100 「フランケンシュタイン」 メアリ・シェリー 森下弓子訳 創元推理文庫 今回はメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン ― または現代のプロメテウス」を取り上げます。 フランケンシュタインは怪物の名前ではない この「フランケンシュタイン ― または現代のプロメテウス」(1818年)を読んだことのあるひとはどのくらいいるでしょうか? 最近は翻訳も複数出ているので結構読まれていますかね。ひと昔前には「フランケンシュタイン」を知らない人はいなくても、たいがいは映画を観て、「知っているつもり」で誤解している人が多かったんですよ。 じっさい、英文学者の由良君美が、当のフランケンシュタインを扱った某国営放送の教育番組のリハーサルに臨んだところ、フランケンシュタイン博士の創造した怪物が、「ドラキュラ」まがいの棺桶から、ギィーッとふたを開けて姿を現したんだとか。ツッコミどころ満載で、そもそもフランケンシュタインというのは、怪物の名前じゃあない。ちょっとばかり知っている人ならフランケンシュタインは人造人間を創った側、フランケンシュタイン博士だと言うかもしれない。しかし、これも厳密には間違い。フランケンシュタインは原作では学生です。ともあれ、怪物(クリーチャー)と、それを創造した科学者の名前が混同されて、おまけにその怪物たるや「アーウー」と呻くことしかできない、ボリス・カーロフが演じたユニヴァーサル映画のimageに固定されているのには、いまさら驚きもしませんがNE。 その意味では、「フランケンシュタイン」というのは、もはや文学作品の世界を超越して(逸脱して)、語り伝えられる伝承の世界で「神話化」してしまっているのですね。ま、それはそれでメアリ・シェリーもたいへんな物語を創作したということであり、ボリス・カーロフもまたまことにたいした足跡を、映画史に、どころか人類史に残しているということです。「フランケンシュタイン」と言えば、ほとんどの人が、額が突出して傷だらけの顔、首からはボルトが飛び出しているその姿を思い浮かべることでしょう。視覚imageというものは、やはり強烈なんですね。 じっさい、フランケンシュタインの怪物に関して、いわば「紳士録」でも作成しようだなんて野望を抱いたらエライことになります。映画だけでもユニヴァーサルのボリス・カーロフにハマー・フィルムのクリストファー・リィ。ユニヴァーサルだってカーロフの「フランケンシュタイン」"Frankenstein"(1931年 米)「フランケンシュタインの花嫁」"Bride of Frankenstein"(1935年 米)だけではなく、コメディに至るまで何作もあるし、ハマーだってリィ以外のモンスターもあり、女性の人造人間だっている。フランシス・フォード・コッポラは言うに及ばず、「ブレードランナー」"Blade Runner"(1982年 米)だってそう。映画以外でも、石ノ森章太郎の漫画版「人造人間キカイダー」がフランケンシュタインものの亜流です。「人造人間キカイダー」がそうなら、「ピノッキオ」(正しくは「ピノッキオの冒険」"Le avventure di Pinocchio")も同じこと。映画に話を戻せば、そもそも1910年にJ・サール・ドーリーが脚本・監督を担当し、「エジソン・スタジオ」によって制作された映画から話をはじめなければならないのです。広く社会を見渡せば、臓器移植や人工知能、さらにはドーピング問題にだってかかわってくる問題でしょう。 "Frankenstein"(1910) エジソン社の作品番号#6604。16分ほどの短篇で、怪物を演じているのはチャールズ・オーグル。 あらすじ ここでstoryを解説しておくと― 小説は、イギリス人の北極探検隊の隊長ロバート・ウォルトンが姉マーガレットに向けて書いた手紙という形式の枠物語。 ウォルトンはロシアのアルハンゲリスクから北極点に向かう途中、北極海で衰弱した男性を発見して助ける。彼はヴィクター・フランケンシュタインと名乗り、ウォルトンに自らの体験を語りはじめる。 スイスの名家出身でナポリ生まれの青年フランケンシュタインは、父母と弟ウィリアムとジュネーヴに住んでいた。両親はイタリア旅行中に貧しい家のエリザベスを養女に迎えて、ヴィクターたちと一緒に育てる。フランケンシュタインは科学者を志し、故郷を離れてドイツ・バイエルンの名門のインゴルシュタット大学で自然科学を学んでいたが、やがて生命の謎を解き明かそうという野心にとりつかれる。そして、「理想の人間」を創ろうと、墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで生命の創造に成功した。 誕生したのは「理想の人間」というよりも「怪物」。筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜いものとなって、そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のジュネーヴへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体のために生き延び、野山を越え、言語も習得してフランケンシュタインのもとへたどり着く。怪物はフランケンシュタインの弟ウィリアムを殺し、その殺人犯として家政婦のジュスティーヌが絞首刑になる。 孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して、自分の伴侶となり得る女性の怪物を造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束する。フランケンシュタインはストラスブルクやマインツを経て、友人のクラーヴァルに付き添われてイギリスを旅行し、ロンドンを経てスコットランドのオークニー諸島の人里離れた小屋で、もうひとりの人造人間を作る。しかし、怪物の増殖を恐れたフランケンシュタインは怪物の要求を拒否して完成間近の女性の怪物を破壊する。クラーヴァルは怪物に殺され、フランケンシュタインは海からアイルランド人の村に漂着し、クラーヴァルを殺した犯人と間違えられ、牢獄に入れられる。 この疑いが晴れて、彼は故郷のジュネーヴに戻り、父の配慮で、養女として一緒に育てられたエリザベスと結婚することになるが、その夜、怪物が現れてフランケンシュタインへの復讐のためにエリザベスを殺害する。フランケンシュタインは怪物を追跡し、北極海までたどり着くが途中で倒れ、ウォルトンの船に拾われたのだった。 すべてを語り終えたフランケンシュタインは、怪物を殺すようにとウォルトンに頼み、船上で息を引き取る。また、ウォルトンは船員たちの安全を考慮し、北極点到達を諦め、帰路につくことにする。そこに「創造主」フランケンシュタインから名も与えられなかった怪物が現れ、フランケンシュタインの死を嘆き、ウォルトンに自分の心情を語った後、自ら焼け死ぬために北極海へと消える・・・。 Mary Wollstonecraft Godwin Shelley 原作解読の見本帖 メアリ・シェリーの創作については、2005年にユニークな本が出ています。廣野由美子の「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」(中公新書)がそれ。文学テクストをどう読むか(読み解くか)、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」を俎上に載せて、その読み方の実例を展開したものです。これは目次を挙げておきたいところ― I 小説技法篇 1 冒頭 2 ストーリーとプロット 3 語り手 4 焦点化 5 提示と叙述 6 時間 7 性格描写 8 アイロニー 9 声 10 イメジャリー 11 反復 12 異化 13 間テクスト性 14 メタフィクション 15 結末 II 批評理論篇 1 伝統的批評 ①道徳的批評 ②伝記的批評 2 ジャンル批評 ①ロマン主義文学 ②ゴシック小説 ③リアリズム小説 ④サイエンス・フィクション 3 読者反応批評 4 脱構築批評 5 精神分析批評 ①フロイト的解釈 ②ユング的解釈 ③神話批評 ④ラカン的解釈 6 フェミニズム批評 7 ジェンダー批評 ①ゲイ批評 ②レズビアン批評 8 マルクス主義批評 9 文化批評 10 ポストコロニアル批評 11 新歴史主義 12 文体論的批評 13 透明な批評 これだけ並べられると、いまさら私がなにを語ろうと、このうちのどれか(いくつか)に分類されてしまいそうです(笑)たとえば、ディオダティ荘の怪奇談義を発端に描いたケンラッセル監督の映画「ゴシック」"Gothic"(1986年 英)だったら、フェミニズム批評とジェンダー批評を軸に、精神分析批評をスパイスとして振りかけて、背後に伝記的批評を見え隠れさせておけば一丁上がり・・・かな?(笑) ディオダティ荘の怪奇談義 おっと、不用意に「ディオダティ荘の怪奇談義」なんて言ってしまった(笑)これはケン・ラッセルの映画「ゴシック」"Gothic"(1986年 英)で確認していただくこととして、簡単に述べておくと、じつは「オトラントの城」の話のときにも少しふれていたんですが、ディオダティ荘 Villa Diodati というのは、ジョン・ミルトンの友人ジョヴァンニ・ディオダティの遠縁であるディオダティ家が、スイスのレマン湖畔に所有していたこと別荘のこと。これを借りていたのが詩人ジョージ・ゴードン・バイロン。1816年、ここにバイロンのほか、医師ポリドリ、詩人シェリー、メアリ・ゴドウィンとその妹ら5人の男女が集まり、民話集「ファンタズマゴリアーナ」"Fantasmagoriana"(1812年)の幽霊物語を読んだ。これが世に言う「ディオダティ荘の怪奇談義」。このとき、「フランケンシュタイン」の序文によれば― 「ひとりひとりが幽霊物語を書こうじゃないか」"We will each write a ghost story."とバイロン卿は言った。みな彼の提案に応じることにした。 そして生まれたのがメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」とポリドリの「吸血鬼」。厳密に言えばそれに加えて、バイロンの「断章」として知られる未完の作品もあります。 ゴドウィン主義と呼ばれた急進的革命思想家ウィリアム・ゴドウィンを父に、「女性の権利の擁護」という著書で有名な女権論者メアリ・ウルストンクラフトを母に、18世紀も末の1797年に生まれたメアリ・ウルストンクラフト・シェリー。彼女がすでに妻のいた革命詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと駆け落ちしたのが1814年、メアリは17歳のときのこと。そして2年後の1816年、ジュネーヴに赴き、バイロン卿を別荘へと訪ねた。このときメアリの異母妹であるクレア・クレアモントが同行しています。このクレアは詩人バイロンの愛人。3人はバイロンとその主治医ポリドリと会って、この「ディオダディ荘の怪奇談義」の末、恐怖小説を競作しようということになったわけです。参考までに、このときの年齢は、メアリ18歳、シェリー23歳、バイロン28歳、ポリドリ21歳。なお、クレアは知的ではなく芸術に対する関心もなく、文学談義にはほとんど加わっていなかったようです。 ちなみにポリドリの「吸血鬼」は当初はバイロン作として伝えられて、ゲーテなどは「バイロン最良の作」なんて言っていましたが、結局バイロンもシェリーも恐怖小説を書きませんでした。書かれたのは先に述べたとおり、ポリドリの「吸血鬼」と、メアリ・シェリーによる「フランケンシュタイン」。 Mary Wollstonecraft Godwin Shelley、Percy Bysshe Shelley、George Gordon Byron 「現代のプロメテウス」とは 「フランケンシュタイン」は副題に「あるいは現代のプロメテウス」とあります。プロメテウスというのは、人間に火を与えた罪で岩山に縛り付けられ、ハゲワシに食われる。「現代のプロメテウス」というのは、生命の創造という知を追求して、その引き替えに愛する者を失う(殺される)フランケンシュタインのことを指している・・・と見れば、それでいいのでしょうか? 知識や教養が、これはプロメテウスの火と同じで、その利用が文明をもたらす場合もあれば、武器や破壊に結びつく場合もあり得る、ということを忘れてはいけません。「志」と「野心」は紙一重です。メアリ・シェリーの時代にして、無垢で無知な人間は既になく、知識や教養にまみれているが故に、かえって各人がアクセスできる情報によってしか判断できないのです。たとえば、ヴィクターが生命を創造しようとするのは、少なくとも途中からは野心より以上のものではありません。殺人犯の濡れ衣を着せられた侍女ジュスティーヌを救うこともせず、ただ怪物に復讐することしか考えていません。かつては、フランケンシュタインも、生命の秘密を究明して人造人間を創ろうという理想に燃えていました。しかし一応の目的を果たした後の彼には、もはや人類を救済しようというプロメテウス的な精神は見られません。 そのようなヴィクターにくらべれば、怪物の方がまだしもと見えるのは、読者たる側の感情移入の故でしょうか。しかし、ここでご注意いただきたいのは、怪物の側も知識を求めていることです。じっさい、小説のなかで、「諸帝国の没落」「プルターク英雄伝」「失楽園」「若きウェルテルの悩み」といった本を読んでいる。どれも、当時の知識人の若者が読んでいた本です。しかし、怪物はかなり感情移入して読んだようで、「若きウェルテルの悩み」では、社会から誤解されていると感じて自殺する若者に自らを投影し、「失楽園」からは、自分がアダムであると同時に堕天使サタンであると認識している。こうして身につけた教養や知識で、理路整然とヴィクターを非難できるし、南米に希望の地を想像してもいる。つまり、怪物もまた、おそらく読んだ本から得た知識で語り、生きようとしているのです。ですから、怪物の側もまたヴィクターという相手を裁くことしか念頭にない。それぞれの知識が反対のベクトルを向いているのです。 さらに付け加えれば、怪物のヴィクターへの抗議・非難・要求は、プロメテウスのゼウスへの反逆と同じです。自分の尊厳をかけて反抗しているのは怪物の側です。つまり、ヴィクターとの対峙はゼウス的絶対神との対峙です。だから怪物はフランケンシュタインを「創造主」と呼び、自分のことを「お前のアダムだ」と言っているのです。先に述べたとおり、この段階でのヴィクターには、もはや人類を救済しようというプロメテウス的な精神は見られません。むしろ、怪物を創ったことにより、人類の後々の代まで悪疫をはびこらせるのではないかと、恐れ、怯えているばかりです。従って、隷属を嫌い、自由を求めて反抗しているのはフランケンシュタインではなく、怪物なのです。この小説に見られるプロメテウス像は、人造人間完成まではフランケンシュタインですが、以後は怪物の側に移行するのです。 「孤独」というテーマ この小説は北極探検に向かう語り手が姉へあてた手紙の形式とっており、そのなかで語り手はフランケンシュタインに会い、その異常な体験を聞く、そのフランケンシュタインが語る話のなかには人造人間が語る自己の物語がはめこまれているという「枠物語」です。この語り手は孤独に苦しんでいて、友がほしい、と姉にあてて書いています。一方、フランケンシュタインも、自分の生い立ちを語るなかで孤独を、さらに人造人間、すなわち怪物を造った結果陥ることとなった孤独を語っています。そしてその怪物がもっとも悲痛な叫びをもって、自己の孤独を語っていることにご注目下さい。心が人間的に成長するにつれ、容貌が醜く恐ろしいが故に疎外される自分の運命に悲しみをこらえきれず、ついにフランケンシュタインに伴侶を造ってくれと要求する・・・。 こうしたところから、テーマを人間の孤独、と読むことも可能でしょう。それは、真理の追求と知の獲得によっても解決することの出来ないものであり、それがもとになって悲劇を生んでいるわけです。 「道理を説くつもりだったのだが、癇癪を起こしてはこちらの分が悪くなる。この激情ももとをただせばあんたに責任があるんだが、そんなことは思っちゃくれまいからな。誰かがおれに善い感情を持ってくれさえしたら、おれは百倍、二百倍にもして返してやろう。そのたったひとりのために、全種族と和解もしよう! だがそんな幸せを夢見ても、現実になりはしない。筋の通った穏当な頼みじゃないか。おれと性の違う、同じくらいおぞましい生き物を創れと言うんだ。満たされるものはちっぽけだが、受けとれるものはそれしかないのだから、それでおれは満足しよう。なるほど自分たちは怪物で、世界じゅうからつまはじきにされるだろうが、それでおたがいいっそう深く結ばれることになるだろう。幸せな暮らしはできまいが、害もなさず、今のようなみじめさは味わわずにすむだろう。おお、わが創り主よ、幸せにしてくれ、ひとつだけでも恩を受けたと、感謝させてくれ! おれに同情を寄せてくれる生き物もいると、見せてくれ。この頼みをはねつけないでくれ!」 (森下弓子訳) この、悲痛にして感動的な台詞によって、フランケンシュタインも一度はこの要求に同意するものの、怪物の子孫が増えることを恐れ、女の怪物を破壊してしまい、復讐を受けることになります。この増殖の恐怖は、増殖の希望の反転です。ヴィクターはエリザベスと結婚して、家庭を持とうとしている。そうすれば子供も生まれるでしょう。それはヴィクターにとって、自分の希望です。ところが、自分が望むことを恐るべき対象がそのまま真似ることは恐怖につながるというわけです。しかも、ヴィクターによる女の怪物破壊は、伝統的な抑圧型の管理形態ではなく、管理型の支配形態であることに注目して下さい。ヴィクターは(不遜にも)「あるべき人間」像に適合しない怪物を「断種」するのです。これがこの時代の小説に描かれているのは驚異的にして恐るべき先見性です。 読者も、悲しみに打ちひしがれた怪物には同情せずにいられないのではないでしょうか。最後はフランケンシュタインが死に、怪物は海に浮かぶ氷の塊にのって、闇のなかに消えゆきます。 語り手も、フランケンシュタインも、真理を追及しようとするが故に孤独になる。怪物も知を獲得して、人間的な感情を発達させればさせるほど孤独になる点では同じなんですが、怪物の場合は、もともと忌み嫌われる存在であり、愛は求めても得られない・・・。しかも、この小説では怪物こそがもっとも威厳に満ちた、崇高な人物と感じられるのです。 その、怪物の孤独について、補足しておきましょう。この怪物は孤児です。家庭内で育まれる幸福も、理不尽な叱責も体験していない。まず、女性の子宮で生まれていないから母親がいない。これは聖書のアダムと同じ。そしてヴィクター・フランケンシュタインに擬似的な父としての承認を求めるのですが、これははじめから拒否されている。 そこで言語を習得して一人前の成人となった怪物は、ヴィクターに自分の家族を求める。アダムがイヴを求めたわけです。ヴィクターは同情と嫌悪感に引き裂かれながらも、一度はこの要求をのむ。ところが、女性の怪物の完成間近になって、怪物の家族が増殖することを恐れ、女性の怪物を破壊してしまう。これはよく考えてみると、ヴィクターが怪物の「生殖」を想像したということです。これが20歳にもならない女性であるメアリの作家としての誇るべき独創性なのです。ヴィクター・フランケンシュタインという男が生殖以外で生命を創造する物語を書きながら、ヴィクターも怪物も、生殖というもの(あるいはそのimage)に呪縛されているのです。 望みを絶たれた怪物はヴィクターの花嫁エリザベスを婚礼の夜に殺害、結果的にヴィクターの一族はそのほとんどが死亡します。怪物は孤独なまま、ヴィクターも孤独になります。 「フランケンシュタイン」(1831年改訂版)の内表紙。挿絵はTheodor von Holst画。 「フラケンシュタイン」読解 この小説は、文学史的にはゴシック小説、あるいはロマン主義の小説、という見方が一般的ですが、SF小説の先駆とする見方もあります。先の批評理論でも示されているとおり、多様な捉え方が可能ですね。いずれにせよ、人間=生命を創造するという夢に取り憑かれた科学者の物語、そして創造された人造人間の悲劇の物語です。 この物語の執筆はバイロンの提案であると同時に、「ファンタズマゴリアーナ」から得たインスピレーションであること、そして18世紀末に勃興したロマン主義が称揚する「感情に訴える」語りの手法であること、加えてロマン派詩人たちが慣れ親しんでいたのが一般に「バラッド」Balladと呼ばれる口承文化によって古くから伝えられてきた民話であり、折も折、ドイツのゴットフリート・アウグスト・ブルガーによる「レノーレ」(1774年)でバラッド・リバイバルの気風が起こっていたことなどを考え合わせると、ここでメアリが幽霊物語を執筆しようと試みるのは突飛なことではなく、むしろ幼少期から慣れ親しんだものへの関心が昂じたものと見てもいいでしょう。 また、生命創造というモチーフに関しては、執筆前にバイロンとパーシー・シェリーがエラズマス・ダーウィンやガルヴァーニの電気実験について熱く語り合っていたという事実があります。人造人間なんてSFじゃないかと言うなかれ、人造人間はモチーフなんですよ。テクストには「死」「夢」「花嫁」「青白い死体」といったことばやそのimageが執拗に繰り返されています。これこそ、古バラッドの、またそれを継承したゴシック小説の文脈にあるものです。たとえば、この小説の表題が「死の花嫁」だったとしても、そんなに違和感はないでしょう。 心理学的な読解 まず、心理学的な読解を試みると、怪物はフランケンシュタインの分裂した自我であると見ることが可能でしょう。抑圧された本能、すなわち醜いものが脅威となって回帰してくる、それが怪物であるという解釈です。 思春期に入って母を失い、ひとり異郷に留学して精神的な危機に陥り、さらにはプラトニックな純愛の対象でしかないエリザベスとの結婚が控えているフランケンシュタイン。堅実に道を切り開いているクラーヴァルは、その嫉妬心によって殺されたのです。観念と精神の世界にのみ生きるフランケンシュタインに現実の結婚(つまり性行為)は無理、なので物質界から介入してこようとするエリザベスは邪魔であるが故に始末される。そして人格的統一を果たすことの出来なかったフランケンシュタインは、その分裂したもうひとりの自分である怪物を抹殺するために追跡の旅に出る・・・。ラストシーンについて註釈を付けておくならば、そのような主体であるフランケンシュタインが死ねば、もうひとつの自己であった怪物も自然に消滅してしまうわけです。 そう考えると、多くの人がフランケンシュタインという名を怪物の名前と混同しているのは、図らずも真相を突いてる、ということになりますね。だからといって、この解釈だと、結局のところこの小説は「善と悪の闘い」の寓話になってしまう・・・ということではありません。先に述べたとおり、ヴィクターと怪物の知識はそのベクトルが反対を向いているのです。怪物がエリザベスを殺害して、ヴィクターが「他者」を喪失したとき、彼はようやく怪物と同じ立場に立つ。憎しみに満ちた仮借ない追跡劇の末辿り着いた氷原において、ヴィクターは息絶えるのですが、これは分裂した自我の和解と見なすことも可能でしょう。 科学小説としての読解 次に、科学面からの読解を試みると、フランケンシュタインは科学という名の悪魔に魂を売ったファウスト的人物ということになります。人造人間の創出はいわば錬金術。生命を科学的に作り出すことは可能か。「新しい種族」を生み出すことは可能か。言い換えれば精神がすべてのものの頂点たりうるのか、ということです。近代科学はすべてのものを物質として扱うわけですが、これに対するアンチテーゼでもあります。 さらに、この時代は産業革命の時代、産業革命は工場労働者という「新しい種族」を生んでいることにもご注意下さい。この小説のなかで怪物は努力の末、知識と教養を身につけますが、たとえばメアリ・シェリーの父ゴドウィンの考えていたような、教育の機会を与えることによって、人間はその能力を展開できるとした性善説は、この小説のなかではほぼ否定されており、怪物は人間の世には受け入れられていません。むしろ、人間にも自然界にも許容されない怪物が創り出されており、創り出したのはフランケンシュタインという名の「創造主」です。 ただし、フランケンシュタインによる人工生命の創造が、人間の領分をわきまえない神への反逆であったために悲劇が生じたとする捉え方は、皮相に過ぎると思います。たとえ、作者がそのように発言していても、です。それだと、この小説は単に保守的な宗教観を示すものにしか過ぎないことになってしまいます。もしもそんな発想がテーマであるならば、否も応もなく怪物を暴れさせてヴィクターの親族を殺害させればすむこと。怪物に家庭(家族)とかその情愛が与えられなかったこと、擬似的な父であるヴィクターから疎まれたことなどは、まったく別の話です。理性より感情を重視したのはメアリの、というよりも時代の風潮としてのロマン主義です。この小説は、感情重視とそのような保守思想が両立するものではありません。 流行りのフェミニズム批評 フェミニズム批評ではどうなるか? メアリの個人的な事情・境遇も見逃せません。メアリが生まれた後、母親でありメアリ・ウルストンクラフトは産後の肥立ちが悪く、10日後にこの世を去っています。これはメアリのトラウマとなって、母親を死なせたのは自分ではないかと悩み続けることになりました。このトラウマは、「フランケンシュタイン」における被創造者による創造主殺しのテーマ、出産にまつわる不安と恐怖、自己のidentityを探索するために書かれたものを手がかりにすること(怪物は数々の古典作品を読み、メアリは母親の著作や手紙、日記を読みあさった)として表象化されています。 さらに、メアリとシェリーとの間に1815年に生まれた女の子は生後数日で死亡、翌年には男の子ウィリアムが生まれますが、シェリーに正妻がいる以上、いずれの子供も私生児の扱いとならざるを得ない存在。「フランケンシュタイン」はそのような状況で、1816年に執筆がはじめられています。同年12月にシェリーの正妻ハリエットが自殺してようやく結婚の障害はなくなるものの、メアリは罪悪感に苛まれることになります。「フランケンシュタイン」の完成は1817年5月14日で、出版は1818年3月。9月に三番目の子として女の子を出産するも22日後に死亡。これより以後のことになりますが、長男ウィリアムは1819年に4歳で死亡しています。祝福されぬ私生児、罪の意識、こうした状況が、世間に受け入れられない怪物に投影されていたとしても不思議ではありません。ついでに言っておくと、「フランケンシュタイン」は当初匿名で、「作者不詳」として出版されています。つまり、この小説も私生児扱いであったということ。 このあたりの読解はフェミニズム批評の得意とするところ、というか、「流行り」ですね。 この小説はなにを「恐怖」「悪」「異常」としているのか さて、この小説における「恐怖」とはなんでしょうか。あるいは、この「恐怖」というのを、「悪」とか「異常性」と言い換えてもかまいません。人造人間のどこが「恐怖」だったり「悪」だったり「異常」だったりするのでしょうか。神をさしおいて生命を創出したという、宗教的な理由でしょうか。それもあるかもしれません。だとしたら、現代に生きる、また私のような「宗教嫌い」にとっては、この小説は「寓話の形式を借りた、(どうでもいい)お説教本」ということになります。しかしどうもそのような短絡的な次元の問題とも思えません。 問題は生命の創出それ自体よりも、その扱い方ではないでしょうか。つまり、病気だから治療する、という「管理」は問題ない(一応そういうことにしておきます)。しかし新たに創り出すということが問題なのではないか。生命という観念が生まれたのは(重視されるようになったのは)19世紀以降です。それまでの古典時代には、生物学が成立できなかったと指摘するのはミシェル・フーコーです。つまり、生物はただそこに「ある」だけだったのです。生物を生物たらしめるものにまでは考えが及んでいなかった。19世紀以降に探求されていくことになるのは、その生物の、生命のエネルギーとかパワーです。それは、病気を治すための、病気にならないための、医学の進歩とか衛生学の発展という形で現れています。別に人道的な発想じゃありません。産業革命で安定した労働力と高い生産性が求められたからです。それだけです。 ところが、「フランケンシュタイン」では個人、それもヴィクターという男性が生命を創り出している。女性ではなく、結婚という制度にも無関係。だから異常とされるのです。出産を通して形成されるべき家庭もない。母もなく、父もない。なので、生まれた子も健やかであることが許されないのです。 この点に関しては、メアリ・シェリーにも、いろいろ個人的な境遇から思うところがあったわけですが、個人的にはここにもの申したいところです。 かなり以前のことですが、ある新聞に女性の投書が掲載されていました。それは人工授精に関する意見で、その要旨は「人工授精をしてまで子供を欲しがる人の気が知れない。生まれてきた子供が可哀想だ」というもの。私も私の周囲にも、人工授精をした人はいないことをお断りしたうえで申し上げると、この投書を読んで、たいへん不愉快でした。というより、かなり腹が立ちました。生まれてきた子が可哀想だとすれば、このような考え方をする女がいるからです。人工授精であろうが、帝王切開であろうが、未熟児であろうが、生来の障害を持っていようが、生まれてきた子供が可哀想かどうか、誰に決められると言うんですか。この投書をした女性には、単にオツムが弱いというだけではないものを感じます。ミルクは母乳でなければいけないとか、添加物は絶対にダメとか、我が子に一切の予防接種を受けさせないとかいった、「狂信」に近いものが透けて見えますね。つまり、その狂信は親のものであって、独立した子供の人格とは無関係です。 「フランケンシュタイン」に話を戻すと、私は怪物の増殖を恐れて女性の怪物を破壊する(つまり断種する)ヴィクターによる生命の「管理」の方が、よほど許されない行為だと思います。なんの権利があって? 「管理」の方が悪質です。いかなる出自であろうと、その生命に関して、いかなる管理も許されないと、私は思っています。この「管理」が権力機構と結びついたおかげで、優生保護法などという悪法が生まれ、ナチスはこれを利用してユダヤ人や障害者を殺害し、我が国でもハンセン病の患者が強制的に断種されたのです。近頃「毒親」などということばを聞きますが、「私の子なんだから私がどうしようと勝手だ」と言う親がいたら、みなさんはどう感じますか。ヴィクター・フランケンシュタインは、このような台詞を吐いていないものの、じつはその行動は、いわゆる「毒親」のものなんですよ。ここには未だ人間個人の権利意識が認められないのです。 (おまけ) 一昔前には考えられないことでしたが、現在は複数の翻訳で読むことが出来ます。上記で創元推理文庫版の森下弓子訳を引用した怪物の台詞を、その他の翻訳でも引用しておきますので、ご参考にどうぞ。最初に原文を示します。 "I intended to reason. This passion is detrimental to me ; for you do not reflect that you are the cause of its excess. If any being felt emotions of benevolence towards me, I should return them an hundred and an hundred fold ; for that one creature's sake, I would make peace with the whole kind! But I now indulge in dreams of bliss that cannot be realised. What I ask of you is reasonable and moderate ; I demand a creature on another sex, but as hideous as myself ; the gratification is samll,but it is all that I can receive, and it shall content me.It is true, we shall monsters, cut off from all the world: but on that account we shall be more attached to one anather.Our lives will not be happy, butthey will be harmless, and free from the misery I now feel. Oh! my creator, make me happy : let me feel gratitude towards you for one benefit! Let me see that I excite the sympathy of some existing thing : do not deny me my request!" 「おれは道理を説くつもりだったんだ。こう腹を立てては、おれの損だ。おれが腹を立てる原因がおまえ自身だということを、おまえは反省していないからな。もし、だれかがおれに慈悲の気持を感じたなら、おれはそれを、一万倍にもして、返すだろう。そのひとりの人のために、人類全体と仲直りするだろう。だがこれも、実現不可能な至福の夢にふけっているに過ぎないのだ。おれが要求していることは、筋が通って、控え目なものだ。おれは性別の違う、だがおれと同じくらい醜悪なものをひとり要求してるんだ。得られる満足も少ないが、いまのおれが受け取れるのはそれだけなのだ。だからそれで満足しようと思う。たしかにおれたちは怪物ということになり、世間とは切り離されることだろう。でもそれだけに、おれたちはいっそうお互いに愛し合うようになるだろう。おれたちの暮らしは幸福にはならないだろうが、害悪を及ぼすこともなく、おれがいま感じているこのみじめさからも解放されるだろう。おお! わが創造主よ、おれを幸福にしてくれ。おまえに対する感謝の気持ちを感じさせてくれ! たったひとつ好意を示してくれればよいのだ。おれがだれか生命あるものの同情を引き起こしたのだということを、この目で見させてくれ。おれの頼みを断らないでくれ!」 (臼田昭訳 国書刊行会) 「いや、理を説くつもりだったのに、かっとなるのは、こちらの損だ。こんなふうに怒りが込みあげてくるのも、元を糺せばおまえに原因があるのだが、当のおまえがそうは思っていないのだからな。たったひとりでいい、おれに哀れみをかけてくれる者がいるなら、それを百倍にも二百倍にもして返してやるさ。そのたったひとりのために、すべての人間どもと和解したって言い。だが、そんな甘い夢に浸ったところで、現実になりはしない。だったら、おれの頼みは筋の通ったものじゃないか。ごくごく、ささやかなものじゃないか。女を創ってほしい。おれと同じ生き物で、おれと同じぐらい醜い女を。おれの虚しさが、それですべて埋るとは思わないが、おれが手にできるのは、それがせいぜいだ。ならば、それで納得しよう。確かに、おれもおれの伴侶も怪物だ。世の中に受け入れてもらえるとは思ってない。だが、それだけに互いの絆は却って強くなるはずだ。幸福な暮らしとはお世辞にも言えないだろうが、人間どもに害を与えず、迷惑もかけずに生きていける。今のようなみじめな思いも味わわずにすむようになる。おれの創造主よ、おれを幸せにしてくれ。おれのちっぽけな願いを聞き届けて、おまえに感謝させてくれ。おれに同情を寄せる者もいるのだということを示してくれ。おれの頼みを断るんじゃない!」 (芹澤恵訳 新潮文庫) 「いや、話をするつもりだった。かっとなると気分が悪くなる。それもこれもおまえのせいだが、そっちはそんな風には思うまい。誰かがおれに哀れみをかけてくれれば、それを何百倍にもして返してやる。そのたった一人のために、誰とでも仲良くしよう! だがそんなうれしい夢に浸ったところで、現実になることはあるまい。おれの頼みはそんな大それたことではない。ささやかなものだ。 おれと同じ生き物、おれと同じくらい醜い生き物をつくって欲しい。ちっぽけな願いだが、おれが手にできるのはそれがせいぜいいだ。だから文句は言うまい。なるほどおれたちは怪物だから、世間には受け入れてもらえないだろう。だがそうなれば、互いの絆は一層強くなる。幸福な暮らしとはとても言えまいが、平和に生きることはできるし、今のおれのような惨めな気分を味わうこともない。創造主よ、おれを幸せにしてくれ! 願いを聞き入れてくれれば、お礼の一つも言いたくなるだろう。おれに同情を寄せてくれるものが欲しいのだ。頼むから願いを聞き入れてくれ!」 (小林章夫訳 光文社古典新訳文庫) 「やれやれ、説き伏せるつもりだったのだが、こう頭に血を上らせたのでは話も聞いてはもらえんか。そもそも原因はお前にあるのだが、当のお前はそれを知らんのだからな。もし俺に愛情を向けてくれる者がこの世にいたとしたならば、俺はそれを何百倍にもして返してやるとも。そのたったひとりのためであれば、世界のすべてと和解したっていい! だがそんなものは現実にありえんおめでたい夢想というものさ。俺の頼みも理に適い、筋が通ったものじゃないか。ほんの小さな見返りだが、それさえ与えて貰えるのならば、俺はそれで満足なんだ。確かに俺たちは化け物だから、世界から追い出されることになるだろうが、だからこそふたりはさらに強く結ばれることになるはずだ。幸福な暮らしとは言えんかもしれないが、少なくとも今俺を苛んでいるような苦痛もなく、自由な暮らしだ。ああ! 創り主よ、俺を幸福にしてくれまいか。ただひとつだけ俺に善をなし、それに感謝をさせてくれまいか! どうか、誰かと心重ねるその興奮を俺にくれ。どうかこの願いを聞き届けてくれ」 (田内志文訳 角川文庫) このほか、古い角川文庫版がありますが、これは抄訳である上に訳文にも問題があるため、ここでは省略します。 (Hoffmann) 参考文献・引用文献 "Frankenstein" Mary Shelley Edited by Johanna M.Smith bedford Books of St.Martin's (1992) (第3版) (第2版) 「フランケンシュタイン」 メアリ・シェリー 森下弓子訳 創元推理文庫 「フランケンシュタイン」 メアリー・シェリー 芹澤恵訳 新潮文庫 「フランケンシュタイン」 M・W・シェリー 臼田昭訳 国書刊行会 「フランケンシュタイン」 メアリー・シェリー 小林章夫訳 光文社古典新訳文庫 「新訳 フランケンシュタイン」メアリー・シェリー 田内志文訳 角川文庫 「批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義」 廣野由美子 中公新書 「フランケンシュタインの世紀」 日本シェリー研究センター編 大阪教育図書 「メアリ・シェリーとフランケンシュタイン」 モネット・ヴァカン 辻由美訳 パピルス 「フランケンシュタインとは何か ―怪物の倫理学―」 武田悠一 彩流社 「フランケンシュタイン・コンプレックス 人間は、いつ怪物になるのか」 小野俊太郎 青草書房 「フランケンシュタインの影の下に」 クリス・ボルディック 谷内浩正、西本あづさ、山本秀行訳 国書刊行会 「ゴシックの解剖」 唐戸信嘉 青土社 「英国ゴシック小説の系譜 『フランケンシュタイン』からワイルドまで」 坂本光 慶応義塾大学出版会 「ホラー小説大全 ドラキュラからキングまで」 風間賢二 角川選書 「幻想と怪奇の英文学 II」 東雅夫、下楠昌哉責任編集 春風社 「みみずく偏書記」 由良君美 青土社 Diskussion Kundry:やはり驚くべきことは、この怪物の悲劇の物語を描いたのが、19歳の若い女性であったということですね。英語の読める人ならばぜひとも原書で読んで欲しいところです。なんというか、金属的なかっちりした文章なんですね。ロマンチックですけれど、センチメンタルにべたつかない、名文です。 Parsifal:まったく同感だ。文体については、時代と、いまKundryさんが言ったようなものであることを前提に、訳文を見て、どれを読むか選べばいい。 Hoffmann:クラシックの同じ音楽をいろいろな演奏を愉しむのと同じでね、別な翻訳が出ていると、つい読んでしまう(笑)読む必要はなかったな、というものもたしかにある。 Klingsol:形(カタチ)を変えてはダメだね(笑)あと、怪物が話しことばだけではなく、「失楽園」や「若きウェルテルの悩み」などを読んで言語を習得したことを忘れているんじゃないかと疑いたくなる人もいる。日本人だってかつてはドイツに行って学校で習ったとおりに喋っていたら、ドイツ人から「あなたはまるでゲーテのように話しますね」なんて言われたんだから(笑)意訳はいいとしても、言葉遣いは配慮するべきだと思うな。 Kundry:それにしても、すばらしい小説ですね。「読解」する方法がひとつではないということも名作の条件十分ですが、単純に神を恐れぬ挑戦・・・などという解釈ですまされるものではないと思います。 Hoffmann:さんざん喋っておいていまさらなんだけど、やっぱり「分裂した自我」というのは捨て難いんだな。フランケンシュタインが自分が創ったものをあれほど疎ましく思う理由が、見た目が醜いというだけでは説得力に欠ける・・・。 Kundry:あるいは、親にとって子供というものは、自分の分身を見るようなところがあるということかもしれませんね。 Parsifal:そうやって話がはずんでしまうところが名作の証拠なんだ。「世界文学全集」に収録されるべき一作だね。 Hoffmann;フェミニズム批評に関して、「流行りの」なんて皮肉っぽく言ってしまったけれど、翻訳の出ているメアリ・シェリーのほかの作品、「最後のひとり」"The Last Man"(:森道子、島津展子、新野緑訳 英宝社)、「マチルダ」"Mathilda" (市川純訳 彩流社)あたりも、わりあい同様の読み解きがふさわしいのは事実なんだよね。 (追記) 「映画を観る」で次の作品をupしました。 「フランケンシュタイン」 (2004年 米・斯) ケヴィン・コナー その他のフランケンシュタイン映画 (こちら) 「ゴシック」 (1986年 英) ケン・ラッセル (こちら) 「ミツバチのささやき」 (1973年 西) ビクトル・エリセ (こちら) |