156 「タイム・マシン」 (「タイム・マシン 他九篇」) H・G・ウエルズ 橋本槙矩訳 岩波文庫




 
SF小説は読まない、という人がいます。読まなくはないけれど、タイム・マシンとなるとねー、と言った知人もいる。あまりに荒唐無稽、テーマとしてやや幼稚ではないか、という反応です。いや、私だってタイム・マシンものなら、情報を過去へ送ることができるコンピュータが登場するジェイムズ・P・ホーガンの「未来からのホットライン」(小隅黎訳 創元推理文庫)の方が、小説としては好きです。しかし、この1895年に発表されたH・G・ウエルズの「タイム・マシン」は時間旅行を扱った初期の作品であるために、いろいろと「元型」と言えるような要素がうかがわれるのも事実です。また、執筆時点の世界が抱えていた問題、それに縛られていた作者の姿勢も読み取れます。

 
storyを簡単に―

 語り手は「私」。物語の主人公は「時間飛行家(タイム・トラヴェラー)」と呼ばれている。私は科学者・発明家である「時間飛行家」のもとを訪れ、複数人でタイム・マシンの説明を聞くが、誰もこれを信じようとはしない。「時間飛行家」は翌週までには人が乗って時間を移動することのできるタイム・マシンが完成すると言って、じっさいにみんなが集まる前に未来へと旅行する。その未来は西暦802,701年。

 その未来の世界では、人間は二種類。一方は地上に住んでいる、現在の貴族の末裔と思われるエロイ。小柄で穏やかで美しいが、虚弱で知能程度も低い。もう一方は地下に住んでいる、現在の労働者階級の末裔と思われるモーロック。目は夜行動物のように光り、光が当たらないため肌は白く、その姿は猿のよう。しかし地上人と地下人の立場は逆転していて、モーロックはエロイを食料にしている食人種族で、ためにエロイはモーロックを恐れている。

 「時間飛行家」はモーロックと闘い、さらに遠い未来へと旅立つ。滅亡しつつある地球に残る最後の生物、巨大な蟹などを目撃して、現代に帰還。「私」を含む友人たちにこの物語を語り、その後再びタイム・マシンとともに姿を消す・・・。


Herbert George Wells

 まず、ユートピア小説ではない、アンチ・ユートピア小説である点にご注目下さい。もちろん、「時間飛行家」は進歩した未来と進化した未来人を期待していたわけです。ところが、未来人エロイは身の丈4フィート(約120cm)。美しく優美なんですが、ひ弱な身体。そればかりか、知性的にも道徳的にも、劣った存在であること。「時間飛行家」にとっての「現代人」の5歳児レベルであると判断しています。

 その、身体的にも、精神的にも、道徳的にも劣った状態を、みんなが同じ服を着て、女性的な手足をしていると表現している。つまり、ユニセックス化。おっと、H・G・ウエルズが未来を予見していたなんて早合点する前に、ここで表現されているユニセックス化は、女性が男性的に、男性が女性的になるという相互作用ではなく、一方的に男性が女性的になることですからね。そして肉体的な力に頼ることのない平和な世界は、特段子孫繁栄も求められず、家族制度というものも重要ではなくなっている。なにしろ無政府状態。しかも、その精神性、道徳性は子供のよう。飽きっぽくて、助けてやっても、お礼など期待できそうもない。ウエルズのような19世紀人にとっては、真に好ましからざる現象として書かれていることにご注意下さい。さらにモーロック。外見は猿のよう、つまり人類の先祖返りした姿です。しかも、人肉を食らうケダモノですよ。

 この未来像は、進化論の逆をいっている。むしろ退化論。進化論というのは、当時、単に生物の種の進化だけではなく、社会全体に適用可能な理論であり、方法論でもあったのです。奢る平家は久しからず・・・じゃありませんが、進化も頂点に達すると、以後は退化が進むというわけです。その「頂点」がいつなのか、当時は、人類はもうその頂点を折り返してしまったと考えている人も多かったのですね。それがロンブローゾの犯罪学の学説なんかでも、ベースにあるわけ。好ましからざる無学な貧困層。それに植民地の被支配者たち。黒人をはじめとする有色人種とかユダヤ人も含まれるでしょう。そうした退化論が、たとえば優生学を導いたわけですよ。

 おっと、少し先走ってしまった。植民地といえば、未来世界でタイム・マシンを探す主人公の前に、スフィンクス像が現れますよね。時間旅行だから、場所としてはそこはかつてロンドンだったはず。それなのにスフィンクスがある。これは西洋人にとって、支配すべき対象である、オリエント世界の象徴なんですよ。

 主人公「時間飛行家」は、ここまでさんざん劣った状態を「女性化」とか「野獣化」を意味することばで表現してきましたが、ここで植民地であるオリエントが新たに登場している。言うまでもなく、これもまた植民地支配されるべき劣った状態をあらわしているんです。じつは、知性、体格的、精神的、道徳的に劣っているという性質、それに女性的というのも、植民地支配を正当化するための東洋観、オリエンタリズムなのです。だから我々西洋人が支配してやらなければならない、相手は従属すべき劣等人種なのだから、という理屈。H・G・ウエルズが劣った未来人、獣のような地下人を描くのに費やしたことばは、ウエルズの時代に、東洋人や植民地人を言いあらわすのに使用された常套句なんですよ。

 ・・・と同時に、相手を恐れてもいるんです。これはブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が海外・異国からの「侵略恐怖」という不安に基づいて、ワラキア人たるドラキュラのロンドン侵攻を描いたのと同じ構図です。西暦80万年の未来世界では、かつての貴族階級の末裔エロイと労働者階級の末裔モーロックのヒエラルキーが逆転していますよね。世界の誰よりも先駆けて未来世界まで進出した帝国主義が、もろくも崩れ去っている。アジアやアフリカ、被植民地が、進化の頂点から退化しいった帝国を脅かしているわけです。

 先ほど、退化論が、たとえば優生学を導いた、と言いましたよね。すぐれた人間集団を人為的に作ろうとするのが優生学です。望ましい人間を増やすために、優秀な男女による再生産(出生)を推進する・・・とは、裏を返せば、望ましくない人間を減らして、採取的にはゼロとするということ。劣等人種は結婚も子供を作ることも禁じる。断種です。こうした構図はユートピア小説で否定的に描かれることがしばしばありますが、H・G・ウエルズはこのアンチ・ユートピア小説で退化への恐怖、下層階級の反逆を描いている。

 優生学が個人と国家を結びつけ、たとえばナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に利用されたことはいうまでもなく、我が国の「保健政策」でも、ハンセン氏病患者に対する断種が行われていたことはみなさんも御存知でしょう。優生学が否定的にとらえられるようになったのは、1970年前後のこと。いや、私の実感ではもう少し後ですよ。優生学が進歩観であったのはそんなに昔のことではないのです。エロイやモーロックに、退化とか下層階級への恐怖が投影されているということは、ウエルズも進化論やその社会的な影響・風潮から逃れられてはいなかったということです。

 なお、優生学を反省した現在の価値観が、先端医療やバイオテクノロジーに対する批判の基準点となっていることも事実で、言うに言われぬ違和感をもって批判に傾くというのは、また別な問題があります。しかしながら、現在の価値観で過去を裁断することを禁じて、それこそナチスのホロコーストを正当化してしまっては、なんのための価値観の更新なのかわかりません。現在「悪」とされるものが、かつて「善」とされていたことはたしかで、人間というものは、その時代によっていかような価値観も持ち合わせることが可能なのだ、という前提を持っておくことが必要なのではないでしょうか。私は個人的にはそもそも優生学というものに嫌悪感を禁じ得ませんが、優生学のもっとも大きな問題は、これが国家と結びついて、人間個人の権利に介入したところにあったと思っています。従って、現在の保健政策が予防医学に大きく傾いており、これが「望ましい国民(市民)」という概念を導くことはないのかと、危惧しています。もちろん、そうした概念は「望ましくない国民」という反対概念を生み出すことになり、同時に新たな差別感情を生じさせることになると考えられるからです。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「世紀末の長い黄昏―H・G・ウェルズ試論」 宗洋 春風社
 ※ 参照しましたが、あまり参考にはなっていません。




Diskussion

Kundry:そもそも「タイム・マシン」という発想はどこから?

Parsifal:これはやっぱり19世紀の恐竜の化石や古代遺跡の発掘という、過去への関心、その過去の遺物というモノに対する関心が生んだんじゃないかな。化石から当時の姿を復元するということは、過去の再生だからね。

Hoffmann:さらに相対性理論。アインシュタインによる特殊相対性理論の発表は1905年で、ウエルズの「タイム・マシン」は1895年だから、それよりは先なんだけど・・・たとえば「浦島太郎」の話。浦島太郎は龍宮城へ行って、帰ってきたら何百年だかの年月が経過していて、身近な人が誰も残っていなかった。ヒンズー教の聖典である「マハーバーラタ」にも、天界に行って地上に戻ってきたら、長い時間が経っていて知人がみな死んでいたという話があつ。つまり、時の経過それ自体は理解していたし、ひょっとすると二人の観測者がいるときに、なんらかの事情(相対性理論なら速度とか重力場)によっては時間差が生じるという発想があったんじゃないか。時間が延び縮みするかもしれないことを、ほとんど無意識的に、理解していたのかもしれないよ。

Parsifal:とはいえ、もちろん、過去とか未来とかに行く、行って戻って来る、つまり旅行するという発想はなかっただろう。これはウエルズ以来だろう。

Hoffmann:そりゃあ、だれも時間の経過なんてことに興味がなかったからだよ。世紀が変わる時だって、あまり関心を持ってはいなかった。そもそも100年という区切り自体にもあまり意味を見出していなかった。100歳まで生きる人もほとんどいなかったでしょ。せいぜい終末論が語られる程度。それは変化というよりも断絶だったんだよ。技術の進展だって遅々たるもの。ましてや、交通手段から見て、情報の伝達も格段に遅い・・・。

 それが変化したきっかけは、やっぱりね、「無意識」の誕生と同じなんだな。グーテンベルクの印刷術で文化や知識が保存されるようになったよね。口承文芸は文字になって、当初の形のまま保存されるようになった。それに加えて産業革命が起きて、社会が誰の目にもはっきりわかるほど、急速に変化するようになった。急速な変化だから、永井荷風岡本綺堂じゃないけれど、過去に思いを馳せ、懐かしむ人も出てくる。このあたりから、「過去」と「未来」というものが意識されるようになったんだろう。


Klingsol:ロンドンと東京には8時間の時差があることは、いまならだれでも知っているよね。東京からロンドンに出張した同僚に連絡を取る時は、これを考慮に入れておかないと、深夜にたたき起こすことになってしまいかねない(笑)ところが、かつて時間はすべて地域固有のものだったんだよ。そもそも移動手段もなければ通信手段もなかったんだから、地域による時刻の違いなんて考える必要はなかった。ところが鉄道が敷設され、長距離通信も行われるようになった。だからジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」で、フィリアス・フォッグは東周りで一日稼いでいたという、一発逆転の結末に至ったんだ。そうした発想も、時間管理局が創設され、地域間で時刻の統一が図られるようになったおかげなんだよ。

 時刻だけじゃない。かつては暦だって各地で異なっていた。これも統一しないといけなくなって、第一次世界大戦後に発足した国際連盟はカレンダーを統一するべく、グレゴリオ暦を採用しようとしたわけだけど、たとえばロシアやブルガリアはそれを採用すると、なにもしてないのに一気に13日も国民が歳をとってしまうので異議を申し立てている。暦に合わせるために13日も歳をとらされるということは、勝手に・知らぬうちに時間が経過するということ。ああ、時間とか暦(年月)って、人間が決めることだったんだ・・・と実感したんじゃないかな。

Parsifal:そういえば、いまは廃止されたけど、かつて「閏(うるう)秒」という調整が行われていたよね。地球の自転が1日に1,000分の1秒くらい遅れているというので(じっさいは不規則な変動)、1972年以来、数年に1回、協定世界時(UTC)に1秒を追加して調整していた。でも、天文時、それに我々の人生にとっては、その1秒は「なくなってしまった」わけではない。「閏秒」が廃止されたのは、コンピュータ・ソフトウェアへの影響などといった理由によるものでしかないんだ。

Hoffmann:相対性理論に加えて、時刻や暦の統一、「閏秒」などは、じっさいに我々の心臓が鼓動して、世界がわずかずつでも間断なく変化していることとは無関係に、時間を13日、あるいは1秒、未来にしてしまったんだよ。認知の問題との絡みにしてしまえばそれまでなんだけど、時間というものが、行ったり来たりすることができるものだというimageは、こうしたところからも発生したんじゃないかな。


Kundry:ははあ・・・それでは、80万年後の世界があたかも退化論に基づくアンチ・ユートピアであるのは、ウエルズが優生主義者だったためですか?


Hoffmann:ウエルズが優生学支持派だったことはたしかだね。

Klingsol:だから・・・と言っていいかどうか、ユートピア小説が描く世界は内部の均質性が特徴だよね。それこそが優生学の目指すものなんだよ。H・G・ウエルズは「モダン・ユートピア」"A Modern Utopia"というユートピア小説も書いている。"Samurai"という貴族階級が統治していて、世界国家ができあがっているから戦争はないし、なによりも個人の自由が尊重されている。社会主義団体フェビアン協会に参加していただけに、ちょっと社会主義的だ。いや、序文に優生主義者は進歩主義で社会主義だと書いてある。


Parsifal:その優生学に立脚したうえでの、退化の恐怖と植民地や下層階級への恐れや不安なんだと理解しておく必要がある。無邪気なSF小説ではない。

Kundry:優生学とか優生主義というものは、いまも姿を変えて存続しているんじゃないでしょうか。以前にも言ったことがありますが、現代の生活習慣病予防とか、病気の治療よりも定期健康診断、という風潮には違和感があるんですよね。

Parsifal:たしかに、国、公共団体、役人による個人の健康問題への介入に至るよね。ナチス的だ。

Hoffmann:以前、言ったことがあるけど、もう一度繰り返しておこう。「健康管理」ということばは、だれも望んでもいない病気を「自己責任」に帰するためのレトリック、詭弁なんだよ。だからこの延長線上に、「人工透析患者なんて自業自得だ」「そのまま殺せ!」などと言い出すナガタニガワ豊とかいう「異常者」が現れるんだよ。自分が差別される側に回ることなど絶対にないという根拠のない確信も、差別感情の典型的な例だ。ちなみにこの男、後になって「意図的に煽ることでエンターテインメントのような見せ方を狙っていた」「楽しくなければ、面白くなければ発信しちゃダメだと考えてい」た、と言っているのには心底びっくりしたね。「人工透析患者なんて自業自得だ」「そのまま殺せ!」という発言が「エンターテインメント」で「楽しく」「面白い」と思っていたというのなら、ナチス・ドイツどころじゃない、正真正銘の狂気だ。

Kundry:ところで、「タイム・マシン」は映画になっていますよね。

Hoffmann:ジョージ・パルが監督してロッド・テイラーが主演した「タイム・マシン 80万年後の世界へ」"The Time Machine"(1960年 米)だね(DVDは「タイム・マシン」)。2002年にリメイクされているけど、なんといってもこの古典のほうがいい。とはいえ、原作は結構改変されていて、原作が書かれた後の第一次世界大戦も描かれているし、1966年には核戦争でロンドンが焼かれている、エロイとは会話ができるし(英語を喋る)、モーロックとは闘うし・・・それこそ無邪気なSF映画で、金髪碧眼の白人至上主義の匂いも鼻につく。単独で取り上げるほどのものでもないな。




Hoffmann:親友ジェームズ氏との友情は微笑ましい、持つべきものは友なるかな。ちょっと可笑しいのが洋装店のマネキン人形だ。同じ人形がウィンドウの中で何十年もがんばっているんだよ(笑)