099 「カサノヴァの帰還」 アルトゥール・シュニッツラー 金井英一、小林俊明訳 集英社




 先日、フェリーニの映画「カサノバ」を取り上げたので、今回はそのカサノヴァを主人公としたアルトゥール・シュニッツラーの中篇小説です。

 物語は、カサノヴァ53歳のときの話。カサノヴァの「回想録」は1774年、すなわち49歳までで終わっているので、シュニッツラー自身が「著者あとがき」に記しているように、この小説はあくまで「自由なフィクション」です。

 老境に至って故郷ヴェネツィアへの望郷の念がつのるなか、近くのマントヴァの町まで来たカサノヴァは、旧知のヴェネツィア高官から帰国許可が出されるのを待っている。

 そんなある日、カサノヴァは昔結婚の手助けをしたことのある男オリヴォーに再会する。オリヴォーの家に招かれると、妻アマーリア、三姉妹のほかに姪のマルコリーナがいて、カサノヴァはこのマルコリーナを見て、さっそくものにせんと図るが、このマルコリーナには希代の色事師のいかなる駆け引きも技法も通用しない。しかも、彼女とオリヴォー家の常連客である少尉ロレンツィとの関係が怪しい。

 思いどおりにならない状況での心理的なかけひきも、それなりに楽しんでいる享楽者カサノヴァ。己の老醜の自覚により、マルコリーナに自分に対する関心がうかがわれないことには納得しつつ、しかし湧きあがる情欲はいよいよ抑えがたくなってゆく。

 マルコリーナはこれまでの女性と違って、自らその身を自分に委ねることはないと見きわめ、カサノヴァはある企みを計画する。この企みは、カサノヴァの老いの故に迂闊きわまりない失態を見せる結果となってしまったものの、望みは遂げられた。しかしそのあと、マルコリーナの部屋の窓から抜けだし、外に出たとき、彼の目の前に現れたのは・・・。


Arthur Schnitzler

 この小説はアラン・ドロンの主演で映画化されていますね。「カサノヴァ最後の恋」"Le Retour de Casanova"(1992年 仏)がそれ。私はこの映画を観ていませんが、シュニッツラーの小説を特徴付ける、主人公の意識の流れをそのまま記述した、当時としては先駆的小説が、映画というメディアで表現しきれているのかははなはだ疑問です。

 サルトルによって「意識の流れ」の創始者の名誉を与られたシュニッツラーは、ホーフマンスタールとともにウィーンの世紀末を代表していた作家でしたが、20世紀の世界大戦とナチの反ユダヤ主義、それにシュルレアリスムによる旧芸術の破壊運動によって、一度はほとんど忘れ去られた作家になっていました。

 没後50年の1981年あたりから急速にその名が甦ってきて、この小説が翻訳されて1992年に発刊されたのも、その流れのおかげでしょう。ところが我が国の文芸界では明治から大正にかけてシュニッツラーが一世を風靡していた時期がありました。シュニッツラーと同年生まれの森鴎外(「鷗」は環境依存文字)や木下杢太郎や吉井勇あたりの叙情はおそらくシュニッツラーに学んだものと見ていいでしょう。しかしその後に続く者がいなかった。わずかに堀辰雄がシュニッツラーの「みれん」(原題は「死」)を下敷きにして「風立ちぬ」を書いたくらい。

 サルトルが実存主義運動のさなかに、シュニッツラーを「意識の流れ」の創始者、「内的独白」という手法の祖先であるとしたのは、第二次世界大戦後。さすが、慧眼ですね。我が国にだって、目利きはいます。このサルトルの指摘を受けて、それなら「内的独白」の試みは日本では里見弴の作品に見られるとしたのが中村眞一郎

 シュニッツラーに見られる世紀末ウィーンは、ローマの末期や化政天保といった文化の爛熟期、すなわち極度に洗練されて繊細を極めた時期にあたるもので、その点では永井荷風を連想させるところもありますね。ましてや回想に浸っているのは老境を迎えた作家。その回想は決してsentimentalなものではなく、むしろその時代独特の産物たる頽廃文明を永遠化しようとする試みです。おまけにシュニッツラーもホーフマンスタールも、ユダヤ人であったことはたいへん興味深いところ。プルーストもそうでしたよね。ヨーロッパという多民族が入り乱れた時間的歴史及び地理的な国家のなかで、そうした失われてゆくものを客体化できたのが、もっぱら「突き放されていた」ユダヤ人であった、ということなのです。

 一般には、この小説でカサノヴァは終始「老い」に対して意識を向けていることが指摘され、それ自体がテーマであると受け取られています。「男たるもの、ゲーテ、ミケランジェロ、もしくはバルザックなどよりも、むしろカサノヴァになりたいものだ」と言ったシュテファン・ツヴァイクを挙げるまでもなく、ドイツ人、とりわけ文学者には南方志向が強く見られるもの。それにヴェネツィアは一時期オーストリア・ハンガリーの属領だったこともあるので、ドイツ人のヴェネツィアに対する憧れというものはなかなか複雑なものがあったわけです。

 私はむしろカサノヴァの「老い」に併行して宮廷人の没落と、旧き文化の終焉を思わせる、容赦のない時間の流れを感じ取ります。それはプルーストの貴族階級の没落とブルジョワの台頭を描いたのと同質のもの。そしてこの小説では、カサノヴァのヴェネツィアへの望郷の思いは、死に場所を求める鳥に例えられています。シュニッツラーがどこまで意識していたのか分かりませんが、性愛というものを描けば自ずと「死」のimageが浮かびあがってくるもの。念のために断っておきますが、この小説が発表されたのは1918年です。フロイトがエロスとタナトスの理論を打ち立てた「快感原則の彼岸」が世に出たのは1920年。シュニッツラーの方が早いんですよ。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「カサノヴァの帰還」 アルトゥール シュニッツラー 金井英一、小林俊明訳 集英社




Diskussion

Parsifal:たしかに、なんだか懐かしいような小説なんだよね。

Hoffmann:世紀末文学であって、20世紀文学と呼ぶには「未だ」なんだな。

Klingsol:カサノヴァそのひとに、ある種の悲哀感があることも否定できないな。優雅で、慇懃でちょっと軽薄な、しかし相手に不快感を与えないような、少年的な恋慕というものがもはや過去のものなんだ。

Kundry:清少納言よりも紫式部の方が現代(文学)感覚に近いのと同じですね。この場合ならスタンダールと言うべきでしょうか(笑)

Klingsol:スタンダールの情熱もいかがなものかなあ・・・すくなくとも、カサノヴァには思慮深さと、知的な才能があった。それが金儲けや権力欲につながらなかっただけで、親近感を覚えるね(笑)

Kundry:情欲を否定しないというのはある意味、健全ですね(笑)

Parsifal:もともと我が国には性を穢れとしたり罪悪視したりする文化はなかったからね。西洋だって、大昔はそうだろう。性的なものを悪徳視するようになったのはキリスト教以来だよ。

Hoffmann:なんにせよ、滅びゆくものの悲哀は美しく感じられるものだ。ただそれを、情緒たっぷりに書かれたら滑稽になる。カサノヴァ自身の場合は、18世紀の形式主義が功を奏したということもあるけれど、シュニッツラーの場合は、その愛惜の思いをカサノヴァの「老い」に託することで客体化したんだよ。