146 「エイリアン」 "Alien" (1979年 米) リドリー・スコット 内田樹が「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」(文春文庫)で、現代思想解説のネタに、この映画のフェミニズム批評を展開(紹介)しています。そのおかげかどうか、いまでは「エイリアン」といえばすっかりこの文脈で語られるようになってしまいました。いや、その論旨はまことに明快で、説得力もあるんですけどね。 まずはその内容をまとめてみましょう。 主人公リプリーは「白馬の王子さまの救援を待たず自力でドラゴンを倒す」自立した「お姫様」である。ハリウッド映画がはじめて造形に成功した「ジェンダー・フリー」のヒロイン。 この物語の背後にあるのは、中世以来ヨーロッパ各地に伝承される「体内の蛇」という、妊娠と出産による母になることに対する女性の恐怖と不安と嫌悪というモティーフ。「産む性」による「産むことへの恐怖と嫌悪」は抑圧されているが、抑圧されたものはなにかのきっかけで表出する。 H・R・ギーガーによるエイリアンは頭部が男根状、攻撃の前には口元から半透明の液を滴らせ、自己複製を作り出そうとする、これは男性の性的攻撃の記号。 アンドロイドであるアッシュがリプリーを暴行する。追い込まれたのは、所狭しとヌードピンナップが貼られた空間。女性を性的玩弄物としてしか見ない性文化が支配する空間。アンドロイドだから性機能はない不能者なので、疑似男根として雑誌(日本の「平凡パンチ」で、表紙写真は木之内みどり。知ってる?)を丸めてリプリーの口に突っ込むことで、「レイプ」する。バットで殴られて首がもげるのは去勢の象徴、レイプ未遂に対する罰。その口や首から白い体液をまき散らすのは射精。いや、ご丁寧なことに、その暴行に先立つシーンで、唐突に、リプリーは鼻血を出し、アッシュは額から白い汗(体液)を流している。 シャトルで脱出する際にリプリーは猫を探す。猫は"Pussy"、すなわち"vagina"「女性器」。これを忘れてきたといって探しに戻るというのは、これまで意識的に忌避してきた「女性性」を取り戻そうとすること。「女であること」から逃れられない、そしてこの女性性器の記号を探し回ることによって、無駄に時間を空費して危機を招くことになる。「自爆装置」は勃起してくる4本の金属の棒。勃起してから5分たつと、もう鎮静することが不可能になって、「爆発する」しかない代物。 ―簡単にまとめると以上。これはこれで納得のいく解読です。 ひと言で言えば、テクノロジーと生殖の不安を重ね合わせているわけです。貨物宇宙船ノストロモ号は、それ自体が、テクノ・ベビーが穏やかに眠る居心地のいい子宮です。スイスのシュルレアリスト画家、H・R・ギーガーのデザインによる、宇宙の果てで出くわす遺棄されたと思しき宇宙船は、生きているのか死んでいるのか分からない有機体です。とにかく、ドアや空洞が多いでしょ、これもまた子宮なんですよ。 ケインが卵のようなものから飛び出したエイ状の「フェイス・ハガー」に襲われて、食道になにかを挿入される。ノストロモ号に帰還して、いったんは回復しますが、食事中に、順調に成長したエイリアンがケインの胸を喰い破って飛び出す。この時点で、ノストロモ号は有機体のための繁殖場となるわけです。なお、食卓というのは父権主義の権力が行使される場です。その場がエイリアンによって破壊される、これはケインという男性が帝王切開によって出産するということなんですが、ケインって色白でちょっと女性的でしょ。ケインはここで、白人女性の代理として性の暴力による出産を果たしているのです。念のため説明しておくと、ケインの顔に貼り付いたフェイスハガーは、ケインにオーラル・セックスを強要して、さらに卵を産み付けていた、生殖をしていたのです。 エイリアンの姿たるや、骨格が浮き立って、昆虫を思わせ、機械的でエロティックですよね。ここでは正反対の要素が同居しているんです。雄にして雌、人間にして昆虫、生物にして機械・・・エイリアンは境界攪乱の表象なんですよ。頭部の形にしても、口元から半透明の液を滴らせているのも、いかにも「男根的象徴」そのもののようですが、同時に男たちの男根を喰いちぎる、「牙の生えた膣」でもあるのです。雄であり雌でもあるということは、性の境界をも攪乱する存在だということです。ジェンダー上の両性具有。だから男性も女性も襲われる。 内田樹が指摘しているとおり、この物語の背後に、妊娠と出産による母になることに対する女性の恐怖と不安と嫌悪を象徴する「体内の蛇」というモティーフがあるというのは、たしかに納得できます。抑圧されていた、「産む性」による「産むことへの恐怖と嫌悪」が表出したのが、エイリアンがケインの胸を喰い破るシーンでしょう。このとき、食事中であるのは、「体内の蛇」は食事の匂いにつられて出現し、犠牲者が死ぬというのが、「体内の蛇」の基本的なプロットであるため。ここで、生殖を不自然な「寄生」と見なす心理を反映しているわけです。出生ということに対して女性(文化)が抱いていた、そして抑圧されていた罪悪感を伴う嫌悪を、あからさまに示している。しかもその胎児を成長させ、人間=文化そのものに敵対する怪物に変容させている。だから、最後にエイリアンが宇宙船から外(宇宙空間)に放り出されるのは「堕胎」なんですよ。「堕胎」が唯一の解決策。 しかし、男尊女卑の父権社会に楯突く「生意気な」ヒロインが、そのままですまされるわけがない。 「エイリアン」のラストシーンは、救命艇シャトルからエイリアンを外に放り出すことに成功したリプリーが、地球に「回収を期待します」との連絡をして、スリープ・カプセルで眠りにつくというもの。あれれ、ここに至って、リプリーはいずれ目覚めさせてもらうことを待つ「眠れるお姫様」=「規範的女性」に矯正されてしまっているのです。 そればかりか、「エイリアン2」"Aliens"(1986年 米)では奇跡的に生き残っていた少女ニュートを救うことで、リプリーは擬似的な母子関係を築く、つまり、母親になるのです。あれほど、女性性であることを排除していたのに。一方、卵の前で産卵管によって身動きがとれないでいる女王エイリアンは、家に閉じこもって育児に専念している母ですよね。リプリーはその女王エイリアンの眼前で、卵を焼き払う。そして母対母の戦いとなる。女王エイリアンは船外に放り出される結末ですが、これをもって、リプリーの「母性」の勝利を讃えることができるんでしょうか。違います。リプリーは「母」=女性に矯正されることで、ようやく生き延びることができたという結末なんですから。それは、この物語の登場するもうひとりの女性、筋骨隆々たる兵士バスクエスは、女性となることをあくまで拒否した結果、殺されていることからもわかりますよね。つまり、ペニスのような巨大銃器を構えたバスクエスは、性差を撹乱した罪で死ななければならなかったのです。 「エイリアン3」"Alien 3"(1992年 米)ともなると、もはや舞台となる囚人星には女性性は存在せず(存在を許されず)、リプリーが連れてきてしまったエイリアンによって、「男たちだけの世界」は壊滅的な災厄に見舞われる。そのあげく、リプリーは体内に寄生したエイリアン・クイーンから「自分を守るために」溶鉱炉に身を投げる。男性の自己複製の道具となること、その「社会的役割」を、あくまでも拒否している。「体内の蛇」の抑圧を潔しとせず、自ら振り払う行為です。攻撃に対する拒否。その結末は「死」。たまたまなんですが、アメリカでは「エイリアン3」公開直前に、堕胎の権利に水を差す最高裁判決が出ているんですよ。この結末は、そうした社会の流れに対する抗議でもあるのかもしれません。 それはともかく、「エイリアン」(シリーズ)は、自立したジェンダー・フリーのヒロインを描いていますが、これを称揚しているとは到底考えられません。だって、その結末たるや、自立した女性、男性の自己複製を産むことを拒絶する女性は、父権社会の凄まじい攻撃を受け、すべてを失い、夫も子供も殺してしまったうえ、自らも死を逃れない・・・フェミニズムは徹底的に裏切られ、断罪されているんですよ。 さて、内田樹が紹介しているフェミニズム系読解と、これに沿った若干の考察は以上としまして、引き続きParsifal君にバトンタッチしましょう。 (Hoffmann) ************************* 以前、「黒い蠍」"The Black Scorpion"(1957年 米)を取り上げたときに、次のようなことをお話ししたの、覚えていますか? もともと1950年代あたりには反共(反ソ連)映画が量産されていたのですが、レーガン政権時代になると、これに加えてベトナム戦争も含めた記憶改変映画が増えましたね。無益な戦闘は栄光ある未来のための犠牲という美談にすり替えられる。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年 米)などという、ハリウッド映画史上稀に観るほどとてつもない愚作もその流れにあるものです。一見、崩壊しつつある家庭の回復、そのための強い父親像の復活をテーマとしているように見えますが、その実、そこでは過去の侵略戦争のトラウマ治療と記憶改変が行われているのです。そうして家庭や国家を理想的な形態とするためには、劣等な種族を滅ぼさなければならない。それは映画のなかでは、1950年代には巨大アリや巨大サソリ、巨大カマキリであったりする。これが1970年代以降となるとエイリアンになったりする。「エイリアン」"Alien"(1979年 米)といえば、現在ではフェミニズム系の映画としての解釈ばかりが取り沙汰されているようですが、よく観るとフェミニズムは結構裏切られていて、むしろ植民地主義が前面に出てくることにもご注目いただきたいところです。 あのとき、うっかり「エイリアン」だの「植民地主義」だのと言ってしまったので、ここでその続きをお話しします― ハリウッド映画、とりわけホラー映画を解釈するにあたっては、女性の性が抑圧されたものとして扱われていることを見逃すわけにはいきません。女性は男性を脅かす怪物である、と。あるいはその視線が男性の欲望を喚起しているとか、怪物と一体化しているとか―。だから女性は男性である怪物によって、性的であることに対する罰を受ける、男性ヒーローに救ってもらえるのは、家父長的権威に自ら服従する意思を示した場合のみである、と。 抑圧っていうのはなかなか便利な概念で、抑圧が怪物を生み出したとすることもできるし、抑圧する側を悪とみなしてもいい。立場は保守でも反動でも自由自在。再構築でも脱構築でもなんでもござれ(笑) 無意識の領域に還元してしまうと、もうその真偽をたしかめる術はありません。だから異論を差し挟むことにも躊躇してしまう。フェミニズム批評の独裁ぶりは言うに及ばず。うっかり反論でもしようものなら、袋だたきにされちゃいますよ(笑・・・いごとではない)それこそ抵抗が抑圧されてしまいます。 「エイリアン」に関するジェンダー理論にも、似たものを感じます。抑圧って、女性だけ? というか、性的なものに限られた話なの? 「母性」と「家父長制」と「生殖」の3つの単語だけで片付けちゃってホントにいいの? ・・・というわけで、ここでは少し視点を変えて「エイリアン」を読み解いてみたいと思います。 キーワードは「植民地主義」です。「エイリアン」を、文明人による未開の世界への進出とフロンティアの拡大という歴史的文脈のなかで問い直してみましょう。 「エイリアン」だって生物なんですから、その寄生、自己複製を、獣姦・異民族との混淆と見立てることはできないでしょうか。つまり未開の地への植民に伴う、異文化・異種族との遭遇です。たとえば絶海の孤島、イースター島には巨大なモアイ像がありましたよね。あれだって、はじめて見つけた人は、おそらく、滅び去った高度な文明によるものであろうと考えたんですよ。 文明人の海外進出、ここでは宇宙進出ですが、探し求めているのは植民地。見たこともない風景。「エイリアン」なら、磁気嵐に包まれた地で発見したのは、異星人の巨大な難破船です。つまり、おそらく高度な文明によるものであろう、「不気味な建造物」です。 肌の色も違って、我々人間よりも動物に近いと感じられるケダモノじみた、得体の知れない土着民。植民地にするならば、現地人を自国の利益にために従わせなければならない。しかしそこには異文化があり、ことはそう簡単には運ばない。まずは力で従わせる。ところが相手は図体も大きく、牙をむいて威嚇してくるばかりか、好戦的で、抵抗(攻撃)してくる。あるいは、カニバリズムの風習を持っているのかもしれない。女性に至ってはレイプされる危険もある・・・いや、類人猿じみた連中だって、生殖はするでしょうから。 これが「エイリアン」では・・・って、もう説明の必要はありませんよね。つまり、未開の土地で航海者が遭遇した「他者」に対する恐怖がSF仕立てで描かれているのが「エイリアン」というわけです。 さて、大航海時代のヨーロッパ人たちは、好奇心から、あるいは物珍しさから、はたまた捕虜として、現地人を連れて帰ることもありました。航海の目的が黒人奴隷貿易なら、現地人を連れて帰ることがそもそもの目的です。 「エイリアン」において、アッシュが会社の利益のために、乗組員を犠牲にしてでもエイリアンを持ち帰ろうとするのは、「キング・コング」"King Kong"(1933年 米)を思わせますよね。「キング・コング」の場合は稀少生物の確保で、しかも誰から命じられたわけでもない、映画制作者デナムが見世物にして金儲けにしようという動機で捕獲したのですが、いずれにしても、宇宙船ノストロモ号が貨物船であるというのも納得です。ひょっとすると、乗組員はあらかじめ用意された「餌」だったのかもしれない。 はじめのうちは連れて帰っていたものが、やがてその地を植民地とするようになったときには、彼らを現地で奴隷化し、鉱山やプランテーション農業に従事させることになります。つまり、「捕獲」から「馴致」に移行したということ。「捕獲」は黒人奴隷貿易で、主にアフリカ西海岸において行われ続けることになります。 そのように見ると、ここにおいて黒いエイリアンを黒人の暗喩としてみることも可能です。先住民としての黒人、といった方が適切かな。エイリアンに襲われることは、異種混淆の恐怖です。 「エイリアン」にも黒人が出てきますよね機関士のパーカーです。過酷な仕事に加えて、給与も格差がついていると、愚痴をこぼしています。つまり、彼はすでに「捕獲」され、「馴致」された黒人という存在なんですよ。それこそ、「抑圧」されている。これが自分の意思・本能のまま抵抗し、反逆するのがエイリアンなんです。いや、じつはパーカーもまた、ついに白人を金属バットで殴りつけています。殴られたのがアンドロイドのアッシュであることから、黒人が白人に暴力を振るったという事実を、うっかり見過ごしてしまいがちなんですが、彼はエイリアンが白人の腹を喰い破ったのを見て、長年の抑圧から解放されて、同じく白人に復讐を果たしたわけです。その意味では、最後にパーカーはエイリアンに殺させずに生き残らせてもよかったと思うんですが、そのような展開にすると、さすがに白人ばかりが襲われることになって、寓意としてあからさまに過ぎることとなったかもしれません。 なお、「エイリアン2」においては、エイリアンは明白に、植民地の先住民の扱いになっています。あれはもう、騎兵隊とインディアンの闘いをSFに焼き直したものです。 (Parsifal) 参考文献 「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」 内田樹 文春文庫 「恐怖の表象 映画/文学における〈竜殺し〉の文化史」 西山智則 彩流社 |