126 「悪魔と両性具有」 (「エリアーデ著作集 第六巻」) ミルチャ・エリアーデ 宮治昭訳 せりか書房




 この本は次の5つの章(5つの論考)をまとめたものです。

第一章 神秘的な光の体験
第二章 悪魔と両性具有 ― 全体性の神秘
第三章 宇宙の再新と終末論
第四章 綱と操り人形
第五章 宗教的シンボリズムに関する考察


 いずれも宗教学者エリアーデの面目躍如たる考察ですが、今回ここでは、反対の一致と全体性というテーマで、神と悪魔による世界創造の神話を論じた、表題作である第二章をベースにお話ししたいと思います。例によって書評ではありませんから、話は流れ流れて突拍子もないところに行き着くかもしれません(笑)

 悪魔学、デモノロジーDaemonologieから話をはじめましょう。

 私が学生の時分、悪魔学・神秘学の権威をもって任じている手合いが結構いましたね。概ね、澁澤龍彦の「悪魔の中世」だとか種村季弘の「悪魔礼拝」あたりを読んだ程度の知識で、当の澁澤、種村はもうそんなテーマにはすっかり関心を失っていたであろう時期ですよ。「異端」も結構なんですが、異端というのは正統とはなにかを決定する権威次第の存在なんですよ。どうも自分ひとりで異端を気取ってしまうひとには閉口しますね。気をつけないと、いずれ「黒歴史」になっちゃいますよ(笑)




 それはともかく、少し時代を下ると、J・B・ラッセルの〈悪魔概念史四部作〉すなわち「悪魔」「サタン」「ルシファー」「メフィストフェレス」(野村美貴子訳 教文館)とか「悪魔の系譜」(大瀧啓裕訳 青土社)あたりを拾い読みしている人もいたかな。しかし、ラッセルの著書はキリスト教の立場から書かれたもの。「キリスト教の立場から」という時点で、なんだか「悪魔とはこういうものだとご理解下さいねー」という、キリスト教オススメの理解が鼻につくんですね。その証拠に、ラッセルは魔女狩り(裁判)や異端の弾圧に関しては、まるで関心がない。あくまでキリスト教の都合。都合の悪いことにはふれていないのです。

 そう、異端とは権威ある正統次第である、という理屈は、見かけほど皮肉ではないのです。キリスト教に「異端」の烙印を押されたギリシア人、ローマ人、ユダヤ人にとって、「異端」なんてなんの道徳的意味も持たないことばなのです。キリスト教徒が彼らを「異端」呼ばわりするのは小学生が「おまえのかあちゃんデベソ」(古いな・笑)というのと同じ程度の意味しかありません。言っている小学生の想像力ではデベソは最悪の貶下であり、共同体における危険な逸脱を意味することばであるというだけ。つまり妄想。キリスト教徒が言う「異端」なんて、その程度のもの。

 そもそも、それではなにが正統かということを決めるのに、ローマ公教会は5世紀以上かかっているんですから。2世紀にマルキオンが旧約聖書を否定して、パウロの10の書簡と短縮された「ルカ伝」のみが正統だと言い張ったとき、教会はアタフタ・・・。三位一体説にしてからが、エジプトの神学者アリウスがキリストは神に造られた、神に従属するものだと言い出すまではっきりした形になっていなかった。このアリウスは後に破門されて、あちこちであんまりいろいろなことを言って物議を醸すものだから、ニカイアで第1回宗教会議を開いてアタフタ・・・。4世紀になるとキリストと神の関係をどう決め、どう解釈するかでモメにモメて、だれも自説を撤回しない・・・まだまだ続きがあるんですが、なんかね、どこかの会社で今年は何月何日からノーネクタイを可とするかで経営陣が集まって会議を開いたというのを思い出してしまいましたな(笑)笑いが止まらないので、いいかげん本題に入りましょう。




 悪魔を創り出したのはキリスト教です。それがいまやキリスト教の側から、悪魔はもともとバビロニアやペルシアに由来するimageで創り出されてきたものだと主張されるようになってきた。悪魔はいまからおよそ2,000年前のユダヤ教諸セクトの終末論的な想像の産物であり、その結果彼らの編んだ聖書外典によって産み出されたものだと―。これは無理がある。もっとも、驚くようなことでもない。キリスト教が信仰の名の下に、その信仰の共同体から「望ましくないもの」を強制排除しようとするのはこれがはじめてではありませんからね。自分で生んどいて私生児扱い。まるでフランケンシュタインのcreatureだ(これ、ナニゲに結構重大発言ですぞ)。

 たしかに、大元にバビロニアやペルシアに由来するimageはあったんですが、その後は常に時代とともにimageを変えている。どう変えていったかというと、キリスト教に対立するもの、キリスト教がその共同体から排除すべきと判断したものが、悪魔に擬せられてきたわけです。我が国で言えば、朝廷に従わないものを「鬼」と呼んだのと同じですね。

 じつはこうした「悪魔(呼ばわり)」の使い方は、新訳聖書の「マタイ伝による福音書」のなかで、ほかならぬイエスがファリサイ派の人々からやられているんですよ。イエスが悪霊に取り憑かれて目が見えなくなり耳も聞こえなくなった人を癒やしたとき、ファリサイ派の人間たちは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と非難した。つまり、敵対者を悪魔に通じた者だと非難する。以後、キリスト教(教会)は、このファリサイ派と同じことを異教徒に対して行っているわけです。非キリスト者に「悪魔」とか「異端」というレッテル貼りをするのはキリスト教会のお家芸でしょ。ただし、先に述べたとおり、キリスト教に「異端」呼ばわりされたって、なんら道徳的意味を持たないことなんですから、メンタルを強く持って、そんなのは相手の妄想だと思って気にしないことです(笑)

 考えてみれば、キリスト教の唯一神が広大なヨーロッパを支配したのはなぜか。信仰が理由じゃないんですよ。信仰なんて後からついてくるものだから。これはじつは日本人には理解が難しいところで、そもそも日本には悪魔はいない。御札なんかもそうですけど、原始宗教的なお祭りで、お面を被ってお祓いをしますよね。あれは「魔」を祓っているんであって、「悪魔」ではない。日本には神様または神様的なものに対立する「悪」は存在しないんです。そんなものは必要としていなかったから。

 中世のヨーロッパでは異端審問官なんてのがいて、しょっぴかれたらもう終わり。拷問と死が待っている。逃げたって国境を越えて追いかけてくる。魔女裁判で殺された人数は、キリスト教会は十数万人とか言ってますけど、じっさいは、500年間の裁判記録を合計すると二百万人とも言われている。隠蔽ですよ。そのような、なんの意味もない死が日常と隣り合わせだったわけです。じつはね、1970年代にも、スイスの小さな村で小学校の校長先生が女児を拷問して殺しているんですよ。ところがこの校長は、この子には悪魔が憑いていて神の命に背いたから死を与えたんだ、なにが悪い、と言って、この言い分が通っている。つまり不起訴になっている。20世紀に至っても、彼の地には悪魔が存在しているんですよ。キリスト教も、自分たちで創っておいて、いまさらなかったことにはできないということです。事実、五大聖人のひとりである聖アウグスティヌスが「神学大全」で、魔女も悪魔もその存在を肯定している。でも、これが聖アウグスティヌスの妄想だなんて言う人はいない。キリスト教世界でそんなこと言ったら、下手すりゃ殺されちゃいますよ。

 じっさい、悪魔なんていない、と言った立派な学者は少なからずいました。たとえば、「悪魔の眩惑」(1563年)を書いたドイツ人の医師ヨハン・ヴァイヤーなんかは、魔女裁判でサバトについての告白は精神錯乱の生んだ妄想だとしている。さまざまな病気が医学への無知から呪術のせいにされているんだと。それでも、ヴァイヤーは悪魔との契約そのものは否定しなかったんですが、イギリスのレジナルド・スコットという人になると、その著書「妖術の暴露」(1584年)で、すべては異端審問所のでっち上げだと言って、妖術も悪魔も否定している。

 とはいえ、民衆レベルでは異端審問官は恐怖ですよ。その恐怖を創り出したのが教会。教会こそが悪魔なんです。宗教で世界を支配しようとすると、どうしても邪魔な存在、排除したい対象が出てくる。だから神の対立者を必要としたんです。つまり、教会の妄想。アカ狩りと本質において同じなんですよ。そうした政治的な都合による妄想からはじまっているんですが、いつの間にかその手を離れて、悪魔像というものが際限なく膨れ上がってきたわけですよ。だから、悪魔について研究するというのは、キリスト教が自分たちに敵対するものと見なしたものを研究するということなんです。対立者っていうのはね、それ自体が独立した存在ではないんです。なにものかに依拠しているということなんですよ。

 キリスト教はね、もともとは悪魔なんて甘く見ていたんですよ。だって、結局キリストによって克服されるものなんですから。中世の神学者は聖職者はデーモンなんて笑い飛ばしていた。20世紀に至っても、フランスのアンドレ・マルローなんか、「キリスト教の悪魔は無難だ。なぜなら悪魔は神に打ち負かされるに決まっているからだ」と言っている。その悪魔に神と同等の力を持たせてしまえば、単なる二元論のシステムになってしまいますからね。ところが、やっぱり悪魔もキリストの敵にふさわしい程度の存在でなければならないという一面もあって、そこが悩ましいところなんですよ。だから神学論では、悪魔は神に敵対する独立した勢力なのか、それとも単なる一時的な善の欠如なのか、なんて議論に血道を上げてきた。グノーシス主義者はなんとヤーヴェを堕天使のひとりに数えているし、130年頃のマルキオンは、人類は旧約聖書の悪しき神であるデミウルゴスの創造物であり、所有物であるとしている。どれも救済史における悪魔の地位をどうするかという問題で悩んでいたから。よく言われるのが、もし神ですら悪魔を救えないのであれば、それは悪が善と同等の力を有していることの証である―という理屈ですね。




 こうなると、キリスト教も善悪(とは限らないが)ふたつの神を戴く二元論的な宗教に見えてきますね。対して、イランのズルヴァン思想とかルーマニアの信仰では神とサタン(的なもの)が兄弟なんですよ。これはグノーシス派と共通する考え。エチオピアの伝説では聖者と魔女が兄妹です。善と悪の近親関係というのは、宇宙開闢神話によく見られるパターンです。石川賢の漫画にもそんなのがありましたよね。南アルタイの伝説では神が自分自身の身体から悪魔を作るし、トランシルヴァニアの伝説では、神の影からサタンが立ち上がる。これをキリスト教が「反異教化」して、キリスト教の民間伝承の一部に取り入れているんです。なんだか、ナチスの手口と似ていますね。

 キリスト教は世界史を自己中心的な救済史としてとらえることを教義としていましたから、古ゲルマンの異教の神々もオーディンも悪魔に転化させた。そのあたりの事情を解説しているのがハインリヒ・ハイネの「流刑の神々」(小沢俊夫訳 岩波文庫)。でもね、農民や市民は外に出て、森や山や川や海を生活の糧としている。それはやっぱり恐ろしい未知の世界でもあるわけです。その恐怖がキリスト教によって消えるわけではない。理屈じゃなくて感性の上では、眼前に大宇宙の異質な空間が広がっている。それが科学、実証主義で認められざるを得なくなったのが近代。

 裏を返せば、悪魔は宗教にとって、必要不可欠なものなんですよ。悪魔のおかげで歴史上に見られる人間の所業も説明できるし、どんなに理不尽な肉体的苦痛も精神的苦痛も説明できる。悪魔がいなかったら、「なんで神はこんな悲惨な世界しか作れないくせに、全能だなんて威張ってるのサ?」ということになっちゃいます。

 もう一度裏を返すと(笑)キリスト教のおかげで、悪魔は存在し得ている。悪魔が位置を占めているのはキリスト教の内部(だけ)。だから悪魔を否定することはキリスト教にとって自己否定につながってしまう。厄介払いもできないから、教会は困って、悪魔を相対化しようと躍起になっているわけです。



 
インド思想になると、唯一者の多様性と異質性の問題を解決するのに(というのは多少問題を単純化しているんですが)、善と悪、聖なるものと俗なるもの、両極にあるものを「一なるものの対」にしてしまうんですね。つまり「反対の一致」です。統合化、対立の廃棄、分裂の結合。これがインド思想の王道なのです。原初の統一を回復することで完全なものになるというある種の存在論であって、歴史というものに価値を見出さない、なぜなら歴史というものは特定の一状況の儚い様相に過ぎないから。

 その「原初の統一」を象徴的に示しているのが両性具有です。もとをたどればプラトンの「饗宴」ですね。原初の人間は両性具有であって、その姿は球形だったが、驕慢な人間たちは神々に逆らってゼウスの怒りをかい、その身体をまっぷたつに切断されてしまった。それ以来、人間はそれぞれの半身を求めてふたたび元の一身同体になろうと熱望するようになった・・・という「愛慕の説」。19世紀前半にはバルザックの「セラフィタ」がありますが、やはり両性具有の百花繚乱時代は(19)世紀末―ここに至ると、もはや両性具有のシンボリスムは後退してしまって、解剖学的かつ生理学的な雌雄同体として取り扱われるようになる・・・でも、だからこそ、そこに象徴を読み取る意味もあるということなんですよ(笑)

 じっさいには、もしも雌雄同体の子供が生まれたら、その子は両親によって殺されていたんですよ。だから、解剖学上の雌雄同体は自然の変異であって、あるいは神の怒りの徴(しるし)であったわけです。それはもはや解剖学上の問題ではなくて、呪術的・宗教的な力の全体性を意味したから。イヴは女性抜きで男から生まれているし、キリストだって、男抜きの処女懐胎でしょ。そこまでして「設定」をお膳立てしておいたのに(笑)両性具有なんてものがあっては困っちゃうわけですよ。そんなところが、世紀末デカダン派の琴線にふれたものと思われます。

 じつはロマン主義時代にも、ノヴァーリスの友人であったヨーハン・ヴィルヘルム・リッターが、両性具有者は男女の閃光から生まれ、その肉体は不死となろう、と言っている。ドミニック・フェルナンデスの「ポルポリーノ」を思い出して下さい。あの小説では、去勢歌手を、性を超えて、さらに生と死の障碍をのり超えて、不死に至ろうとする欲求の実現であると見なしていましたよね。それに、ドイツ・ロマン主義ではフリードリヒ・シュレーゲルも人類が向かうべき理想は両性具有の獲得にまで至る両性の回復であるとしている。

 もう、「反対の一致」を内包している全体の存在、すなわち両性具有が神話や伝説上の神に見られることは不思議でもなんでもないことだとは思いませんか。ギリシア神の昔から、混沌と形態、闇と光、男と女といった両極をひとつながらに包含している、原初の中性あるいは女性的な神の存在が、独力(単性生殖)で子を産み出すというのは、全体性というものの神秘的表現形式なんです。

 そしてこの両性具有は儀礼において象徴的に再現されます。具体的には、多くの未開人(と、この表現はエリアーデの本に従う)の成年式のイニシエイションで、新参者の下腹部を切開して女性生殖器を象徴的に付与するとか、少年少女の間での衣装交換をするとかいった形であらわれています。花嫁が初夜に付けひげをするとか、妻を迎える新郎が女装する、なんていうのは古代ギリシアにあった風習です。どれも、なにかのはじまり。つまり全体性の獲得は宇宙開闢のシンボルなんですよ。

 そもそも「反対の一致」、対立の結合、分裂の統一を内包した神話とシンボル、儀礼、伝説、信仰は、現実の状況に対する不満をあらわしています。近代的自我ではありませんが、人間は引き裂かれている。そこで、時間とか歴史よりも以前に、享受した原初の状態から分かたれていると感じて、失われた楽園への憧憬から、対立のない統一の状態へ戻りたいという願望を抱くわけです。胎内回帰願望と共通するものですね。

 だから、キリスト教が神の敵対者としての悪魔を創り出したというのは、そもそも誤謬であると言わざるを得ない。おまけに、その悪魔の地位だとか存在意義だとかの議論に血道を上げていたというのも、相当な間抜けぶりであると思うのです。本来なら、仮にも人間を導く教えを広めようという教義が、あれこれ理屈をつけたりするような余地のある問題ではありません。原始宗教や神話・伝説の類いは、とっくの昔からその回答を示していたことなんですよ。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「悪魔と両性具有」(「エリアーデ著作集 第六巻」) ミルチャ・エリアーデ 宮治昭訳 せりか書房


「悪魔の文化史」 ジョルジュ・ミノワ 平野隆文訳 白水社文庫クセジュ


「悪魔」 ルーサー・リンク 高山宏訳 研究社


「流刑の神々・精霊物語」 ハインリヒ・ハイネ 小沢俊夫訳 岩波文庫


「両性具有 ヨーロッパ文化のなかの『あいまいな存在』の歴史」 パトリック・グライユ 吉田春美訳 原書房




Diskussion

Kundry:「反対の一致」ですか・・・勉強になりました。

Klingsol:これは悪魔学を別にしても重要な概念だね。インド思想、恐るべし、だ。

Hoffmann:作曲家のワーグナーに至っては、キリスト教は仏教に歴史的紀元が求められる、紀元前4世紀頃に近東にもたらされて、ユダヤ教の影響を受けて今日の歴史的形態をとるようになった・・・と言っているからね。教団組織の規律がゆるやかで、礼拝(ミサ)もなく、ただ贖罪と善行あるのみだったものが、次第に締め付けが厳しくなって、その途上で成立したのがキリスト教であると・・・ブッダを主人公にした楽劇「勝利者たち」の草稿を残している。

Parsifal:ミトラ密議との類似はたしかだね。キリスト教会はそれで動揺しちゃったんだけど。

Klingsol:ミトラ教と言えば古代ローマだけど、古代のインド・イランに共通するミトラ神の信仰であったものが、ヘレニズムで地中海世界に入ったものと言われているからね。

Kundry:ミトラ(ミスラ)というのは、弥勒菩薩の語源なんですよね。

Parsifal:エリアーデは以前取り上げた「世界宗教史」などを読んでも、全体性への回復をめざす象徴的な死と再生というテーマ(の神話)にとくにこだわりを見せているよね。若き日のインド体験が宗教学者としての出発点だったとは、よく指摘されるところだ。


Hoffmann:両性具有に関しては、パトリック・グライユの「両性具有 ヨーロッパ文化のなかの『あいまいな存在』の歴史」(吉田春美訳 原書房)を勧めておきたいな。ヨーロッパ文化というのは、文学、神話、歴史からさまざまな芸術分野に加えて宗教、医学も含めてのこと。両性具有がそのなかで完璧さと曖昧さの間にある存在とされたことを論じたものだ。ひと言で言えば神話化と脱神話化の流れを追っている。

Kundry:悪魔関連では以前、私が大和岩雄の「魔女論 なぜ空を飛び、人を喰うか」、Parsifalさんがギンズブルクの「闇の歴史 サバトの解読」、それにKlingsolさんがリチャード・ギャラガーの「精神科医の悪魔祓い デーモンと戦いつづけた医学者の手記」を採り上げたことがありましたね。Klingsolさんの選択は異色でしたけど(笑)

Parsifal:そしてHoffmann君はウィリアム・フリードキンの映画「エクソシスト」"The Exorcist"(1973年 米)について話したんだったね。

Kundry:悪魔関連では今回Klingsolさんが参考文献に挙げたほかになにを読んだらいいでしょうか?

Parsifal:キリスト教の立場から書かれた本だけど、ジュール・ミシュレの「魔女」(上下2巻 篠田浩一郎訳 現代思潮社)は外せないだろう。いまは岩波文庫でも読めるはずだ。それに、カート・セリグマンの「魔法―その歴史と正体」(世界教養全集第20巻 平田寛訳 平凡社)、原題は"The History of Magic呪術の歴史"で、これもいまもって基本図書だ。

Hoffmann:基本図書というのなら、J・G・フレーザーの「金枝篇」も絶対だよ。永瀬卓介訳で岩波文庫5巻本、初版本の翻訳はちくま学芸文庫で上下2巻本で出ている。

Klingsol:ミシュレにフレーザーか・・・それなら毛色の変わったところで、グリヨ・ド・ジヴリの「妖術師・秘術師・錬金術師の博物館」(林瑞枝訳 法政大学出版局)を挙げておこう。原著は1929年に出ていて、著者はカトリックの人だけれど、信仰よりは学究的な立ち位置が優先されているうえ、該博な知識に支えられているので、オカルティズム面から理解する助けになる。それに、ロマン主義(文学)に現れた悪魔像なら、なんといってもマリオ・プラーツの「肉体と死と悪魔」(倉智恒夫ほか訳 国書刊行会)は必読だ。これはできればHoffmann君に取り上げてもらいたい本だね(笑)