127 「世紀末の夢 象徴派芸術」 フィリップ・ジュリアン 杉本秀太郎訳 白水社




 今回取り上げる本の原題は、"Esthetes et Magiciens ― L,art fin de siecle"、すなわち「耽美家と魔術師 ― 世紀末芸術」。フィリップ・ジュリアンはオスカー・ワイルドやロベール・ド・モンテスキウの伝記を書いて、挿絵画家としても活躍した後、自殺したと伝えられている人。

 この本で、著者は世紀末の美術や文芸、舞台芸術(芸能)に関して、キマイラ、ノスタルジー、ペナレスからブリュージュまで、ビザンチウムといった項目を立てて、世紀末頽廃嗜好の媒介者としてルートヴィヒ二世、サラ・ベルナール、オスカー・ワイルドの3人の名前を挙げています。読んでいると、研究書で学んでいるというよりも、世紀末の人工的な夢幻の迷路を自在に案内されているといった気分になります。こうした本に関しては、なかなか語りにくいところもあるのですが、あえてこの本を選んだのは、「第二章 新しい美」のなかに「アンドロギュヌス」という項目が立ててあって、あらためて一読してみたところ、一見アンドロギュヌスについて書いていないように思われたこと。しかし、キマイラについて語っていても、ノスタルジーについて語っていても、世紀末芸術の背後には、いつもアンドロギュヌス趣味が顔をのぞかせているのだということ。この2点に思い至ったためです。

 アンドロギュノスandrogynos、すなわち両性具有。このことばは、じっさいには肉体的に男女両性の性的特徴・器官を持つ人間のことではありません。プラトンの「饗宴」では「男女(おめ)」(というのは、誰かが考えた日本語訳)がゼウスによって引き裂かれて男と女になるわけですが、これとは違う。旧約聖書では「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう』。神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」とあります。この「人」というのはアダムのこと。そのアダムが神に似せて男と女に創造されたというのですから、神はアンドロギュヌスであるということになります。だから神は「我々」と複数で言っている。イスラエルの神エロヒムElohimの"Eloh"は女性単数形で、これに男性複数形である"im"が結びついたもの。これは修辞上の言い回しだけのことでなく、神の言う「我々」には神に相当する存在が複数あったことを示しているわけです。そして「男と女に創造された」というのですから、アダムもまたアンドロギュヌスで、人間として完璧な存在だった。ところが、寝ている間に肋骨からイヴが創られたので、アダムはアンドロギュヌスではなくなり、単なる男になった・・・。つまり、アンドロギュヌスは天上の諸原理が堕落を経験する前の段階、霊が物質にとらわれる前の状態なのです。

 参考までにもうすこしわかりやすい例を挙げておくと、アリストファネスは、自作の喜劇「鳥」のなかで、オルフェウス教Orphism、Orphicismを登場させています。これによれば、原初の混沌(カオス)、夜(ニユクス)が卵を産み、その卵から愛(エロス)が生まれ、さらにこのエロスが神々と万物を生成した―これがオルフェウス教の宇宙創成説。単独でこれを行ったエロスは両性具有とされているわけです。また、ヘルメスとアプロディテの子であるヘルマフロディトスは美しい少年であったのですが、ニンフに愛されて男女一体となってしまう・・・これも両性具有。ちなみにヘルメスはかかとに翼を持つ神々の使者であり、錬金術の祖神(!)です。もっとも、ヘルマフロディトスは比較的後の時代に創作されたらしく、キケロによればヘルメスとアプロディテの間に生まれたのはエロスだということで、だからエロスとヘルマフロディトスを同一視する見方もあります。

 ただ、いずれにしても両性具有の概念というものは、根元的な統一体、少なくともその観念の形象化されたものであることは確かでしょう。心理学者に言わせれば、両性具有は人間にとって「元型」であるということになります。ラクタンティウスLucius Caecilius Firmianus Lactantius(240年頃 - 320年頃)のような初期キリスト教学者も、創造主は両性具有であるとはっきり主張していますからね。


 
世紀末の神秘主義者は、だからアダムは不完全な存在だと考えた。アダムの失われた言語を思い出すこと、アンドロギュヌスだったアダムの完璧な知恵を取り戻すことが神秘主義の目的となったわけです。これは歴史上の錬金術にも通じる発想で、特段新しいものではありません。ただ、失われたもの(流出したもの・下降したもの)を再び上昇させて一者と交わらせるためには、錬金術で言うところの「賢者の石」が必要になる。これをもって永遠不変の知識が獲得できるということなのです。

 もちろん時は近代、理性の時代、占星術なんぞの出る幕ではありません。ここで神秘主義者が理想としているのは、「男性的原理」と「女性的原理」ということばで象徴的にあらわされる、対立物を一者が併せ持つこと。男女の合一です。すると、この一者はアンドロギュヌスということになる。ついでに言っておくと、だから錬金術が「科学の結婚」と言われるのですよ。もう少し時代を下ると、カール・グスタフ・ユングが男性の夢の中で重要な役割を果たす女性的要素を「アニマ」、女性の男性的要素を「アニムス」と名付けたでしょう。一応あれと同じことだと思ってもかまいません。

 たとえばフランスの神秘主義者ジョゼファン・ペラダンは、アンドロギュヌスを「至高の性」と讃えて、1890年5月には「カトリック聖杯聖堂の薔薇十字団」を設立して、2年後には西洋を頽廃から救うために美術という魔術が必要だとした薔薇十字展を実現しました。ちなみに第1回は1892年3月10日から4月10日まで、場所はパリの画廊。初日は招待客だけでしたが、3月10日には馬車264台がやって来て、握手した人は900人、置かれていった名刺は22,600枚。なにしろ、警察が交通整理に出動したほどの大盛況。ヴェルレーヌもやって来たし(自分の肖像画が展示されていた)、ロベール・ド・モンテスキウも来た。ペラダンが莫迦にしていた自然主義作家エミール・ゾラの姿まで見られたとか。もっとも、この展覧会は第6回で終了して、「カトリック聖杯聖堂の薔薇十字団」も活動を停止しました。どうも、ペラダンのパトロンが、じつは印象派贔屓だったらしいのですね。どうも世俗の都合というものは散文的になってしまっていけませんなあ(笑)



Josephin Peladan

 
さて、話を戻して―世紀末芸術のアンドロギュヌス趣味は詩歌文芸、美術から芸能に至るまで、もうわんさか(笑)象徴主義の画集を開いてごらんなさい、男性の中には女性的要素が、女性の中には男性的要素が見て取れますから。つまり、アンドロギュヌスだらけ。

 ただ、いきなりポンと出てきたわけではありません。ここまでお話ししたように、ベースはあったわけですよ。

 19世紀前半の文学作品でふれておきたいのは、まずバルザックの「セラフィタ」。主人公セラフィトゥス=セラフィタは、ノルウェーの牧師の娘ミンナの眼には男性のセラフィトゥスとして映り、世間を見聞してきた旅人ウィルフリッドの眼には美しい女性セラフィタとして映る・・・ミンナとウィルフリッドそれぞれが恋に落ちるのですが、セラフィトゥス=セラフィタは天上の愛故にこれを拒み、ミンナとウィルフリッドが互いに愛し合うようにと勧めて、自らは昇天して熾天使(セラフィム)となる。その天上界に関する部分は神秘家スウェーデンボリを参考したもののようです。ちなみに、ミンナとウィルフリッドは同時にセラフィトゥス=セラフィタに会っているのに、互いの矛盾に気付かないという・・・バルザックって天才ですよね(笑)

 もうひとつ、忘れてならないのがテオフィル・ゴーチエの「モーパン嬢」。これは貴族の孤児である娘が、結婚する前に男性の正体を知ろうと思いたって、剣と乗馬を習い、男装して遍歴の旅に出るという、恋と涙と冒険の物語。ただし神秘主義的なキリスト教思想とは無縁です。

 このあたりまでが19世紀前半で、これに続いていったのは、ロートレアモンの「マルドロールの歌」(第二歌)が1869年、ユイスマンスの「さかしま」が1884年。



Ludwig II.、Oscar Wilde、Sarah Bernhardt、"Hamlet"を演じるSarah Bernhardt

 
さて、先に述べたように、フィリップ・ジュリアンはヨーロッパの世紀末芸術を覆い尽くしたデカダン趣味の媒介者をルートヴィヒ二世とオスカー・ワイルド、そしてフランスの女優サラ・ベルナールであるとしています。

 言うまでもなく、サラ・ベルナールは広くヨーロッパからアメリカに至るまで名を知られた大女優。その周辺には、ギュスターヴ・モロー、カチュール・マンデス、オスカー・ワイルド、ロベール・ド・モンテスキウ伯爵などといった画家や作家の姿が見られます。「恋多き女」であり、同時に女流画家ルイーズ・アベマと同性愛の関係にあったことは周知の事実。そしてサラ・ベルナールは舞台で美女の役とともに、男役もさかんに演じた人。もちろん、当時若い女優が舞台で青年に扮することはめずらしくもなかったのですが、彼女の場合は、50歳を過ぎてもたびたび青年役を演じていました。1900年にエドゥモンド・ロスタンの「鷲の子」で悲劇の貴公子を演じたときにはもう56歳。ちなみに1899年の「ハムレット」のポスターを描いたのがアルフォンス・ミュシャ。ミュシャは一躍アール・ヌーヴォーの花形画家となりました。

 一方で、もうひとつの舞台芸術、バレエにもご注目下さい。もともと舞踏家というものがすべて男性であったところ、女性が登場したのは18世紀の半ば頃のこと。以来、男性は女性の引き立て役となり、バレリーナはアイドル化して19世紀に頂点を迎え、世紀末に向かって衰微の傾向にあったところ、ヨーロッパ文化の中心地たるパリでバレエが再び日の目を見た。仕掛け人はロシア人、すなわちセルゲイ=パブロヴィチ・ディアギレフ。ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のスタッフといえば若き振付師ミハイル・フォーキン、バレリーナのアンア・パブロヴァ、「奇跡の跳躍」で知られたヴァスラフ・ニジンスキーなど。これらの面々もさることながら、その初期公演で評判を呼んだのはイダ・ルビンシュタイン。その「シェエラザード」では、イダの扮する王妃ゾベイダとニジンスキー扮する金の奴隷による、あたかも美少年のような王妃と美少女めいた奴隷が醸し出す官能の匂いが大評判になりました。


Ida Lvovna Rubinstein

 
イダ・ルビンシュタインはそもそも舞踏の専門家ではなく、もっぱらその少年のような偏平な胸と痩身で観客を幻惑させたダンサーです。彼女の崇拝者たちのなかに、モンテスキウやマルセル・プルーストジャン・コクトーといった同性愛者たちがいることからも、そのアンドロギュヌス的魅力のほどが知られようというものですね。

 また、ロベール・ド・モンテスキウ伯爵がイダ・ルビンシュタインをイタリアの詩人ダヌンツィオに紹介して、霊験劇「聖セバスティアンの殉教」が企画されたことはよく知られていることですよね。音楽はドビュッシーです。これでイダは自分の商品価値を知り、ディアギレフのもとを去って独立することとなり、1928年には自分のバレエ団を結成して、ラヴェルの「ボレロ」など初演しています。生来の遊び人、ダヌンツィオもイダにはまいってしまったようで、彼女あての手紙では「わが弟よ」なんて呼びかけている。ダヌンツィオもまた、イダ・ルビンシュタインから両性具有的嗜好を刺激されて(目覚めさせられて)しまったことがわかります。



Ida Rubinstein and Vaslav Nijinsky in Scheherazade, 1910.

 
先に名前の出たニジンスキーにしてもディアギレフの恋人であったことは公然の秘密で、そのセールス・ポイントはやはりアンドロギュヌス的な魅力を振りまくところにありました。ウェーバーの音楽にのって、性別も定かではなく、薔薇の花弁を模したコスチュームで舞い踊られる、1911年の「薔薇の精」こそ、両性具有舞踏の頂点。まあ、薔薇に限ったことではありませんが、両性花"bisexual flowers"、すなわち雄性器官と雌性器官を両方もつ花ですから、薔薇もまた両性具有であるわけです。ああ、もう象徴的というよりかなりあからさまだ。

 青年貴族オクタヴィアンが女性によって歌われ、一度ならず二度も女装させるという、あたかもカストラート歌手への「先祖返り」を彷彿とさせる、ホーフマンスタールとR・シュトラウスの共同作業によるオペラが、「薔薇の騎士」であることも、偶然とは思えないのですよ。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「世紀末の夢」 フィリップ・ジュリアン 杉本秀太郎訳 白水社


「象徴主義と世紀末芸術」 ハンス・H・ホーフシュテッター 種村季弘訳 美術出版社


「象徴主義と世紀末世界」 中村隆夫 東信堂




Diskussion

Kundry:現実に両性具有というのは存在したのですか?

Klingsol:性器が男女両体である例は、日本でも古くからたびたび記録されている。明治時代には新聞記事にもなっているようだ。日本語では「二形(ふたなり)」「はにわり」「半陰陽」なんて呼ばれていたんだよ。まあ、擬性半陰陽の類は、幼少時代を過ぎるとどちらかの性に傾くので、女子が男子になったといった報告は概ねこれにあたるとみていいだろう。

Kundry:ヨーロッパでもそういった例は報告されていたでしょうから、アンドロギュヌス小説の執筆のヒントになった可能性はありますね。

Klingsol:いずれにせよ、現実の両性具有者は異常者として扱われ、奇形として処遇されたことは間違いないだろうね。それから、謂わば人工的なアンドロギュヌス・・・。

Hoffmann:宦官のことだね。そうドミニック・フェルナンデスの「ポルポリーノ」のカストラート歌手もそのひとつだね。思春期前に睾丸摘出の処置を施され、このため性腺機能が廃絶されるので、男性ホルモンの分泌が止まり、その結果声帯が発達せず、変声期を迎えることがなくなって、子供のときのソプラノやアルトのまま保たれる・・・。

Parsifal:あと、人工的なアンドロギュヌスといえば、ローマ皇帝ヘリオガバルスが有名だ。

Kundry:2世紀頃のローマ皇帝ですね。たしかとんでもないデカダン皇帝だったとか・・・。

Parsifal:頽廃期のローマに現われたデカダン少年皇帝だね。ヘリオガバルスが去勢手術を受けた―つまり男性性器を切除したという証言はその信憑性が不確実ながら、アレクサンドリアから医者を招き、最新の外科手術で下腹に女性器を穿たせたことは間違いないという・・・もっとも、この少年皇帝の場合は別に妻もいたとはいえ、アンドロギュヌス願望というより、いま風に言えば性同一障害の気味があるね。詳しくはアントナン・アルトーの著書か、それを換骨奪胎した澁澤龍彦のエッセイを読むといい。

Kundry:やはり現実の医学的両性具有となると、観念としての両性具有とは別ものと言うべきなのでしょうね。それでは、あくまで心の問題というか、精神的なアンドロギュヌスとはどういったものと考えればいいのですか?

Hoffmann:たとえば結婚願望が強いひと(最近は男の方に多いようだけど)は、男性性または女性性という単一性に固執するタイプだよね。これに対して、複数の性(の融合?)への憧れをもつひとがいる、これがアンドロギュヌス願望者だね。言い換えれば、前者はより理想の異性を獲得したいという欲望を強く持っているし、後者はむしろより理想的な自己を実現したいという欲望を持っている・・・といった違いかな。

Kundry:前者は、いわゆるエロティシズムということとはまったく無縁の存在と思えますね。

Hoffmann:そうだろう(笑)ジョルジュ・バタイユが「エロティシズムとは失われた連続性への郷愁である」と定義した、この「失われた連続性」というのは原初の男女の統一性であり、それへの郷愁というのはアンドロギュヌス憧憬と同質のものだからね。アンドロギュヌス願望者は支配・被支配、あるいは求める者と与える者といった図式のなかにおさまることができない精神の貴族なんだよ。

Kundry:「精神の貴族」なんて、倉橋由美子の小説を思い出しますね(笑)じっさい、性差別なんて、決まって前者が引き起こすものですね。


Parsifal:ミルチャ・エリアーデはアンドロギュヌスという性の普遍化された存在が、神々と交流する能力を持つシャーマンのなかに伝承されていると主張したけど、これは日本でも、神事を司る、たとえば巫女なんかが性差を超えた存在であるのと似ているね。

Klingsol:「古事記」でも須佐之男命(すさのおのみこと)と対決する際の天照大神は男装するし、倭建(やまとたける)も熊曾征伐に臨んで女装しているよね。これは異装によって両性具有となり、聖性を高めようという意図だろう。

Kundry:文学にあらわれたアンドロギュヌスは、お話しでふれられたバルザック、ゴーチエ、ロートレアモン、ユイスマンスですが、私はヴァージニア・ウルフの「オーランドー」も付け加えたいですね。

Hoffmann:「オーランドー」は20世紀文学だったんで省略しちゃったんだ(笑)

Parsifal:あとはレミ・ド・グールモンとかジョゼファン・ペラダンの小説といったところかな。

Klingsol:広くアンドロギュヌス及びアンドロギュヌス憧憬を俯瞰すると・・・男装・女装も含めれば、日本には「とりかへばや物語」があるね。権大納言で大将を兼ねていた有力な貴族が二人の妻によってそれぞれ男の子と女の子を持つ・・・この兄妹のうち兄の方が女として育てられ尚侍として宮中に出仕し、妹の方が男として育てられ、元服して官吏となり右大臣の娘と結婚するという、おそろしく暗い宿命を背負った登場人物たちの奇怪な人生が、感傷的かつ暴露的に描かれたデカダンの色合いの濃いstoryだ。

Kundry:男装・女装といえば、サラ・ベルナールのお話もありましたが、神を司る巫者が性差を超えた存在であり、この巫者の系譜が後の各種の芸能につながるものと言われていますから、サラ・ベルナールなどは俳優(女優)としては先祖帰りのような存在かもしれませんね。

Hoffmann:なるほどね、そう考えると芸能における異装なんて、改めてとくに指摘するようなものでもないのかもしれないね。あと、「精神の貴族」に倉橋由美子の小説ということで思い出したんだけど、文学に描かれた近親相姦なんて、アンドロギュヌス憧憬という面から読み解くことができるかもしれないね。たとえば、ローベルト・ムジールの「特性のない男」でのウルリヒとアガーテの兄妹とか・・・

「君が何であるか、いま判ったよ。君はぼくの自己愛なのだ!」