120 「ポルポリーノ」 ドミック・フェルナンデス 三輪秀彦訳 早川書房




 現代フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの小説「ポルポリーノ」です。これは18世紀のナポリを舞台に、カストラート歌手ポルポリーノの数奇な運命を描いた小説。

 ポルポリーノは貧しい農村に生まれ、奇妙な性習慣・性差別が日常となっている生活のなかでカストラートとなり、音楽院を経てナポリへ出る。少年時代のモーツァルトや老いたカサノヴァといった実在した人物が登場するのもおもしろいですね。

 ドミニック・フェルナンデスは映画監督パゾリーニをモデルにした小説「天使の手のなかで」(岩崎力訳 早川書房 1985年)、以前ちょっとだけふれた、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの死の真相に迫ろうとした小説「シニョール・ジョヴァンニ」(田部武光訳 創元推理文庫 1984年)も書いているほか、1987年にいち早くエイズの問題を扱った小説「除け者の栄光」(榊原晃三訳 新潮社 1989年)を書いたひと。

 この小説でフェルナンデスは、カストラートに対する嗜好を人間の根源的な欲求のひとつのあらわれと見て、さらに去勢歌手を非人間的な性差別の結果ではなく、性を超えて、さらに生と死の障碍をのり超えて、不死に至ろうとする欲求の実現と見ています。フェルナンデスは精神分析的手法が得意、というか、持ち味のようで、なんでもかんでも精神分析の対象としてしまうあたりがちょっと鼻につくのですが、もちろん、現代人の感覚でカストラートを「非人道的」「反道徳的」などと単純に非難しているわけではありませんよ。


Dominique Fernandez

 去勢・宦官について

 去勢の風習自体は旧約聖書にもその記述が見られることから、古くから存在していたことは間違いないものの、たしかな起源は分かっていません。

 ヘロドトスは宦官をペルシア人の風習だと言っていますが、じっさいはエジプト、ギリシア、ローマ、トルコから東は中国、朝鮮まで、すなわち地中海からアジア全域にわたって存在していたようです。その起源は東洋の宗教祭祀だったという説もありますが、刑罰として実施されていた時期・地域もあります。エジプトやペルシアでは密通、不義、強姦、盗みなどをした者に刑罰として行われており、イギリスやアルバニアでも強盗、貨幣偽造者などが去勢されたという例があります。

 たとえば、刑罰として行われた去勢といえば司馬遷ですね。これは「宦官」と言った方が通りがいいでしょうか。ただし、この刑罰の効果にも、時代と民族による意識の違いがあることをお忘れなく。司馬遷は「史記」を完成させるためには死刑を逃れなければならず、宮刑、つまり去勢を自ら願い出た。司馬遷は己を恥じ、かなり悩み苦しんだのですが、これは現代人が考えるような苦しみとはちょっと違います。生殖能力を失うといったって司馬遷はこのとき48歳、当時にしたらもう充分老人です。もちろん後天的不具には屈辱も悲哀もあったでしょう、ところがそれよりも、肉体の一部が欠けて不完全体になるということは、当時の道徳からすると、先祖に対する不孝であったのですね。つまり、生んでもらったままの肉体を損なうことは、父母や先祖への倫理的な罪悪感を伴っていた。なにしろ戦争に負けて首を切り離された死体は、もはやふつうの墓にも葬ることができないとされていたくらいですから。だから司馬遷は「先祖に大恥をかかせてしまった」「もう父母の墓詣でもできない」と嘆いているのです。さらに、漢代においては肉体の完全さ、容貌の美しさに対する意識が強かったこととも関係があります。中国では、顔立ちがよくて色白で太っていなければ出世もできなかった、ということはわりあいよく知られていることですよね。

 肉体の完全さに対する意識には、復活・再生への信仰に通じるものがあるかもしれません。古代エジプト人がミイラという方法で、死体を完全な形で保存しようとしたのは、霊魂が帰ってくるという信仰があったためです。中国にも霊魂の復活という考えと似たような信仰はあったみたいですね。だから死んでもなお、肉体は完全でなくてはならなかった・・・。


 カストラート歌手について

 音楽では、少なくとも12世紀には去勢者を歌手として礼拝に用いていたことを証明する文献が残されています。しかし、少年の美声(ボーイ・ソプラノ)を保つ目的で変声期の訪れる前に去勢手術、すなわち睾丸摘出手術を施した、カストラートと呼ばれる歌手がヨーロッパに姿をあらわしたのは16世紀も後半になってからのこと。

 それまではどうしていたかというと、教会音楽の高音域はボーイソプラノか成人男性のファルセット(裏声)で歌われていました。ところが、ポリフォニックな音楽が複雑化していっそう広い音域が求められるようになってきた。なぜ女性を使わなかったのか? もちろん、「女は教会にて黙すべし」という聖パウロの教えに従い、教会で女性が歌うのは禁じられていたから。ちなみにイタリア語でソプラノ、アルトという名詞は男性名詞です。

 最初の頃はスペインからファルセット歌手を呼んでいます。普通ならファルセットというのはアルトの声域を越えることはまずないのですが、なぜかスペインから来た歌手たちはソプラノまでの声を出す技術を持っていたんですね。なので、じつはこのなかには、ファルセット歌手を装ったカストラート歌手もいたのであろうと言われています。

 カストラート歌手がヴァチカンの法王庁礼拝堂聖歌隊に公式に登録されたのは1599年のこと。教会は公には去勢を禁止していたのですから、いろいろ非難もあったらしい。法王クレメンス八世は彼らの声にいたく感動して、以後イタリア各地のキリスト教会のソプラノ歌手は、「神への賛歌をいっそう美しく歌うために」急速にカストラートに代えられてゆくこととなります。

 時を同じくしてイタリアに生まれたのがオペラ。これによって、カストラートは教会から外にも出て行くこととなり、以後200年にわたって、フランスを除く全ヨーロッパの歌劇場をあますことなく制覇して、モンテヴェルディ、スカルラッティ、ヘンデル、グルック、モーツアルト、ロッシーニといった大作曲家の霊感の源泉となりました。

 ひとつ断っておかなければならないことは、バロック時代のオペラでは、役の性と声(歌手)の性は必ずしも一致するものではなかったということです。女性役をテノールが歌うなどめずらしくもなかったこと。だから、倒錯趣味がカストラートを生んだのか、カストラートの登場が倒錯趣味を生んだのか・・・この問いにこたえることはできません、いまや永遠の謎ですね。

 そもそもカストラートとは「去勢する」という意味のcastrareの過去分詞形です。語源はラテン語のcastro、「生殖を奪う」という意味。男性は思春期になると喉頭が発達して声帯が長くなるため、その声はおよそ1オクターヴ低くなります。ところが去勢してしまえば喉頭の成長が止まって、形態、柔軟性ともに少年期のそれを保つことになる。性腺機能が廃絶されますから、男性ホルモンの分泌が止まるわけですね。その結果声帯が発達せず、変声期を迎えることがなくなるので、声は子供のときのソプラノやアルトのまま保たれる。それでも胸郭、肺などは通常の成人男子と変わらないものになるので、彼らのソプラノやアルトの声は成人の体格による息遣いで歌われることになります。子供ではとうてい及ばない肺活量を得て、長い旋律を歌いきる幅のあるブレスと、豊かな歌唱力を持つことができるようになるというわけ。つまり男子としての肉体的条件のおかげで声は力強い響きを持っている・・・もちろん、テクニックだって身についてくる。それはボーイソプラノを超えたもの。

 手術後、少年たちはイタリアの音楽院で、およそ10年にわたって徹底した訓練を受け、3オクターヴの声域と超絶的な技巧を身につける・・・もちろん、少年合唱団のなかでもとりわけ才能に秀でた少年が選ばれてカストラート歌手とされたのですが、表向きは乗馬中の不幸な事故の結果などということになっていました。とはいえ、カストラートは世間では周知の事実で、オペラの舞台でカストラート歌手が見事な歌いぶりを披露すると聴衆は「手術刀ばんざい」と叫んだそうです。

 18世紀の有名なカストラート歌手ファリネッリことカルロ・ブロスキは20歳そこそこでイタリアをはじめとするヨーロッパで絶大な人気を集め、スペインの宮廷ではその歌声で王の憂鬱症を治癒させ、王の相談役となり、民衆からは英雄として尊敬・崇拝されたました。なんでもひと息で200から300もの音を歌いきることができたというから驚くべき歌手です。当時、このような大歌手にあやかろうとして、南ヨーロッパ諸国では可愛らしい声の男の子が生まれると、親たちが競って我が子を去勢させ、未来のスター(カストラート)歌手を夢見たというから、なんというか・・・いまでも子供を芸能界入りさせることを夢見ているような親がいますからね。

 カストラートは、17世紀から18世紀の小説や演劇にもしばしば登場していますが、ヴォルテール、スカロン、ヘンリー・フィールディングなど、概ね風刺の対象として揶揄されているものばかり。1823年のバルザックによる「サラジーヌ」は、フランスの天才彫刻家サラジーヌが、女装のカストラート歌手ザンビネッラを女性と信じて恋に落ち、ザンビネッラはサラジーヌの心をもてあそぶ・・・という話。

 オペラの方では19世紀になるとカストラートの出番は少なくなり、オペラのなかでカストラートを起用した最後のものは1824年の作品とされており、1820年代にはカストラートを用いる習慣はほぼなくなりました。最後の偉大なカストラート歌手と言われたジョロラモ・クレシェンティーニとジョヴァンニ・バティスタ・ヴェルーティは、それぞれ1812年、1828年に引退しています。その後カストラートは教会だけのものとなって、オペラの表舞台から退くこととなりましたが、その名残に、年若い少年の役をソプラノやメゾ・ソプラノの女性歌手に歌わせるというオペラがいくつか作曲されているのは皆様もご存知のとおり。いわゆる「ズボン役」ですね。その代表がR・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」のオクタヴィアン役です。このオペラでは前奏に続く舞台が少年オクタヴィアンと元帥夫人の情事後の朝ですからね。ここはメゾ・ソプラノでないと・・・もしもテノールやバリトンの歌手だったら、エログロになってしまいますよ(笑)

 衣装倒錯という面からアプローチすると、じつはこの衣装倒錯がバロック期の大流行だったんですね。バロック・オペラの中では男女の性の交換・変装がしばしば・・・というより、ほとんど乱用されています。だからこそ、カストラートが女性も男性も演じるということ、つまり、男性が女性を演じているんですが、その女性は劇中では常に男装しているという、あたかも倒錯を象徴するかのような存在であったわけです。

 そう、バルザックの「サラジーヌ」について、エロティックな実体であるイタリアの声は、性のない歌手によって、象徴的な倒錯という否定的な方法で生み出されてきたのだ、と言ったのはロラン・バルトです。

 ドミニック・フェルナンデスは「ポルポリーノ」のなかで、主人公に次のように言わせています―

音は、もはや空間を揺れ動く単なる原子(アトム)の振動などではなく、熱い物質、生きているかのような乳液となり、クリームのような濃密さ、オパールのような透明さ、ダマスク緞子のような滑らかさ、噴水のような華やかさを持っていたのだ。・・・(中略)・・・カストラートの声は、その性質上必然的には唯一の排出器官となって、他の出口をからだに持たないあの精気がすっかり滲み込んだものとなっているのだ、と。その声は肺からの空気だけではなく、死んだ部分に埋もれて忘れられた生殖能力をも、声と共に排出するのだ。カストラートの喉は、単に肺の空気を吐き出しているだけではなく、完全なる排出行為を行なっているのであり、それが肘掛椅子に仰向けにもたれかかってカストラートの声に恍惚となっている女たちに、わたしたちの声と性の交わりを結んでいるかの印象を与えるのだ。

 もちろん、現代ではカストラート歌手の代わりにファルセット(裏声)で歌うカウンターテナーがいるわけですが、そのカウンターテナー歌手であるルネ・ヤーコプスはこれの理想型を「ヘルマフロディトス・ヴォイスとしてのアルトの声」であるとしています。ヘルマフロディトスとは、ギリシア神話に登場する神ですが、「両性具有」「雌雄同体」を意味します。

 ・・・おっと、話が両性具有にまで及んでしまいましたが、これはまた長くなりそうなので、次の機会に―。

 参考までに、テオフィル・ゴーチエの詩集「七宝とカメオ」(「七宝と螺鈿」とも訳されます)から、「コントラルト」と題された詩の一節を引用しておきましょう、訳は齋藤磯雄です―

快いかな、不思議な音色よ、
男で、女の、二重の音よ、
奇異なる混合、コントラルトよ、
声の、ヘルマフロディートよ。

ひとつの咽頭(のど)で歌うたふ
それは、ロメオとジュリエット、
同じい薔薇の枝にとまった
嗄れ声の鳩と、鶯。

・・・

その声こそは、睡った心を、
愛撫の裡に、眼ざましながら、
恋する男の雄々しい調子を
恋する女の吐息にまじへる。


 ここで扉のページをupした、平凡社版、「世界名詩集 第12巻 ゴーチエ、ネルヴァル」からの引用です。この本に収録されているのはゴーチエが「七宝とカメオ」、齋藤磯雄訳。ネルヴァルが「幻想詩篇その他」、中村真一郎訳。


 音楽も聴く “最後のカストラート”

 それでは最後に、本物のカストラート歌手のレコードを紹介しておきます―

Alessandro Moreschi the last Castrato Complete Vatican Recordings
英Pearl 823 (LP)



Alessandro Moreschi

 このレコードのタイトルは"The Last Castrato"、つまり「最後のカストラート」。1858年に生まれて20世紀まで生きていた「最後の」カストラート歌手、アレッサンドロ・モレスキAlessandro Moreschiが遺した録音をまとめて復刻したものです。1902年と1904年の録音。モレスキはヴァチカンのシスティーナ礼拝堂聖歌隊の一員で、亡くなったのは1922年とあります。

 正直、女声とも男声ともつかない歌声で、カストラート歌手の最盛期から遠くへだたった時代であるため、その栄光を伝えきれていないのか、それとも当時の録音ではこれが限界なのか、はたまたカストラート歌手というのはそもそもこのような声だったのか、いまとなってはたしかなところは分からず、我々はじっさいに聴いた人によるカストラートへの賛辞―「銀のように澄んだ清浄さ」(ショーペンハウアーの日記から)を読んで、往時の歌声を想像してみるよりほかありません。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「ポルポリーノ」 ドミニック・フェルナンデス 三輪秀彦訳 早川書房


「天使の手のなかで」 ドミニック・フェルナンデス 岩崎力訳 早川書房


「シニョール・ジョヴァンニ」 ドミニック・フェルナンデス 田部武光訳 創元推理文庫


「除け者の栄光」 ドミニック・フェルナンデス 榊原晃三訳 新潮社


「木、その根まで 精神分析と創造」 ドミニック・フェルナンデス 岩崎力訳 朝日出版社


「世界名詩集 第12巻 ゴーチエ、ネルヴァル」 齋藤磯雄、中村真一郎訳 平凡社


「心ならずも天使にされ カストラートの世界」フーベルト・オルトケンパー 荒川宗晴・小山田豊・富田裕訳 国文社




Diskussion

Parsifal:おもしろい小説だね。

Kundry:歴史上実在した人物を登場させる小説というのは、Hoffmannさん好みですね。

Klingsol:ユニセックスがテーマとも言えるし、あえて性を捨てて芸術という永遠に生きようとする主人公の物語、ともとれるね。

Hoffmann:ドミニク・フェルナンデスの本は翻訳された限りでは全部読んでいるんだけど、同性愛者をテーマにしても、時代とともに世代の意識の違いを的確に描いている。日本の作家が大家然としてその知識や感性が成長を止めてしまうのとは正反対の、ちゃんと時代を生きている人だよ。

Kundry:ドミニク・フェルナンデスの著作では、「木、その根まで 精神分析と創造」(岩崎力訳 朝日出版社)を読んだことがあります。モーツアルトにおける父親像についての分析が参考になりました。

Parsifal:そうか、精神分析への関心が深い人なんだ。それで今回の「ポルポリーノ」からの引用箇所も納得だな。精神分析の材料がちりばめてあるもの。これはかなり意図的だね。

Hoffmann:「木、その根まで」の次に書いたのが、「ポルポリーノ」なんだよ。きっと、モーツアルトについて調べたことがここでも活かされているんだろうね。