061 「黒猫」 (「ポオ小説全集 IV」) エドガー・アラン・ポオ 河野一郎訳 創元推理文庫




 「041 『アッシャー家の崩壊』」に引き続いて、再びポオを取り上げます。今回は「黒猫」、お話しするのは前回と同じく、私Kundryです。

 小説は語り手である「私」の告白という形式で、そのstoryは単純です―

 「私」は子供の頃から気が優しく、長じて動物を可愛がることで慰めを見出しているような人間で、妻も同様の性格の持ち主だった。ところが、「私」は飲酒により気質ががらりと変わって、妻や愛玩動物がその暴虐の犠牲となる。そしてついにプルートーと名付けられた黒猫の片目をえぐり取って、庭の木に吊してしまったが、その晩火事があり、寝室の壁に首を縄で巻かれた猫の姿が浮き上がる。

 「私」は酒場の大樽の上にいたプルートーそっくりの片目の潰れた黒猫を家に連れて帰るが、その胸元の白い斑点が次第に絞首台の形になってきて、「私」はその猫が「悪魔の化身」と思えて、憎悪と恐怖をつのらせてゆく。

 ある日地下室へと降りる階段で、足もとについてきた黒猫のために転落しそうになった「私」は、手にした斧を猫めがけて打ち下ろそうとするが、それを止めようとした妻に憤激して、彼女の脳天に斧を打ち込んでしまう。

 妻の死体は地下室の壁に直立した形で塗り込め、黒猫が姿を消したことで、「私」は猫が家に来て以来、はじめて安眠できる。

 凶行の4日後、家宅捜査で地下室も捜索されるが、引き上げようとする警官に、完全犯罪の成功に得意になった「私」は、死体の隠された壁面を杖で叩く。すると壁の中から猫の鳴き声が聞こえ、取り崩された壁の中の直立した死体の頭上には、真っ赤な口を開け、火のような片目を見開いた猫が坐っていた・・・。



Aubrey Vincent Beardsley

 ポオの短篇小説を読み解こうとすると、どうしてもマリー・ボナパルトによる心理学的アプローチがその草分けとして無視することができません。このフロイトの弟子による精神分析批評は、いま読めば、あまりに画一的と感じられるのですが、読んでいておもしろいことはたしかです。

 精神分析批評は、作品と作家自身の深層心理との関連に注目するため、まずポオが三毛猫を飼っていたことからはじまるのですが、最新の研究によれば、ポオが黒猫を飼っていたことも明らかになっています。もうひとつ、注目されるのは、幼妻ヴァージニアの結核罹患による喀血と、ポオ自身の飲酒癖です。

 ボナパルト女史に言わせると、猫は女性器の象徴、黒猫プルートーが語り手の手首を咬むのは男根象徴かつ自慰の器官への攻撃ですから、これが意味するのは母親による去勢の恐怖、ということになります。復讐として猫の目をえぐるのは去勢しようとする母への反撃。女性はもともと去勢された存在なので、その象徴たる片目の潰れた猫に対する嫌悪と憎悪が生じる。木に吊されたプルートーはそれ自体が男根と同一視され、去勢された存在に欠けているものを再付与すること。黒猫の本体、すなわち憎悪の対象は女性ですから、最終的に妻殺しに至る。「モルグ街の殺人」と同様に死体を直立させて壁の奥まったところに埋葬するのは、下方に吊り下げるのとは反対。起き上がらせることで、去勢したはずのものが屹立した男根像となって、物語の最後では、頭上に真っ赤な口を開け、火のような片目を見開いた黒猫が置かれて語り手を嘲笑する・・・。

 マリー・ボナパルトの精神分析批評は、こうしたところに作者ポオの幼児無意識に潜在する不安と恐怖を読み取り、「出産の不安」「離別の不安」「良心への怖れ」といったさまざな不安が「去勢不安」を中心に巡って、象徴的に形象化されているとしています。

 しかしながら、いまこうして語っていても、ちょっと滑稽とさえ感じられますね。長いものは男根、穴が空いていれば女性器、ですからね(笑)測量するための道具・手段が限定されていて、この方法で読み取ろうとする限り、どの作者による、どのような作品を持ってきても、似たような結果になってしまいそうです。



Marie Bonaparte

 そんなことを考えていましたら、西山智則による「恐怖の表象 映画/文学における〈竜殺し〉の文化史」(彩流社)という本が見つかりましたので、以下に、この本のなかで展開されている「黒猫」の読み解きを紹介してみることにします。

 著者は、この小説の設定が、ポオの、読者の好奇心に訴えるための戦略に思えるとしています。酒に溺れて破滅して死刑執行を待つばかりの語り手による告白という体裁で、ポオ自身がアルコール依存症が指摘されていることを思えば、自虐的でもあり、反面、読者へのサービスとして猟奇的な作家を演じているようでもあります。

 「黒猫」の語り手の家には、ほかに小鳥、金魚、犬、小猿などのペットが飼われています。ペットをペットとして愛玩するのは、人間が人間であること、主人が主人であることを証明するからです。つまり愛の名によって美化されたペットを飼うことは、権力の戦いであるのです。この時代の象徴的ペットと指摘されるのが、奴隷制度と家父長制度によるペット、すなわち黒人奴隷と妻という名のペットです。プルートーというのは、黒人奴隷によくつけられた名前なんですね。これが木に吊されたのは、リンチで吊されたと黒人を意味しているのです。つまり、「黒猫」は絞首刑になった黒人の復讐の物語というわけですね。だから、第二の猫は胸の白い毛が絞首台の形になって、語り手の罪を咎めるのです。

 黒猫はしばしば魔女の化身とされます。その女性の表象たる黒猫の目をえぐるというのは、精神分析的にみれば去勢恐怖に対する反撃です。その日の晩に火事となるのは、猫が表象する怒り。壁面に現れる影は告発です。そして二匹目の黒猫が地下室の階段を降りるときに足もとに絡まって、転落しそうになり、斧を振り上げる。ところが妻がこれを止めに入って、斧は妻の脳天に振り下ろされる・・・これはホラー映画でもおなじみの構図、女性には考える頭脳は必要ないという女性蔑視のあらわれです。壁に塗り込めるのは抑圧、死体の隠蔽は必ずと言っていいくらい、これです。これが白日の下にさらされるということは、意識下に抑圧されていたものが表出するということで、既知のものが「不気味なもの」となるということ。ここでは妻の死体以上に、黒猫の帰還がそれで、人々が忘れよう、なかったことにしようとしていた奴隷制の罪悪感が良心を咎めに甦ってくるわけです。こうして、語り手自慢の「よく出来た家」も、アッシャー家のごとく崩壊してしまいます。

 ちなみに「不気味なもの」”Das Unheimliche”はフロイトの1919年の論文のタイトルですが、”heimliche”は「見慣れている」もの、「家の一部をなすもの」「漏れないように隠された秘密」などの意味を持ちます。これが無意識下に抑圧された後に再び表出するとき、”un-”と否定形がついて、既知のものから「見慣れないもの」、つまり「不気味なもの」となるのです。

 また、妻は2本足、「語り手」はステッキを持っているので3本足、猫は4本足で、ここに巨大な猫、スフィンクスの謎かけ、「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足とはなにか」が再現されている・・・つまり、「人間とはなにか」と問い直すことで、アメリカ人が抑圧してきた奴隷制の罪が回帰してくるというわけです。


Charles-Pierre Baudelaire

 さて、ここで「悪の華」の詩人、シャルル・ボードレールとポオの関わりについてお話ししておきましょう。ボードレールのポオに対する心酔は、1847年、27歳の時にイザベル・ムーニェの仏訳で「黒猫」を読んで以来のこと。これはかなり衝撃的な出会いだった模様で、その後多くのポオの作品を自ら翻訳することになります。じっさいのところ、ボードレールの英語力は疑問視されており、誤訳も指摘されるのですが、当時ポオは英米ではまったく評価されておらず、フランスで受け入れられたのは、ボードレールの献身のおかげと言っていいものです。

 ボードレールはポオを模倣してると非難されることもありましたが、ボードレール自身はポオと自分には「内的な類似点がある」と言っています。


 初めてポーのある本を開いたとき、夢見てきた主題ばかりか、わたしが考えついた文句そのものまでもが、二十年前にポーによって書かれているのを見て、驚愕し、有頂天になりました。・・・

 ポオの「天邪鬼」、すなわち自ら敗北的・破滅的な結果に至る行動を取ってしまう人間の本能は、この「黒猫」のなかにも見て取れるものですが、こうしたところにボードレールは深い共感を覚えたものと思われます。

 英米における作品批評には、多くの場合、作者の伝記的な背景と個性との関連において行われるという伝統が見られます。ですから、アメリカにおいては、19世紀後半に至るまで、清教主義の倫理理想主義にそぐわない作品や、ニューイングランドのお上品でお高くとまった伝統の枠を超えるような芸術作品は、無視され、蔑まれていたのです。ボードレールもそのことは先刻お見通しで、ポオを取り巻くアメリカ社会が「美の観念のもっとも敵意に満ちた相手である実用性の観念が、あらゆるものに先立って支配権を振るっている」と規定し、そうした社会における「批評家」とは社会道徳の擁護者であって、批評の基準が「良心を完全なものにする手段」としてすぐれているかどうか、であるということになってしまうと言っています。最高の価値が道徳であるならば、作品自体の美や完成度は問題にされなくなってしまいますよね。ボードレールがなぜこんなにも魅力的なのかというと、こうした、物質至上主義の社会の空気と、成金出世主義のブルジョワ根性、無自覚な偽善的道徳主義を心底嫌悪してこれに背を向け、拒否したところに、私たちもまた共感するからなのではないでしょうか。

 さらに、ポオの場合は、北部アメリカにおける南部蔑視という事情もあったでしょう。加えて、古語の使用やラテン語形の長い単語の使用、つまり英語としての文体の問題もあったと指摘されています。

 ところがフランス人の批評は、ポオという人物をよく知らなかったためもあって、あくまで作品そのものの分析批評になったのですね。作品が、どのように構成され、いかなる文体が用いられ、作者の芸術的意図がどの程度まで実現されているか・・・もちろん、道徳感覚が美の世界に入り込む余地のない批評原理です。完全に作品そのもので評価される、というのは、ポオにとっても作者冥利に尽きることだったのではないでしょうか。また、英米人のように、ことさら南部に対する差別意識もなく、さらにボードレールその他の翻訳者が彫心鏤骨、洗練され、磨かれたフランス語に移しかえており、読者はこれを味読することができたわけです。

 ここでふれておくと、ボードレールが「彼(ポオ)にとっては、想像力があらゆる能力の女王である」と高らかに宣言したのは、ボードレール自身の文学者としての自らの方法の決意でもありました。ボードレールが言う想像力とは、人間精神の全領域、自然界の全領域を覆い、さまざまな事物と観念との間にある、科学的哲学的ではない、内面的な関係をとらえる能力のこと。ボードレールはこれを「万物照応」という詩で歌っています。サンボリスム、すなわち象徴(主義)はこのような意味において理解されるべきでしょう。決して修辞的な曖昧さを形容したことばではないのです。

 ボードレールはポオの翻訳書の書評で、「翻訳はひじょうに優れているため、原作のように思える」とまで絶賛されました。文学者としてのみならず、生活者としての人生観までも、ほとんどポオその人になりきった感情移入と共感。「万物照応」は机上の認識法にとどまらず、ボードレールにとっては骨がらみの生き方そのものであったのです。

 あとは2点だけ、付け加えておきます。ポオの翻訳により一躍有名になったおかげで、ボードレールは「悪の華」の出版も容易になりました。また、作曲家のドビュッシーもボードレールの翻訳を読んで、結果的に未完に終わりましたが、歌劇「アッシャー家の崩壊」の作曲に取りかかることになったのです。



(Kundry)


参考文献

「黒猫」 (「ポオ小説全集 IV」) エドガー・アラン・ポオ 河野一郎訳 創元推理文庫

”The Life & Works of Edgar Allan Poe” Marie Bonaparte Translated by John Rodker Imago Publishing , London
「恐怖の表象 映画/文学における〈竜殺し〉の文化史」 西山智則 彩流社
「異常な物語の系譜 フランスにおけるポー」 宮永孝 三修社



 ※ 角川文庫の表紙は、フランスのアール・ヌーヴォーの画家、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン Theophile Alexandre Steinlen による、文芸キャバレー「ル・シャ・ノワール」 ”Le Chat noir” (「黒猫」の意)のためのポスターですね。タイトルは「ルドルフ・サリスの『ル・シャ・ノワール』の巡業」です。エリック・サティはこのキャバレーの専属ピアニストでした。


Diskussion

Parsifal:ボードレールなくしては、フランスにおいてのみならず、世界文学史上においても、ポオの今日の栄光はなかったかもしれないね。

Klingsol:その一方で、ボードレールはポオから文学的啓示を与えられた、と言っているのがポール・ヴァレリーだね。

Hoffmann:そう考えると、ポオとボードレールの出会いはお互いのためのものだったんだ。

Parsifal:あらためて読んでみると、「黒猫」もいいね。精神分析批評は、おもしろいことは認めるけれど、いま読むと「またか」という感じはあるけど(笑)

Kundry:西山智則の読み解きも、精神分析の手法は取り入れているんですよね。

Hoffmann:ユング的「元型」なんだよね。目が潰されるといえば、だれだってオイディプス神話との関連を見出さずにはいられないだろう。しかし、直立した状態での埋葬は、「モルグ街の殺人」と同じだけれど、単に通常の死による埋葬ではない、というだけのような気もする。墓碑銘の「何某埋葬されてここに眠る」を「・・・埋葬されてここに立つ」と洒落ているわけだ。パロディだよ。古くは、ドイツ民衆本の「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」がいい例だ。ポオより後の時代なら、アポリネールにもあったよね。

Parsifal:ポオの場合は「アモンティリャアドの酒樽」のような閉じ込め、つまり隠蔽が重要なモチーフなんだ。つまり、生きたままの、「早すぎた」埋葬だよ。

Kundry:生きたままだから「抑圧」なんですね・・・あ、精神分析になっちゃいました(笑)

Klingsol:ところで、同じ作家が2度取り上げられたのは、今回がはじめてじゃないか?

Hoffmann:とくに、今回のボードレールの話はとても参考になったよ。ひとつ、Kundryさんにポオを定期的に取り上げてもらえるとありがたいな。シリーズ化しようよ(笑)