158 「サスペリア PART2」 "Profondo Rosso" (1975年 伊) ダリオ・アルジェント




 じつはこの映画については、「本を読む」でフリッツ・ライバーの「闇の聖母」を取り上げたときに、少しだけふれています。引用しておくと―

 
上記「サスペリア」のヒットを受けて、我が国ではその後1975年の作品、”Profondo Rosso”(紅い深淵)が「サスペリア PART2」という邦題で公開されましたが、これは「サスペリア」の続編ではありません。おそらくダリオ・アルジェントに詳しい人ならば「紅い深淵」と呼んでいるであろうこの作品は、超自然がテーマではなく、いわゆる「ジャッロ映画」。storyの鍵となるトリック(というか、仕掛け)は驚くべきもので、個人的にはこれがアルジェントの最高傑作ではないかと思っています。

 正直なところ、ダリオ・アルジェントは過大評価されすぎていると思うのですが、この「紅い深淵」は別格です。


 ・・・「過大評価」とか言ってますね。ダリオ・アルジェントのファンから石が飛んできそうだ(笑)いやあ、満更嫌いじゃないんですよ、一般に欠点と言われているようなところも含めて。でもね、1980年代あたりからはあまりいいと思えない。ダリオ・アルジェントは初期の方が好きなんです。

 このときにもお話ししているとおり、「サスペリア PART2」は「サスペリア」"Suspiria"(1977年 伊)の続篇ではありません。それどころか、製作されたのは「サスペリア」よりも前。我が国で「サスペリア」がヒットしたので、同じアルジェント監督の前作に、勝手に「サスペリア PART2」などという邦題を付けてしまっただけのこと。原題は"Profondo Rosso"、すなわち「紅い深淵」。この副題を付けたDVDも出ており、個人的にはこれに倣って「サスペリアPART2 / 紅い深淵」と表記したいところです。



 storyは―

 あるクリスマスの夜、レコードから子供の歌が流れるなかで発生した殺人事件―。

 それから数十年後、欧州超心霊学会でテレパシーの持ち主であるヘルガ・ウルマンが突然悲鳴を上げ、「聴衆の中にかつて人を殺した邪悪な者がいるのを感じた。そしてその者は再び人を殺す」と発言する。

 その晩ヘルガはアパートに戻り電話をしていたが、どこからともなく子供の歌が聞こえてきて、ドアの呼び鈴が鳴る。彼女はドアの前に立つとドアが開き、大きな包丁が彼女に振り下ろされた。

 同時刻、アメリカ人ピアニストで作曲家のマークは友人のカルロと出会い雑談。その直後、ヘルガの悲鳴を聞き、アパートの窓越しにヘルガが殺されるのを目撃する。マークは彼女の部屋へと向かい、息絶えたヘルガが倒れているのを発見、窓から外を見ると黒いコートを着た者が逃げていくのを見る。

 警察が部屋を調べている中、マークは廊下の壁に掛けられた絵がひとつなくなっていることに気づく。そこに女性新聞記者ジャンナが現れ、マークの写真を撮り、翌日の新聞に掲載した。犯人に自分が姿を見たことを知られたと思ったマークは事件の真相を探りはじめる・・・。



 作品としてはサスペンス・スリラー風味の「ジャッロ映画」といったところで、ちゃんと(?)ホラー映画の要素が加味されています。残酷な殺人描写、二転三転するstory、アルジェント作品でお馴染みのゴブリンの音楽など、アルジェント映画の定番となる特徴はこの時点で備えられています。もちろん、色彩やカメラの動きも・・・。



 冒頭の霊能力者ヘルガが講演している劇場の深紅のカーテンを開いて入ってゆくカメラ、そのカメラの位置と動きで一気に引き込まれてしまいますね。このシーンのなかで、カメラは既に殺人鬼の視線になっています。



 主人公であるピアニスト、マーカスと友人カルロが出会う広場、これは北イタリアのトリノ中心部に近いCLN広場です。画家エドワード・ホッパーの描いた店を参考にして作られたというバー、ガラス越しに見える客たちはまるでマネキンのようにほとんど身動きしません。



 このstaticな印象のシーンに、ヘルガの惨殺シーンが割り込んでくるわけですが、遠目に見ているので声や音は聞こえず、まるでサイレント映画のようにも見えるんですね。そこにガラスの割れる音と悲鳴が割り込んでくる・・・。



 この映画内で命を落とす5人の死に様ときたら・・・ヘルガは肉切り包丁を背中に振り下ろされて、窓ガラスの破片が首に食い込む。作家のアマンダは殴られたあげくバスタブの熱湯に顔を沈められ、ジョルダーニ教授は行方の角の顔面(口)を何度もぶつけられたあげく首にナイフを突き立てられ、主人公の友人カルロはトラックに引きずられたあげく別な自動車に頭部を轢かれる・・・と、「あげく」だらけ、いずれも一撃で絶命するのではなく、二段階以上の手順を踏んでとどめを刺されている、つまり、しつこい。殺人シーンが「見せ場」であることを分かっているんですよ。使われるのはいずれも特別な凶器ではなく、ごく一般的なもの。ラストの古いエレベーターによる断首にしても、集合住宅の旧式エレベーターという、「日常的」なものが凶器となっていることにご注目。



 storyの中心軸にあるのは、、過去の封印された記憶を解き明かすというプロットです。それははじめに霊能力者によって暴かれ、次に幽霊屋敷の壁に塗り込められた殺人の絵、閉じられた隠し部屋が発見されるという順番で、徐々に明らかにされてゆき、ラストは殺人現場から消えた思われていた主人公が見た絵画、その記憶が甦ることで白日の下にさらされる・・・その決定的瞬間の絵面(えづら、画面、シーン)を観客の目、その注意力と記憶力に委ねたところ、一発勝負といえばそれまでですが、なかなか卓抜なアイデアじゃないでしょうか。

 つまり、これは決して皮肉で言うのではなく、プロット、storyはたいしたことはなくても(場合によってはヒドイものでも)、imageの残す強烈な印象だけで映画全体が保たれてしまうということ、これを証明したのがダリオ・アルジェントなんですよ。



 機械仕掛けの人形がケタケタ笑いながら部屋に飛び込んでくる、意味が分かりませんよね。こんなのはアルジェント作品ではめずらしくもないこと。


「インフェルノ」"Inferno"(1980年 伊・米)から―

 たとえば「インフェルノ」"Inferno"(1980年 伊・米)では池に猫を捨てにいった骨董屋が池の泥に足を取られて悲鳴をあげると、ホットドッグ屋のコックがすっ飛んできて、いきなり包丁を振り下ろして殺してしまう・・・いったいなにが起きたんだ、と誰でも思うはず。この不条理といいたいような、まったく脈絡のない展開が、それだけに強烈なインパクトを残すわけです。


「4匹の蠅」"4 mosche di velluto grigio"(1971年 伊)から―

 「4匹の蠅」"4 mosche di velluto grigio"(1971年 伊)のラストの自動車のフロントガラスが砕け散る超高速撮影映像なんかも、これは脈絡がないわけではありませんが、この映像を撮りたかったからでしょ、それだけと言ってしまえばそれだけ。この場面、全体から浮いていることはたしかです。これなんか、特殊なカメラを取り寄せて、テスト撮影を繰り返し、その費用をサポートしたのはプロデューサーでもある父親サルヴァトーレ、だから悪くとれば、「わがまま」が通用するだけの援助がファミリーから得られたということ、そのファミリーがなければ、これまでダリオ・アルジェントが撮ってきた映像はなかったであろうとも言えるわけです。とはいえ、作品というものは結果がすべて。私だってここで戦後マルクス主義みたいに、その作品群を、「憎むべき資本主義のブルジョワ的形式主義」呼ばわりなんぞしませんよ(笑)

 つまりね、アルジェントはこういうシーンを「撮りたかった」んですよ。そのために無理矢理につじつまを合わせたり、登場人物に余計な動きをさせたり説明させたりはしない。そのような、storyを破綻させないため(だけ)の、「余分な」要素は省いてしまっているんです。ミステリ・タッチでも、謎解きや犯人捜しが描きたいことの中心ではないのです。

「確かに君の言う通りだ。でもな、私が何て言うかはわかるよね」。私は彼の異議を認めつつ答えた。「そんなこと、どうだっていいんだよ」

 これはかつて惨劇の舞台となった「屋敷」が、父親と母親と息子だけが住むには大きすぎやしないか、と指摘されたアルジェントが返したことば。アルジェントの自伝には、このエピソードに続けて次のように書かれています―

 もし首尾一貫した世界観を作りあげることができたならば、たとえそれがどんなに狂気じみたものだったとしても、ある種の嘘っぽさを観客は気にしなくなる。それは、自身が語りたいことを語るためには必要不可欠で、そのことを自分のキャリアの中から学んだ。

 そこが、低予算で、短期間で、テキトーに、作ってしまったために破綻しちゃっている二流三流との違い。ダリオ・アルジェントの場合は明らかに「分かっていて」絵面で勝負に出ているんです。だからヴィジュアリストなんて呼ばれるわけです。

 それではあくまで己の性向に忠実な趣味人で、ディレッタントなのかというと、さにあらず。もともとホラー風味のサスペンスものを撮っていたのに、オカルトブームが到来すれば「サスペリア」「インフェルノ」を撮り、観客が残酷描写を求めていると見れば、「フェノミナ」や「オペラ座 血の喝采」を撮る、時代はサイコ・ホラーとくれば、「スタンダール・シンドローム」と、観客の求めているものに敏感に反応しているんですよ。もちろん、ビジネスとして成功させるためでもあるはずで、なかなかしたたかな商売人でもある。その作品を「芸術」と言ってしまってはいささかホメすぎかなと思いますが、「芸能」としてはたしかに特異な位置を占めているものでしょう。



 ついでに・・・ダリオ・アルジェントは父親が映画プロデューサー、母親がもとファッション・モデルで、映画女優のポートレートを専門とする女流写真家でもあったため、華やかな女優たちが自宅を訪れることも多かったとか・・・それを思うと、カルロの母親が、もと女優という設定も、意味深いものを感じさせられますね。



 イギリスのジャズ・ピアニストである主人公マーカス・デイリーにデビッド・ヘミングス、新聞記者ジャンナは、公私ともにアルジェントのパートナーとなるダリア・ニコロディ。不動産屋の不気味な娘に、その筋では有名な名子役、ニコレッタ・エルミも出演しています。


(Hoffmann)



参考文献

「恐怖 ダリオ・アルジェント自伝」 ダリオ・アルジェント 野村雅夫、柴田幹太訳 フィルムアート社

「イタリアン・ホラーの密かな愉しみ 血ぬられたハッタリの美学」 山崎圭司編 フィルムアート社