2004年の大統領選挙戦では、パット・ロバートソンなどのカリスマ伝道師やテレビ伝道師の力も借りています。だからブッシュ政権時代に、妊娠中絶や同性愛などに反対するキリスト右派が存在感を高めたんですよ。言うまでもなく、トランプ大統領を誕生させた背後にも福音派の支持がありました。いまでは、もともとアメリカでは巨大勢力ではないカトリック保守も、中絶やLGBTの権利の問題となると、福音派に同調している始末。 話を戻して、黙示録。「ヨハネの黙示録」というのは、当時新興だったキリスト教がローマ帝国に激しく弾圧されていた紀元1世紀の終わり頃に書かれたもの。「いい気になっているけど、もうすぐ世の終わりが来て、そうしたらおまえらもうおしまいだからな、でも神を信じているおれたちはちゃんと復活できるんだもんね」という内容。黙示録というのはvision、つまり神から受け取ったvisionを書いたものということです。いつの時代にも「私は神から直接メッセージを受け取った」と称するイカレポンチはめずらしくない。新興宗教なんてそんな連中の吹きだまり。精神に異常をきたした人が書いたものなんですよ、「ヨハネの黙示録」というのは。せいぜい「麻薬中毒者の幻覚の興味深い記録」であり、「単なる狂人の戯れ言に過ぎない」のです。これ、私が言っているのではありませんよ。前者はジョージ・バーナード・ショウ、後者はトマス・ジェファソンのことばです。 言うまでもなく、「ヨハネの黙示録」はキリスト教とはなんの関係もありません。書いたのもヨハネではない。書いたのは、たぶん終末論の大好きな人。これをまともに相手にするのも、終末論の大好きな人たち。そのなかで一派をなすのが福音派です。2005年に、「これは祝福だ! 断れば神の罰が当たる」と言って小学6年生の女児を強姦して逮捕された永田保(本名・金保)牧師が創設していた「聖神中央教会」も、プロテスタント福音派の教会です(福音派の主流はプロテスタント)。福音派というとカルト宗教だと思っている人がいますが、そもそもは歴としたキリスト教、非主流ではあるけれど、プロテスタントなんですよ。 福音派の特徴は、進化論を否定して中絶・堕胎に反対。離婚にも反対。終末論大好き。もう何十年にもわたって、「○○○○年△月×日に神が降臨して世界が終わる」と言い続けており、その日になってなにも起こらないと、次は「□月※日」と予定を繰り延べているんですよ、その繰り返し。一生やってろ。 福音派を一目で見分ける方法。牧師が大声で叫んだり、信者たちが泣きながら「ハレルヤ!」と絶叫したり、歌ったり踊ったりしていたら福音派だと思って間違いありません、これホント。「エンゼル・ハート」"Angel Heart"(1987年 米)で黒人の牧師が信者に向かって叫んでいるシーンや、「ディアボロス / 悪魔の扉」"The Devil's Advocate"(1997年 米)でキアヌ・リーヴス演じるケヴィン弁護士の母親が通っている教会なんかは、典型的な福音派の集会を描いたものです。もちろん、前回Hoffmann君が取り上げた「ラスト・エクソシズム」のコットン・マーカス牧師も福音派です。 左「エンゼル・ハート」"Angel Heart"(1987年 米)、右「ディアボロス / 悪魔の扉」"The Devil's Advocate""(1997年 米) 福音派はともかくとして、キリスト教原理主義をベースにした終末論を取り入れた悪魔映画が「オーメン」"The Omen"(1976年 米)の、とくにその第3作「オーメン / 最後の闘争」"The Omen III : The Final Conflict"(1981年 米)です。成人したダミアンが親から引き継いだソーン財団のトップに君臨して大使となり上院議員に立候補。金を持っていてエリートで、政界に颯爽と登場する・・・これはまさしく福音派が考える「アンチ・クライスト」像そのまま。最後はイエス・キリストの前に敗北するわけですが、そこに至るまでが原理主義者のシナリオと一致している。わかりますよね、「エクソシスト」はあくまで局地戦。「オーメン」は世界の終末までに至るスケールの大きい話なのです。その反面、というより、だからこそ胡散臭い三流映画に堕してしまっているんですよ。最後の神の登場シーンなんて、失笑ものじゃないですか(笑) そこで福音派が大喜びしそうな映画が今回取り上げる「フレイルティ ― 妄執」です。これは「エイリアン2」"Aliens"(1986年 米)、「タイタニック」"Titanic"(1997年 米)などに出演した俳優のビル・パクストンの第1回監督作品。ご本人も父親役でご出演。 storyは― ゴッドハンド(神の手)と呼ばれる連続殺人犯の捜査をしているドイル捜査官のもとにフェントン・ミークスという男が現れ、犯人は自分の弟だと告げ、その弟が「周りに悪魔がいる」と謎のことばを残して自殺をしたという。これを信じないドイル捜査官に、フェントンは幼少時代の父の話を続ける・・・。 フェントンは10代前半の少年で、弟アダムが小学生であった頃、自動車修理工の心優しい父がある日突然、天使を見た、神から「悪魔を滅ぼせ」との使命を与えられたと言い出す。 父親はある納屋で見つけた斧、手袋、金属パイプを、神から与えられた三つの武器だと言って、悪魔退治と称して殺人に手を染める。それでも父親は「人殺しではない。悪魔を滅ぼしているのだ」と言い張り、まだあどけないフェントンの弟アダムも父親に同調する・・・。 家族の中で孤立していく長男フェントンは、逃げ出したい衝動に駆られるも、愛する弟を見捨てるわけにはいかない。いや、父親だって、常軌を逸した言動を別にすれば、息子たちを思いやる善良なテキサス人として描かれているんですよ。しかしある日、フェントンは、父親が悪魔だという男を殺害するように命じられる。土壇場でフェントンは斧を父親に突き立てる。 じつはドイル捜査官のもとに現れたのは兄フェントンではなくて、弟のアダム。成長した弟は兄を殺害していたのです。この映画、アダムの狂信・妄執の行き着く果ては・・・と見えるかもしれませんが、じつはそんな単純な話ではありません。 叙述トリックという点では、語り手フェントン(じつはアダム)は「信用の置けない語り手」なんですよね。だから、見ている側はその語るところを疑いを持って聞いているわけですが、その隠されていた「真実」が明かされたとき、これはかなりの衝撃です。父親は、悪魔の姿をした人間に「手」で触れると、その悪魔が過去に犯した残酷な所業のvisionが見えると主張していたのですが、クライマックスでこの複数のvisionをまとめて見ることができます。つまり、「父親は本当に神の声を聞いていた」ということになるのです。それどころか、フェントンはアダムに「自分を滅ぼしたらきっとこのバラ園に埋めてくれ」と言っていますよね。「滅ぼしたら」って。これは、じつはフェントンが悪魔であり、そのことには当人もアダムも気づいていたのかもしれないという「匂わせ」なんですよ。 もちろん、父親やアダムが神の啓示を受けたということを疑って観ることも可能ですが、素直に観れば、神の啓示は本物だった、ということになります。最後の、保安官事務所でのシーン。保安官はなんとアダム。訪ねてきたのはFBIでアダムの訪問時に応対したハルなんですが、彼には眼前のアダムとかつて会っていることに気がつかない。これはFBIの監視カメラ映像で、アダムの顔がノイズまみれで確認できないのと同様、神の加護ということなんでしょう。そして帰り際に握手して、アダムはハルの手を握ったまま「あなたはいい人だ」と真顔で言う。ああ、そういうことか、とわかりますよね。 私は最初に「福音派が大喜びしそうな映画」と言いましたが、念のため断っておくと、これこそが皮肉。「福音派が(単純に誤解して)大喜びしそうな映画」という意味です。 これは、残虐極まりない殺人を重ねることも、それが“神の啓示によるもの”である場合には、正当化される、なぜなら相手は悪魔だから・・・という、一線を越えてしまった映画です。もちろん、監督のビル・パクストンは「選民思想・他罰主義」の行き着く果てを描いているのです。つまり、この映画で描かれているのは、「福音派の主張が正しかったら世界はどうなるのか?」ではありません。「福音派の主張が正しいとされたらどうなるのか?」ということなのです。原理主義者・福音派の本質を、皮肉をもって描いているんですよ。 (Klingsol) 参考文献 とくにありません。 |