040 「奇跡を考える 科学と宗教」 村上陽一郎 講談社学術文庫




 今回は、これまでに取り上げてきたいくつかの本との関連で選んだものです。

 「奇跡」が超常現象や魔術と区別されるゆえんは、背後に宗教的な裏付けがある、という付帯条件があることです。一方で、科学は宗教的な背景を一切考慮に入れませんから、科学という基準の下では、奇跡も超常現象も魔術も、区別なく扱われることになります。しかし魔術というものは、宗教の立場からすれば自分の信ずる神の力によらないもののこと。それは詐術であって、否定すべきものである、ということになります。そこでこの本では、奇跡の問題を、一面では宗教との関係で、もう一面では科学との関係で論じるという前提に立っています。


Aurelius Augustinus

 アウグスティヌスは、神にとってこの世のすべては予見可能だが、人間は何ごとかをなすにあたって神から与えられた自由意志でそれを行うことが可能である。その人間の自由意志による行動は神の前には必然として明らかで、因果の過程の一部に過ぎない。従って自然というものは、その一切が神にその存在を依存している。だから「善」なる存在である神が「悪」を創造するはずがない。存在するのは「善の欠如」である、とします。

 12世紀になると、古代復興がはじまります。イスラムの台頭によりイベリア半島がイスラム世界に編入され、ヨーロッパのキリスト教世界は、失地回復、再びキリスト教世界に取り戻そうとしたわけです。そうしたところ、イスラム世界には、これまでのヨーロッパのキリスト教世界が一切受け継いでこなかったギリシア・ローマの学問(書物)が残されていた・・・たとえばアリストテレス、アルキメデス、プトレマイオスなど。そうした書物や注釈書はすべて東ローマ帝国とイスラム世界にあったのです。これはイスラム世界が誕生して東ローマ帝国と接触すると同時に、こうした書物のアラビア語翻訳を行い、以降註釈的研究を積み重ねてきたからです。ラヴクラフトの「ネクロノミコン」の話のときに、この前後のことをちょっとだけ話しましたよね。

 そこでヨーロッパ人はイスラム世界の知的水準が自分たちよりも高いことに気付いて、とりあえずこれらの書物をラテン語に翻訳することにしました。そうして古典ギリシアの学問を手に入れて、成立したのが「スコラ学」。ひとことで言えばトマス・アクィナスの哲学です。これはアリストテレスの自然哲学とキリスト教信仰の融合したもので、合理性、首尾一貫性、整合性、論理性が特徴で、魔術などもってのほか、キリスト教内部の神秘主義も異端として排除する方向に動くものです。

 15世紀、16世紀になると、今度は古典ギリシア学問でもかつて取り残されていたプラトン主義が復興します。これはなかなかひとことでは言い表せないものです。なぜなら、もともと象徴性の高いプラトン主義のこと、またこの時代の哲学体系が多様であったことも手伝って、ひとつの理論体系にはなりにくいものだったんですね。例を挙げると、マルシリオ・フィチーノコペルニクス、ピーコ・デッラ・ミランドラ、ジョン・ディー、ケプラーにパラケルスス、さらにはニュートンに至る流れです。プラトン主義、新プラトン主義は魔術との親和性も高いので、そうした傾向もあります。とはいえ、キリスト教が根幹にあるので、なんでもかんでも魔術を解禁というわけにもいかず、フィチーノなどは「善き魔術・悪しき魔術」という分類を試みています。フィチーノ、おぼえていますか? アカデミア・プラトニカの学頭で、ルネサンス運動の火付け役を果たした人ですよ。その著書「太陽と光について」は、コペルニクスの太陽中心説を導くことになったものです。ピコ・デッラ・ミランドラは「善き魔術」すなわち「白魔術」を容認して、正当な自然哲学と同等の地位においた人です。

 この時期の「魔術」というものは、「真に普遍的な自然についての知識と技術」であって、「普遍的」というのは、キリスト教的な神の創造と、神が与えた秩序が保証されているということ。だからこの魔術は、手続きはキリスト教の教えと同じではないとしても、最終的には神への信仰につながるものであると理解されていたのです。

 この「魔術」という概念が、いまの「科学」をも統合する知識体系・技術体系の基礎であったわけです。

 17世紀後半が主たる活躍の時期であったニュートンは、まさにこの時代の人。じっさい、ニュートンが生涯錬金術に没頭していたことは有名ですよね。近代科学者ではないのです。その点では時代を遡って17世紀前半のデカルトの方が、事物の霊的な動きを徹底的に否定するという姿勢を打ち出しており、新しいのです。人間だけは心があって考える存在。しかしその他の物質は、神が創造して最初の運動を与えた時点から動き出して、あとは勝手に、自ら動き続けている。それが自然というもの。こうしたデカルトの考えに反発したニュートンは、リンゴが落ちるのをわれわれが見るとき、そこに神が現前して、働きかけているのを見ているのだ、とします。デカルトは神を抜きにして自然を語ろうとしている、最初の運動開始の時だけ、やむを得ず神を認めたのだろう、という主張です。これに対して、デカルト派の人は、常時自然にへばりついて働き続けていなければならないような神は全知・全能の名に値しないと反論しました。すべて神の働きであるならば、もはや「奇跡」の余地はない、と。

 冷静に考えてみると、ニュートンの側は「汎神論」、デカルト派は「理神論」に近く、いずれもキリスト教が長い歴史のなかで厳しく禁じてきた考え方なのです。このときはお互いに自分たちを「汎神論」とも「理神論」とも認めていないのですが、こうしたベースがあって、以後、「汎神論」あるいは「理神論」そのものを主張する思想家たちが現れはじめます。それが「自由思想家」と呼ばれるひとたちです。


Pierre Bayle

 その代表、ピエール・ベールは、キリスト教は説明のつかないこととなるとすぐに神の奇跡という概念を持ちだしてくる、自然の法則を守り通すことこそに、神の偉大さがあるのであって、その法則を蹂躙して奇跡だなどとねじ曲げるのはむしろ神への冒瀆だ、と主張しました。神は超自然的な存在ではなく、自然法則の圏内にある、従って「奇跡」は認められない、自然の法則は人間理性によって明証的に掴むべきものだという、理神論です。

 こうした流れから、ダランベールは「百科全書」の序論で、人間の知識の分類表をつくったとき、「悟性」の下に「理性」「記憶」「想像」と並べて、「理性」の下に「哲学」を置き、その股下に・・・じゃなくて、そのまた下に、「神の学」「人間の学」「自然の学」を並列させたのです。ここにおいて、神という概念を人間の悟性が生み出したものとしたわけです。それまでの、神の権威は無限で人間の理性でさえ神の意志によって作られたものであるとする理解を覆したわけです。こうして18世紀のヨーロッパは伝統的なキリスト教的な世界観に終止符を打って、「奇跡」の容認される余地はなくなったのです。

 だから、19世紀になって組織的で制度的な科学が生まれてきたわけですね。もちろん、「奇跡」は認めない、宗教も認めない、宗教と関係を持つことも拒否する。魔術も認めるわけがない。もはや理性の優位を主張することもしない、なぜならそれは自明のことであるから。


Galileo Galilei

 ここでガリレオの話を―ガリレオ裁判の話は以前にもちょっとだけふれましたよね。1631年に出版した「天文対話」が教皇庁の異端審問所に告発されて、審理の結果断罪されたという話です。しかし、コペルニクスの「天球の回転について」は当時の教皇からできるだけ早く出版なさいと激励されて、枢機卿からは出版のための経済的援助も受けている。コペルニクスを罵倒したのはプロテスタントのルターで、むしろカトリック側の世界では特別な困難には出会っていない。

 ところが17世紀になって、プロテスタントにもコペルニクスに理解を示す者が現れるようになると、今度はカトリック側に敵意を示してくる人物が現れはじめる。ガリレオはそんな時代に居合わせてしまったのです。ガリレオという人は案外と処世術に長けていた人で、それがために教皇庁にもファンがおり、反対にガリレオを目の敵にする一派もいたのです。その反ガリレオ一派がガリレオの知人への手紙などを入手して、異端審問所に訴えてガリレオ糾弾に乗り出してきたのです。

 当初フィレンツェの審問所は、この訴えを相手にしなかったらしいのですが、どうも敵方の勢力が強かったのか、ガリレオの、相手を徹底的に論破しようとする好戦的、挑戦的、自信満々な態度が反感を買ったのか、ガリレオに対してコペルニクス理論の一部を訂正して、見解を放棄せよと勧告するに至ります。これは一般に思われているような異端判決ではなく、穏やかなもので、ガリレオの側も、「ま、この辺で鉾を納めておくか」といった対応を取ったということのようです。

 反ガリレオ派をもっとも刺激したのはなんだったのかというと、自然のなかに書き込まれている神のことばを、聖書に書き込まれている神のことばよりも優先する、という可能性でした。聖書のことばは比喩や修辞を含め、多様な解釈を許す、しかし自然は神の定めた秩序に冷厳なほど忠実に従うのだから、解釈の入り込む余地はない・・・というガリレオの考えに従うと、もはや自然に関する学問は、神学的な配慮ぬきで成立し得る、ということです。ガリレオが知的活動から神学的な配慮を排除するつもりではなかったとしても、そうした可能性があったわけです。もしもガリレオが「自然はあくまで自然の話だからサ」「学問はあくまで学問の範囲のことだよん」という立場であったなら、問題はなかった。ところが、ガリレオは神学を捨てることなく、聖書と自然に食い違いがあってはならない、食い違いがあるなら聖書の解釈が間違っているからだ、としていました。この考えは、神をぬきにして話がすんでしまうという可能性を秘めていることが問題だったのです。

 もう少し補足しておくと、ことばの問題があるのです。自然のことばというのは人間のことばのように多義性や象徴性を持たない「数学」です。これは「科学」において明証的に信頼がおける記述が数字であることを考えれば理解しやすいでしょう。すると、数学のことばでは書くことができない「奇跡」など、真っ先に排除されるのです。

 ガリレオにしてみれば、聖書は人間のことばで書かれているから、まるで神が人間の属性を備えているかのように受け取られかねないことを危惧しているのです。しかし、人間は神を語ることばを別に持ってはいない。人間のことばでしか、あるいは人間のことばに翻訳してしか、神を語ることはできないのです。超越者がそれ自体を理解させるのに、超越できない人間のことばを使う以外にないわけです。とすると、神の声を聞く、という「奇跡」は人間の能力を超えたところにある、ということになります。

 19世紀以降の科学は、人間を含めた自然を超えるなにものかを認めてはいません。認めないことが自らの特性なのです。自らの特性ですから自己(科学)の範囲のなかでは、もはや「奇跡」を論じる余地がない。ガリレオもこれとほぼ同じ立場に立っていたわけです。

 科学がそのように自己規定している以上、そのなかで「奇跡」は扱えない。こういうときに使われている便利なことばが「不思議」です。超越者の存在は、超越者であるというだけで人間には理解し得ないので、これを前提とした「奇跡」の存否はもう人間の限界を超えているのです。さらに言うと、「奇跡」を論じる余地はない、ということは、否定することもできない。だから「不思議」というよりほかにないのです。「不思議」を通り越して、超越的な存在や「奇跡」を信じるとすれば、それは「個人的に」信じる以外の方法はありません。ただし、個人的に信じるというのは、もはや信仰とは言えないのではないかと思います。

 私は超越者とか奇跡を「個人的に」信じるという姿勢は、もはや「非宗教」「似非宗教」と呼ばれるべきものではないかと思います。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「奇跡を考える 科学と宗教」 村上陽一郎 講談社学術文庫

「新しい科学論 『事実』は理論をたおせるか」 村上陽一郎 講談社ブルーバックス



Diskussion

Kundry:私は単純に、科学も宗教の同類だと考えていました。観測できないこと、測定できない不思議なことは、未開人がトランジスタラジオを魔法だと思うのと同じだと(笑)

Klingsol:本当に不思議なことならそのとおりだよ。でも、たいがいは思い込みとか錯覚なんだ。

Hoffmann:「科学的に実証された」なんて言って、まるで科学的な手続きを踏んでいない例が多すぎるね。示す根拠もなく、あからさまに政治的思惑から嫌がらせをしているだけなので、一党独裁で言論統制があたりまえのゴロツキ国家になに言ってもムダなんだよ。ああいうのを見ていたら、だれだって「言った者勝ち」なんだなと思うよね・・・よい子は真似しないでもらいたいな。

Klingsol:「宗教上の理由」というのも、使われ方がかなり胡散臭くなってきた。法務大臣に就任して、「宗教上の理由」で死刑執行のサインはしないと言った人がいたよね。それなら、そもそも就任するべきではない。

Hoffmann:就職が決まって入社してから、「私は宗教上の理由で仕事はしません」とか(笑)

Kundry:そのあとに法務大臣になった人が死刑執行のサインをしたら、ある新聞が「死神」と書き立てましたね。

Hoffmann:表現の自由とか報道の自由とかいう問題ではないよね。前に話した、差別語ならぬ軽蔑語だ。だから「マスゴミ」なんて言われるんだよ。

Parsifal:そのあたりになると品性の問題だね。

Hoffmann:新聞なんか読まない方がいいよ(笑)

Klingsol:ところで、Parsifal君が「魔術」ということばで通しているのは、これは取り上げた本が「魔術」と書いているからだろうけど、「オカルティズム」とした方がふさわしい箇所があるね。

Parsifal:そうなんだけど、「オカルティズム」と言ったら誤解されそうな気がして・・・。

Hoffmann:映画の話で「エクソシスト」「ヘルハウス」なんて取り上げたばかりだからなあ(笑)たしかに、「オカルト」とか「オカルティズム」ということばを正しく認識している人は、あまりいないね。

Klingsol:その意味では、いつかのデューラーの〈 メランコリア I 〉のときの話なんて、フィチーノの話も出たし、「オカルティズム」ということばを使えば、説明は楽になるね。いちど解説してもらえると、今後話しやすくなる。

Kundry:みなさん、「奇跡」なんて信じてらっしゃらないと思いますけど・・・たとえばHoffmannさんはホラー映画とかオカルト映画がお好きですよね?


Hoffmann:ホラー映画とか怪奇小説というのは、ニーチェの哲学書と同じなんだよ。

Kundry:はあ?

Hoffmann:実践するものじゃなくて、鑑賞するものなんだ(笑)