123 「ハーケンクロイツに生きる若きエリートたち 青年・学校・ナチズム」 望月幸男・田村栄子 有斐閣選書 ドイツのナチズムは、上からトータルに支配するやり方を取っていましたが、その支配権を獲得するに至るまでの過程は、下から上がってきた運動の成果でした。 ところが、かつての日本のファシズムは、対立する相手と戦いながら下から民衆の支持を獲得していく、大衆を味方に引き寄せて政権を獲得していくような大衆ファシズムではありませんでした。軍人と官僚が天皇をかついで支配したファシズムだったので、そのための機構は完備していたものの、肝心の大衆の支持を獲得するための理論はなにもなかった。日本では現在の政治家も、こうした権力と支配の構造を相も変わらず引きずっていて、大衆の支持を得る方策を知らないし、またそもそも大衆の支持なんてたいして重要視していない。日本の民族に特有の強制的同調力だけで引きずり回すしか能がなくて、理論なんか必要としていないのです。国民の方も、自分の主張や思想を持たずに、時代の風潮や周囲の集団と歩調を合わせているだけの、「村落的社会」という社会集団の特性を根強く持っているので、それですんでしまっている。だから、いまもって与党も野党も、一定以上の支持を得ることができないばかりか、大衆のほとんどが選挙というものに関心を持たないのです。 ナチズムについて知れば知るほど、それが独断専横的なものであったにもせよ、新聞の発行、映画の制作と上映、ベルリンオリンピックの開催からその記録映画に至るまでの壮大な演出は、理論に基づいたものでした。演出というのは、言ってしまえば「見世物」的な政治演出なんですが、我が国の戦時の対内宣伝が「官報」と「広報」を流すだけであったのとくらべると、たいへんな違いがあります。 我が国では、政治家も大衆も、なにかというと「民主的に」だの「民主主義を守れ」だのと言っていますが、ナチス・ドイツは民主主義の手続きを踏まえて成立したんですよ。そこんとこ、お忘れなきよう。 政治宣伝、戦争宣伝についてはまた別の話になりますが、ここでは、宣伝というのは命令ではないということに留意しておいて下さい。たとえ命令の意図があったとしても、命令のことばを使うのではなく、誘導のことばを使っているものです。そして、「なにも考えていない」大衆は、自ら行動するのです。 その意味で、歴史についての叙述においては、正確な表現をすることが絶対に必要であるということを、ナチスドイツ時代の「焚書」を取り上げてお話ししたいと思います。従って、今回取り上げる本はなんでもいいんですが、とりあえず、ワンダーフォーゲルから「自由ドイツ青年」、そしてナチス学生同盟について書かれている「ハーケンクロイツに生きる若きエリートたち 青年・学校・ナチズム」(望月幸男・田村栄子 有斐閣選書)としておきます。 ワンダーフォーゲル、自由ドイツ青年から、大小さまざまな「同盟」Bund(ブント)、ドイツ義勇団・・・とやっていたらそれだけで話が終わってしまうので、ここは一気にナチス学生同盟の話へ―。 ナチス学生同盟というのは、民族主義的思想を強めつつ、反共和国的態度を明確にして、政治運動へとかかわっていった学生を、政党政治に吸収したもの。呼びかけた学生はナチ党員だったんですが、ヒトラー・ユーゲントのような、ナチ党の下部組織ではないんですよ。その意味では、しばしば表記されるように国家社会主義者ドイツ学生連盟Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund、NSDStBとした方がいいかもしれません。 同盟の発足は1926年2月。同盟の具体的な任務は、大学内部においてナチスの目的を主張し宣伝すること。行動的には「民族の統一」をドイツの再生のための前提とおき、そのために労働者と学生との結合を図ることでした。同盟が発足した1926年は、共和国の相対的安定期の頂点にあたる時期である一方で、ナチスが党内左派の封じ込めにより党体制をほぼ確立し、大衆運動として飛躍的に発展する体制を整えていた時期。この同盟は、知識階層を批判・嫌悪していたヒトラーに無視され、学生の自発的意思によって創立されたということにご注意ください。 学生は、既存の政党に対して、ヴェルサイユ条約の履行政策及び労働者を搾取する金融資本を重視する姿勢を批判、マルクス主義に対してはそのインターナショナルな姿勢を批判、また、学生会及び伝統的な学生団体に対しては、教育制度の閉鎖制により生成される旧来の階級構造の中に浸りきっている「ブルジョア的安逸」精神への批判・・・と、もう批判だらけ。希望はナチス。ナチスこそ「ブルジョア」世界に対置される「国民主義」と「社会主義」を結合した第三の「革命」を目指していると思っていたのですね。そしてナチズム運動に参加することで「第三帝国」の創設に貢献することとなり、その貢献によって学生は「第三帝国」において民族の指導者になれるであろうと期待していたのです。 つまり、この同盟は学生のブルジョア精神への攻撃から出発している。それが同時に民族と政治を統一的に把握する政治理論を構築していったわけです。だからナチスはドイツ民族による共同体を形成するという目的を果たす手段に過ぎないもので、あまり政治的な概念は念頭にはない。ただし「民族」を文化的にとらえ、その核心に「人種」を据えていた。すなわち、文化は人種が生み出したものであり、それゆえ文化の統一のためには民族における人種の統一性が必要であると考えていた。だから、ユダヤ人は国際金融資本の搾取者だからけしからんということではなくて、民族固有の文化創出のためにユダヤ人を排斥するべきだと考えていたわけです。この同盟の「反ユダヤ人革命論」というのは、現実の政治体制・経済体制とはあまり関わりがなかったということです。これ、忘れないでいて下さいね。同盟のナショナリズムはナチズムとは微妙に異なっていたんですよ。 1933年5月10日の焚書について さて、焚書について―1933年5月10日、ベルリン・オペラ広場Opernplatzで「非ドイツ的」な書物が2万冊以上焼かれました。これは有名な焚書です。 以前、在日ドイツ大使館は、その交流サイトで「1933年5月10日の出来事はどれ?」という問題を発信しました。そして正解として、「正解は、焚書。1933年5月10日、ナチスドイツはベルリン(現在のBebelplatz)で『非ドイツ的』な書物を2万冊以上燃やしました」と―。 これ、微妙に正しくありません。 Wikipediaを参照すると、項目名は「ナチス・ドイツの焚書」とあり、概要は次のとおり― ナチス・ドイツの焚書(ナチス・ドイツのふんしょ、英語: Nazi book burnings)は、ドイツ国内の本のうちで、ナチズムの思想に合わないとされた書物が、ナチス・ドイツによって儀式的に焼き払われた焚書である。 日本語は論理的ではなく、曖昧なところがあると言われますが、こうしたときにそのとおりだなと思うんですよ。間違いではないんです。「ナチス・ドイツの」の「の」が、場所を指しているのなら、すなわちナチス政権下のドイツおいて、という意味なら問題ありません。ところがドイツ大使館の言うように、「による」という、焚書を行った主語を指すのであれば、これが正しい記述とは言い切れなくなる。 「魔女とカルトのドイツ史」(講談社現代新書)を見てみましょう。この本にはこう書いてあります― ナチスの思想統制は、文芸の分野にも向けられ、一九三三年五月一〇日の夜、反ナチス文学に対する焚書がおこなわれた。指揮をとったのはゲッベルスであったが、ナチスを信奉する学生たちが、観衆としてそれに動員された。 これはちょっと違うなあ。 焚書を行ったのは、あくまで学生です。これに先立つ4月6日、新聞やプロパガンダの手段により、全国的に「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動を行う宣言をしたのはドイツ学生連盟(ドイツ学生協会とも)Burschenschaftenで、この運動のひとつの頂点が5月10日の焚書だったわけです。たしかに、当日はゲッベルスなどのナチスの高官もやってきて、参加者や観衆に向けて演説を行っています。しかし、ゲッベルスは呼びかけたけれども、命令をしたわけではない。押収された好ましくないとされた本を火の中に投げ入れたのは、あくまで自主的に行動していた学生です。ナチスの命令・指示があったわけではありません。4月8日の「まったく傍若無人に世界戦略のなかに姿を現しているような、また、すでにドイツの書物のなかにあらわれているようなユダヤ精神は除去されなければならない」という回文を出したのも、学生同盟宣伝局。 もう少し詳しく説明すると、1933年、ナチスドイツ当局は、専門組織や文化組織をナチスの思想と政策に同期させる強制的同一化Gleichschaltungに着手、政府はユダヤ人及び政治的な嫌疑者や、ナチスが「頽廃」と呼ぶ芸術作品を演出または創造した人々の文化的組織を追放しはじめました。 ここでゲッベルスは国家社会主義者ドイツ学生連盟Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund、NSDStBと同盟を結びます。じつは1920年代後半あたりから、多くの学生がさまざまなナチス組織において重要な地位についていたのですね。だからゲッベルスとはツーカーだったわけです。そして1933年4月6日、ナチスドイツ学生連盟の本部が、新聞やプロパガンダの手段によって全国的な「非ドイツ魂への抵抗」を宣言した。また学生連盟は4月8日にマルティン・ルターの95か条の論題を連想させる12か条の「論題」を起草しました。この論題は「ユダヤ主知主義」を非難し、ドイツ語とドイツ文学の「純化」の必要性を断言して、大学がドイツ国家主義の中心となることを要求するもの。これはルターが1517年、ローマ法王の破門状を燃やした歴史的事実を、自分たちの行動の内的動機付けに利用したということ。こうして5月10日の焚書に至ったわけです。 ベルリンのオペラ広場では「非ドイツ精神排撃の闘争委員会」の名で、学生同盟のフリッツ・ヒップラーらが「非ドイツ的図書」を次々と火に投じているところにゲッベルスが到着。全国放送のマイクを手に演説。 この焚書の日、すなわち5月10日の夜は、ドイツ国内34の大学都市において、右翼の学生たちが「非ドイツ魂への抵抗」を掲げて、松明行進を行っています。 ちなみにこの日、学生たちが燃やした本は、ベルトルト・ブレヒトやアウグスト・ベーベルなどの著名な社会主義者、共産主義の概念を生み出したカール・マルクス、オーストリアの劇作家アルトゥール・シュニッツラーのような「ブルジョア」作家、「腐敗した外国の影響」としてアメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイなどによるもの。ファシズムを批判してナチスの怒りを買ったトーマス・マンの一部の作品や、戦争に関する果敢な記述で「世界大戦の兵士たちへの文学的裏切り」としてナチスのイデオロギーを非難した国際的なベストセラー作家、エーリッヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異状なし」も。 あえて言えば学生たちには「愛国的動機」があったわけです。1926年のナチス学生同盟以来、一般のナチス支持よりも早く、学生連盟はナチス支持を表明していたんですから。ただ、先に述べたことを繰り返すと、学生たちの民族主義はブルジョア精神への攻撃から出発したもの。ナチスはドイツ民族による共同体を形成するという目的を果たす手段に過ぎない。文化の統一のためには民族における人種の統一性が必要であると考え、民族固有の文化創出のためにユダヤ人を排斥するべきだと考えていたわけです。政治とは関わりの薄いナショナリズムでした。 これを取り込んでいった、上手く利用したのがナチスの恐ろしいところであり、その理論の底力であったわけです。 なお、ベルリンという都市は共産主義活動の拠点であったため、ナチ党が支持を得るのにもっとも苦労したところ。ちなみに共産主義者の仕業とされたドイツ国会議事堂放火事件は1933年の2月27日、翌日2月28日に「民族及び国家保護のための大統領緊急令」が大統領緊急令規程により出されて、この焚書が5月10日であったことに注目して下さい。 このタイミング(スケジュール)で、深夜に民族浄化のための炎を上げるという一大スペクタクル・ショーが行われるというのですから、そりゃあこの絶好の機会にゲッベルス自らやって来て演説をぶつのも当然のこと。邪魔者を排除し、利用できる物は利用して、「民主主義的に」、大衆の支持を得て政権を獲得する・・・いや、現代の世界の政治家も、よくよく観察していると、案外とナチ党、ヒトラー、ゲッベルスのやり方を参考にして、あるいは真似ているんですよ。いくつか例を挙げると、首相時代の○泉、東日本大震災時の官房長官、○野なんかは、かなり典型的と言いたいくらい、ナチスの模倣をしていました。O阪府知事、O阪市長を歴任した○下に至ると、そのしゃべりはすっかりそのまま、ヒトラーのテクニック(レトリック)をコピーしたものです。 なお、ベルリンでの焚書が行われた場所は、一般にはオペラ広場と呼ばれて、これが間違っているわけではないのですが、焚書という事件に鑑みると、これは「旧図書館前のオペラ広場」とした方が、より適切だと思われます。 歴史上の焚書 さて、焚書というのはナチス・ドイツの時代に限りません。以下に、歴史上焚書された「意外な」本を取りあげてみましょう― まず、孔子と彼の弟子たちのことばである「論語」。これは紀元前250年頃、秦朝の初代皇帝である始皇帝によって焼かれ、このときには多くの儒者が火刑に処せられています。さらに30年後、始皇帝は伝統的な中国の文化を否定するべく、先の粛清で漏れていたあらゆる孔子関係の書物を焼き捨てました。 オヴィディウスの「愛の技術」。紀元8年にローマで禁書とされ、オヴィディウスはギリシアへ追放。1497年にはダンテの作品とともに、好色で不信心な堕落した書物とみなされて、火中に投ぜられています。 ジョン・ミルトンの「英国民のための弁明書」。1651年にフランスで政治的な理由から焚書。1660年にはイギリスでもチャールズ一世を攻撃したとの理由で焼かれています。 ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」。出版された1922年に、アメリカ中央郵便局とアイルランド及びカナダの政府機関によって焼かれました。翌1923年には、499冊がイギリス税関当局の手で焼かれ、同じ年にアメリカ中央郵便局は500冊を焼いています。 次は焚書とは少し違いますが、原稿の段階で燃やされてしまった例― リチャード・バートン卿が翻訳した「千夜一夜物語」の無削除版は内容がいかがわしいとして当時の道徳家からは非難の的でしたが、懲りないバートン卿は「千夜一夜物語」の次に、「薫香の庭」の翻訳にとりかかった。これは「千夜一夜」にもまして情熱的な物語。そして死の前日、妻のレディ・バートンを部屋に呼び、「この翻訳はもう一歩で完成する、この作品の出版による収入はすべてお前の年金となるよう手続きしておいた」と言って、翌日お亡くなりに。 レディ・バートンは残された原稿に目を通し、その内容を知って・・・ある出版社はこの出版のために6,000ポンドを支払うと申し出たのですが、彼女は3日間考えたあげく― 「この世に生きていた男性は、たとえ紳士であり学者であっても、ああしたものを喜んで書くかもしれないけれど、そういう男性も天国に行って神の前に裸で立ったときには、自分のしたことを別の目で見るにちがいない。・・・なにが善でなにが悪かは明瞭ですもの。あの人の魂は、自分の善行だけを持って神の裁きの庭に立つのだわ。・・・6,000が600万だとしたって、私は自分の判断に賭けるしかないわ」 ・・・と考えて、すべての原稿を暖炉の火にくべてしまいました。ああ、まったく〇というやつは! もうひとつ― ウォルター・ローリー卿。女性が馬車を降りるとき、ぬかるみに自分のマントを敷いた紳士として、みなさまもご存知ですよね。また、イギリスに煙草を流行させた人でもあります。当時のことですから素焼きのパイプなんですが、庭でプカプカやっていたら、その頭の上に立ち昇る煙を見た庭師が、「旦那が火事だ!」と叫んで水をぶっかけた、なんてエピソードもあります。ご主人思いの庭師ですね。私がローリー卿だったら給金をはずんであげたいところです(笑) このローリー卿の主著、「世界史」は紀元前130年までの部分しか出版されませんでした。それというのも・・・ある日の午後、ローリー卿が窓からに内庭を見下ろしていると、ふたりの男がけんかをして、ひとりがもうひとりを殺してしまった。それを見ていたローリー卿と、友人ふたり。ところが友人ふたりの話に食い違いが。その目で見ていたローリー卿の目撃談も友人ふたりとはかなり異なる・・・するとローリー卿は― 「たった15分前に自分が見たことさえ正確に語れないおれに、世界史を書く資格なんぞあるものか!」 ・・・と叫び、そばに積んであった「世界史」の原稿を暖炉の火の中に投げ込んでしまった。友人のひとりが火の中から救いあげたのは2巻分。しかし残りはすっかり燃えてしまい、ローリー卿の「世界史」は紀元前130年までとなったのでした。トホホ・・・・ (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「ハーケンクロイツに生きる若きエリートたち 青年・学校・ナチズム」 望月幸男・田村栄子 有斐閣選書 Diskussion Hoffmann:せっかくParsifal君が格調高くナチ関係の本を取り上げてくれていたのに、割り込んじゃったよ。 Prsifal:格調高くやっていたかどうかは別にして、それぞれがいろいろな視点で語った方がいいよ。 Kundry:話題が逸れていくのもまた愉し・・・ですね(笑) Klingsol:Parsifal君のとりあげた「ドイツ青年運動 ワンダーフォーゲルからナチズムへ」と、今回の話は、少し時間的に間隔が空いているね。 Hoffmann:途中で言い訳したけど、ちょっと複雑なのと、あんまりおもしろい話でもないんだよね。 Parsifal:焚書を実行した学生という意味ではここで取り上げるに足る存在だよ。 Klingsol:若者に関してなら、後はヒトラー・ユーゲントだな。 |