033 バレエ「プルースト 失われた時を求めて」 ”Proust ou les intermittences du coeur” パリ・オペラ座の「プルースト」“Proust ou Les Intermittences du Coeur”のDVDです。Stage Directionha Roland Petit、Ballet de l'Opera National de Paris。音楽はKoen Kessels指揮Orchestre de l'Opera National de Paris。2007年3月のlive収録です。 Roland Petitがプルーストの「失われた時を求めて」を13のtableaux(というのは別に特別なことばではありません、オペラやバレエでふつうに「場」を意味する語です)で展開します。音楽はフランクのヴァイオリン・ソナタをはじめ、レイナルド・アーン、フォレ、ドビュッシー、ベートーヴェン、ワーグナーなど。 Tableaux1(第1場)はヴェルデュラン家のサロンのソファにプルースト(を思わせる風貌の「話者」)。 続く第2場の音楽はフランクのヴァイオリン・ソナタ。これはもうじつに自然な選曲です。第1場をプロローグとしてとらえれば、本編開幕の音楽はこれしかない、という選択ですね。 これはジルベルト。こうして画像を並べると、前後の場とのコントラストの付け方もうまいですね。 元高級娼婦オデットとスワン、「カトレアをして」いるところですね。 第5場の花咲く乙女たち―話者が通りかかる。ここでの音楽はドビュッシーの「海」から。音楽とバレエの所作との調和は全曲中でも随一。 アルベルチーヌとアンドレ。同性愛の匂いもここでは美しく感じられますが、この時点ではあまりあからさまにするべきではありません。また、原作ではアルベルチーヌって、決して容姿端麗の美女ではないのです。まあ、それはそれ・・・でしょうか(笑) これは「囚われの女」。この場のみ、やや表現が陳腐かと思われます。眠っているのはいいんですけどね。 第8場に至って、「失われた時を求めて」の暗黒面が露骨にあらわれてきます。モレルとシャルリュス男爵登場。 モレルに振り回されたあげくの、シャルリュス男爵の行く末・・・いや、「行く末」なんて言ってはいけないな。マゾヒズムのなにが悪いんですか。「行く末」と呼ぶべきは、あくまで物語の最後、貴族の凋落の段階での話です。とりあえずここでは、聖と俗の危ういバランス。もちろんいくら私だって、ここでシャルリュス役は原作どおりでっぷり体型のひとが演じるべきだ、なんて言いませんよ(笑)この舞台、音楽はもちろん、なにより光(照明)の使い方が巧みで、さらに深紅の色使いがまた、効果的ですね。 ただし、ここではじめて登場するので、シャルリュス男爵の描かれ方はたいへん一面的になってしまっています。シャルリュス男爵を演じているManuel Legrisはじつにすばらしいのですが、社交界の寵児、ドイツ贔屓のディレッタント、歯に衣着せぬ辛辣な皮肉屋としての側面までは、さすがに表現しきれておりません。 第11場。これはintermezzo的に挿入された、4人の男女の官能の戯れ。 最後の第13場はふたたびヴェルデュラン家のサロン。第1場と第13場による、この枠のなかにすべての物語が展開されていたわけです。お話の途中ですが、涼しくなってきてラーメンが美味い季節もそろそろですね(笑) 背後のパンダ目の集団は、これは過去の彼方に消えていった死者たちでしょう。この種のメイクはたいがい「死者」をあらわします。なんなら映画「恐怖の足跡」の画像も参考にして下さい。 じっと動かず座している話者がその人生を振り返るフラッシュバックを見ているようですね。 ここでの音楽がワーグナーの「リエンツィ」序曲というのは意外でした。素人考えで、ワーグナーならどこかで「トリスタンとイゾルデ」あたりが使われるだろうと予想していたんですが・・・。優雅にして死の匂いすら漂うまでに退廃的な幕切れになっています。ここでヴェルデュラン夫人役のStephanie Rombergはじつに雄弁なバレエを見せてくれますね。 音楽と相俟って、話者のうつろいゆく世界への諦観とも思える、そこはかとない空虚な内面をも感じさせつつ、壮大なクライマックスを築きます。 ・・・と、私がこのバレエを手放しで絶賛しているように思えますか? バレエとしては観ていてたいへんよくできていると思います。しかし、「プルースト」という表題にするには、致命的に欠けているものがあります。それは時間の経過と登場人物の変化です。ジルベルトもシャルリュス男爵も、ある一時期のジルベルトとシャルリュスしか表現されていません。オデットも、スワンとの場面以降のオデットは登場しません。アルベルチーヌには、「囚われの女」以前の場面で同性愛をほのめかしてしまっています。最後の第13場ではそれぞれの登場人物が出てくるのですが、ただ同じシーンを再現するのみ。ヴェルデュラン夫人に至っては、本来、物語の最後で貴族の凋落とブルジョワの台頭をあらわすべき存在であるのに、パンダ目の「死者たち」―でなかったとしても、時間の彼方に過ぎ去っていった人々の女主人となって、本人がなにも変わっているように見えない・・・。 先ほど、「話者のうつろいゆく世界への諦観とも思える、そこはかとない空虚な内面をも感じさせ」と言いましたが、それぞれの場面は過ぎ去った過去。その過去を彩った登場人物たちこそが、うつろいゆくさまを、時間の経過を表現してくれなければいけないのです。それが「死者たち」の集団では、「話者」(プルースト)の人生はあまりにもむなしい、空虚なだけの人生だったということになりませんか? この一連の、13場までのバレエで描かれているのは、その場その場を切り取ってきただけの紙芝居で、その集積がほかならぬ「話者」を小説の執筆に至らせるものとは感じられないのです。なにも知らなければ、この座している「話者」は自分の人生が空虚なものだったと考えているようにしか見えません。この男がこれから小説を執筆するとしたら、せいぜい「我が人生の思い出の記」がいいところでしょう。 小説の、印象的な場面をいくつか取り出してバレエにしてみました、ということなら、それはそれでかまわないのですが、単にプルーストの小説が素材になっているということであって、プルーストやプルーストの小説を表現しているものではないということです。 ところで、Wikipediaで「失われた時を求めて (バレエ)」の項目を見ると、次のような記載があるんですよ。 本作は全体を通して、社交生活の虚しさや恋愛の苦悩、快楽を追求する人間の姿など、原作小説と共通するテーマを描き出している。 仏文学者のマリオン・シュミットは、プティによる『失われた時を求めて』の翻案が、鋭くかつ先進的なものであったと評価している。とりわけ、プティが原作の様々な要素のうち、セクシュアリティ、特に同性愛というテーマを抽出したことは注目に値するという。このバレエが初演された1974年当時、プルーストに対する一般的なイメージは、上流階級の優雅な暮らしを描いた作家、というものであった。しかしプティは『失われた時を求めて』のより暗い側面に焦点を当て、同性愛やサドマゾヒズムを含む人間のセクシュアリティを、大胆な振付によって表現した。プルースト作品のそのような側面は、今日の文学批評においては高く評価されているが、プティの翻案は時代を大きく先取りするものであった。 いまどきWikipediaに書いてあることを鵜呑みにする人なんかいないと思いますが・・・アノネ、社交界の虚しさとか、恋愛の苦悩とか、同性愛をはじめとする倒錯や快楽の追求というのはですね、「失われた時を求めて」という小説が採用した「モチーフ」であって、「テーマ」じゃないんですよ。風俗小説じゃないんですから。 それからもうひとつ、フランス文学者のマリオン・シュミット(名前からするとドイツ人?)というのは相当な無知ですね。1974年の時点でプルーストが上流階級の優雅な暮らしを描いた作家・・・って、いくらなんでもフランス人を馬鹿にしすぎでしょ。戦前・戦中ならブルトンやセリーヌから、それでも足りなけりゃ1960年代のヌーヴォー・ロマンの時代には、もう正当な評価を得ていますよ。ちなみにサルトルのプルースト批判はあれ、自己批判ですからね、念のため。 また、New Criticism(新批評)では、作品を、作者の人となりとかその伝記的事実、社会的、歴史的文脈から切り離して、純粋に作品そのものを批評しようとしたわけですが、これがよりどころとしたのがプルーストの文学観です。そもそもプルーストが「サント=ブーヴに反論する」において、サント=ブーヴのような日常的・外面的な「表層の自我」を重視する方法に疑問を抱き、作家内部の「深層の自我」を表出している芸術作品そのものをもって判断するべきものであるとしたことがよく知られていたから。それなのに、1974年時点でプルーストの一般的なイメージが「上流階級の優雅な暮らしを描いた作家」だなんて、ハラワタ痛い・・・あ、片腹か(笑) 「失われた時を求めて」が同性愛やマゾヒズムを描いていることなど、出版当時から有名なこと、プルースト存命中にも出版側が難色を示したんですから。Roland Petitが特別なことをしたように言うのは贔屓の引き倒しもいいところです。繰り返しになりますが、このバレエは「失われた時を求めて」のところどころの場面を、ごくごく常識的なとらえ方で、悪く言えば通り一遍に、いくつか拾い上げてバレエにしたものに過ぎません。 ※ DVDは現在廃盤になっているようです。 (Hoffmann) |