134 「濹東綺譚」 永井荷風 岩波書店 ※ 「濹」は環境依存文字、「墨」にサンズイ




 永井荷風は東京市小石川区で大実業家の家に生まれたのですが、青年の反逆の典型的な例で、落語や歌舞伎の世界に入り浸り。父は荷風を実業家にするために渡米させるのですが、荷風はアメリカを経てフランスに滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国します。この20歳代の後半にフランスでゾラに傾注して以来、終生フランス文学を読み続けることになります。なんでも、日本でゴーゴリの全集が完結して評判の時、「ゴーゴリをどう思いますか」と尋ねられ、「翻訳がないので読まない」とこたえたんだとか。つまり、フランス語に訳されていなければ読まないということ(笑)また、第二次大戦中、堀口大學がn・r・fの出版物をある古書店に手放したとき、その中にあったはずのジイド監修のドストエフスキー全集を中村眞一郎が入手しようとしたところ、一足違いで荷風に買われてしまったというエピソードもあります。


永井荷風

 空襲によって自宅が被災して瀬戸内海沿岸に避難したときには、丘の上から内海を見下ろしながら、いま自分は地中海にいると空想して、マラルメの「半獣神の午後」を朗唱して我を忘れた。

 その一方で、学生時代に学んだのは中国語。これは師である森鷗外の影響と思われるのですが、中年に至ってまた漢学に傾倒。その散文はラテン語と漢文との粋をとってつくりだした現代口語。

 若き日に文学を志したとき、つまり20世紀初頭、世界はフランス自然主義文学が主流の時代であったはず。ところがフランスから帰朝して幸徳秋水の大逆事件に遭遇すると、ドレフュス事件におけるゾラのような抗議行動をとることは日本では不可能と悟り、近代作家としての生活から身を引いてしまい、築地の妾宅暮らしで、浮世絵をもてあそび、三味線を爪弾く日々。自然主義の風俗小説作家として再起したのは中年に至ってからのこと。40歳のはじめからは東京に住み、ジャーナリズムとの交わりを断って孤高の精神を守り、戦後になると、連日浅草のレヴュー小屋に通い詰め、世相の観察者となって、またそれ以上のものになろうともしなくなる・・・。


永井荷風と踊り子たち。いい写真です。

 荷風はフランスかぶれだったんでしょうか? 違います。たしかに荷風はフランス文化に源を発する、ルネサンス以来のモラリストとしての知識人のスタイルを終生守り抜いています。そのバックボーンは、冷酷なまでのエゴイズムと高邁な自己同一性を誇る高潔な貴族精神でしょう。つまり、西洋「かぶれ」・フランス「かぶれ」ではない、魂や人格の最奥部までフランス文学の吸収によって改造されつくした「本物」なのです。

 いまでもよく、だれから・どこから影響を受けたのどうのという話を聞きますよね。でもね、「影響」なんていうのは「個」人の人格の深いところ、底部まで及んでこそ、影響と言えるのです。

 荷風の偉大なところは、わずか1年足らずのフランス滞在で、世紀末芸術を吸収したことそれ自体ではなく、その背後に17世紀古典主義のフランス文学があることを見抜いていたことです。これは当時だれも研究はおろか、その存在に言及することさえなかったものです(いまでも17世紀はたいがい飛び越されているようです)。誰も知らないから、ただひとり、「知っていた」荷風は文壇で孤立していたのです。

 我が国では奈良時代以降、中国学は必ず四書五経からはじめられていました。これが正統。それなのに、なぜか西欧文化(とくに文学)となると、ギリシア・ローマのラテン文学や17世紀の古典主義を飛ばして、いきなり同時代の文学に食いついてしまう。だから自然主義も象徴主義も中途半端な模倣に終わったのです。結果だけ見ていて、そこに至るまでの方法を知らない、知ろうとしない。こうした態度はマルクス主義の導入で、時代の先端だけ見ていればいいんだという、過程を無視した態度がまかり通るようになって、ますます強化されてしまうことになります。だから戦後の進歩的文化人は芸術に関して無知無教養なのです。進歩的文化人がそうなんですから、一般の社会人(大人)で、文化とか芸術に関心を持つ人など、ほとんどいない。

 荷風に話を戻すと、モーパッサンからはじまって、やがてアンリ・ド・レニエやアルベール・サマンなどといった象徴派の作家・詩人に関心が移っていったのですが、それはその周辺の文学や、ドビュッシーやフォーレの音楽、ルノワールやトゥールーズ=ロートレック、ドガの絵画、ロダンの彫刻とともにあるレニエやサマンを味読するということでした。だから為永春水を読むのにレニエが重ね合わされる。そして難問にぶつかったときには、必ず鷗外全集に戻って解答を求める・・・。

 だから、なにを書いても気品が保たれているのです。荷風が随筆や小説の中で批評したり感想を述べたりすれば、それは文明批評になる。なぜなら荷風という人間は、ただ文学者であるというだけではない「全体性」を持っているから。この「全体」というのは「全体小説」というときの「全体」ですよ。やっぱりね、多彩な分野に関心を持った教養家ですからね、批評家精神を持ち合わせているんですよ。思えば、佐藤春夫もボードレールもそうでした。だから世紀末芸術の背後に古典主義を見抜くこともできたのです。でもね、文学者であろうと、音楽家であろうと、批評家であろうと、この「全体性」がないひとはダメです。あまり適切なことばではないかも知れませんが、この程度の「教養」は、本来、身につけていて当たり前のことなんですよ。たとえば、芥川龍之介は読んでいるけど、アナトール・フランス? ストリンドベリー? なんだいそれは? なんて人に芥川が「読めて」いるわけがない。

 世相の観察者として―レアリスムによって風俗描写されるのは社会の下層の女性の生態が主です。それは間違っても叙情的ではありません。こういったところはまさに典型的なゾラの自然主義のようでいて、じつはドライなニヒリズムが支配しているのです。そうしたところは、やはり貴族的な高邁さのあらわれでしょう。下層の女性を眺める視線はあきらかに「上から」見下ろすものです。勘違いしないでいただきたいのは、それは自分が偉いとか偉そうとかいうことではなくて、精神の貴族があくまで感情移入を廃して曇りのないvisionを呈示して見せようと心がけているからです。作者と対象があくまで無縁のものとして、社会風俗を鳥瞰的に描いているから。故意に小説を人工物として仕立てているから。


永井荷風

 「濹東綺譚」は発表が1937年(昭和12年)。随筆家と風俗小説家のふたつの面をひとつの作品のなかで対照させることにより、文学作品を自己の全体性に重ねようと試みた、と見える作品です。とはいえ、ここでは荷風の「全体性」は抑制気味ではないでしょうか。つまり、世相に対するスタンスの取り方が隠棲者であったため、文学者・小説家としての全体像を投影しようがなかったのではないか、と思えるんですね。その意味では、ついに実現できなかった作家的人生の哀悼であって、そうせざるを得なかった、過ぎ去った過去への哀歌なのです。従って、この小説の主人公はイコール荷風ではなくて、荷風が「そうであったかもしれない」虚像。これが叙情に傾かないところが荷風の立派なところではありますが、なんとも沈鬱な趣が色濃くあらわれていることは否定できません。

 荷風も老境に至って、やや叙情に傾いたことも事実です。感慨に浸っている荷風が垣間見えるようになる。荷風はひとつの作風にこだわるような作家ではなく、時代ごとに多彩な顔を見せてくれています。その世相や社会に対するスタンスの取り方は、日記文学「断腸亭日乗」に明らか。社会に適応せず(できず、ではなく)、冷徹な傍観者として生きてきた証。それは反面、小説としては、荷風という巨人の一部分のみしか、反映されていいないということなのです。荷風は、読者の我々にとっては不幸にして、その「全体性」を小説作品のなかに十分に刻印することが、ついになかったのではないでしょうか。

 
※ 「濹東綺譚」の「濹」、森鷗外の「鷗」は環境依存文字です。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「濹東綺譚」 永井荷風 岩波書店

 岩波文庫版




Diskussion

Parsifal:Hoffmann君は平井呈一との一件があっても、永井荷風贔屓なんだね。

Hoffmann:作品はやっぱりね。当人の人間性だって、孤高の立場を守り抜いたのは立派なものだよ。

Parsifal:私が語る予定の佐藤春夫と同様、ひとつの作風に縛り付けられたり、こだわったりする作家ではないね。

Kundry:「全体性」と言われると、先だっての、Parsifalさんによる「悪魔と両性具有」やHoffmannさんがお話しされた「世紀末の夢 象徴派芸術」の両性具有を思い出しますね。


Klingsol:Hoffmann君が言った「全体小説」の「全体」と考えれば納得がいく。両性具有そのものではないけれど、象徴している意味合いは共通するものだね。

Kundry:「影響」ということが人格の深いところまで及んでこそ、というのは賛成ですね。真似とか模倣では影響とは言えませんから。

Parsifal:それと同時に、「影響を受ける」ということは、自分なりのものにしているということでもある。

Hoffmann:「影響された」なんて言っているだけまだしもなのかも知れないけど・・・愛読書なんて、訊ねられてもいないのに自分語りをする人がいる一方で、なんでもかんでも「趣味の問題」ですませて思考停止してしまう人もいる、というかほとんどの人がそうだ。自分が分からないだけであることに気がつかないで、「つまらない」としか言えない人は、もうそれ以上人間の中身が深まることはないのだから、黙っていた方がいい(笑)