100 「魔王」 "Der Unhold" (1996年 独・仏・英) フォルカー・シュレンドルフ 先にParsifal君がウォルター・ラカーの「ドイツ青年運動 ワンダーフォーゲルからナチズムへ」を取り上げてくれたので、ヒトラー・ユーゲントあたりに関連する映画をと思って、フォルカー・シュレンドルフ監督作品を選びました。「ブリキの太鼓」"Die Blechtrommel"(1979年 西独・仏)はすばらしかったのに、「スワンの恋」"Un Amour de Swann"(1983年 仏・西独)があまりにも退屈な凡作だったので、たいして期待もせずに観たのですが・・・。 原作はミシェル・トゥルニエの小説で、storyは― 子どもの心を持ったまま大人になったかのような内向的な男アベル。彼は自動車修理工になったいまも人付き合いが苦手だったが、唯一、近所の子どもたちには親しまれていた。ところがある日、一緒に遊んでいた美少女がついた嘘のため、アベルは強姦罪で摘発され、戦地に送られてしまう。戦地では早々にドイツ軍の捕虜になってしまったアベルだったが、従順な性格からドイツ軍のナポラ、ナチのエリート養成学校の雑用係となり、やがて、子どもたちと打ち解ける姿を見た上官から、村々を回って少年兵をスカウトする任務を負わされる。やがて迫ってきたソ連軍、アベルは子どもたちを逃がそうとするが・・・。 ミシェル・トゥルニエの原作は読んでいて、あえて原作を忘れ、無視するようにしてみたのですが・・・残念、ダメでした。 ソ連軍が迫るなかで子どもたちを逃がそうとするが、子どもたちからは「フランス人め」「こいつは敵だ」と罵られ暴行を受ける・・・この結末、原作を知らなくても予想がついちゃいますよね。 アベルの子供好きは片思い。でも、それが当たり前なんです。おまけに、児童性愛者的な要素が多分に見られる。「ブリキの太鼓」じゃありませんが、「大人になりたくない」「胎内でぬくぬくしていたい」ような男が、たとえ相手が子供でも、社会性を身につけた他者と人間関係を結ぶのは無理な話なんですよ。まともに交流できるのは盲目のヘラジカとか鳩のような無垢な魂だけ。 検索してみたら、やたらとヒトラー・ユーゲントが美しく描かれているとか、アベルを演じているジョン・マルコヴィッチの名演技がどうとか言っている人が多い。なんでかなーと思ったら、DVDの特典映像で、作家ふたりのトークが収録されていて、そのとおりのことを言っている。みんな同じように感じるということなのか、それともこのトークを見てレビューを書いているのか・・・いやあ、この映画、ヒトラー・ユーゲントが美しく描かれてなんかいませんよ。とてつもなく陳腐で紋切り型です。じつは期待していたんですよ、ナチスを美しく描いた、そんな映画があったっていいじゃないか・・・って。でも、ゲーリングがいかにもな調子で戯画化されていたあたりで、嫌な予感はしていたんですけどね、予感は的中してしまいました。 アベルはあれでもいいんですよ。狂気とか精神的に病んでいたりなんらかの障害を持っていたりする人間こそが無垢であり、真実を語る、というのは、映画でも昔からよくあるパターンです。めずらしくもない。いや、その欠陥が変態性欲だったとしても、それもいいんです。それでも「聖痕」の暗喩とすることは可能です。そういったキャラクターが、「ブリキの太鼓」のオスカルのように、主人公ならぬトリック・スターとしてナチズムの社会を観察したらどのように映るのか・・・いっそ原作を無視して、そんな映画になっていたら面白いものになっていたかもしれません。 ところがすべてが中途半端。原作にあった宗教性(とくに終盤)は好むと好まざるとにかかわらず、希薄にされてしまい、なにより少年たちが定型的な紋切り型のステレオタイプですから、観ていて、なにも感じない。美しく描かれているんだってねーと期待していたのに、美しくもなければ嫌悪感を抱かせるでもない。フォルカー・シュレンドルフに言いたいのは、アナタが少年たちをどうとらえているかではなくて、アベルの目に少年たちがどう映っているのかを、映像で見せなければならなかったんじゃないですか、ということ。だから、ラストのユダヤ人の少年を担いで沼をゆくシーンも取って付けたようだし、ここでの独白(ナレーション)のsentimetalismは度し難いほど低俗の極み。脚本や監督の問題だとしても、これでマルコヴィッチの演技がどうかと問われても、たいしたものとは見えませんよ。原作だと、その人物像もそれまでの印象と変わって、コントラストが効いてくるんですけどね。 まあ、それでもこの「映画を観る」で3回も取り上げられたのはいまのところフォルカー・シュレンドルフだけですからね。たまたまその時々のテーマに則していたからなんですが、一応注目はしていたということです。 なお、DVDの特典映像に収録されている、なんとかいうふたりの作家がしゃべっている「スペシャルトーク」について。このふたりのうちのひとりの作家は、ほとんど10秒おきに「要するに」と言っているんですが、その後のしゃべりの方が長くて、ちっとも「要して」いない。あるいは、「要するに」のあとに、ぜんぜん違うことを話しはじめている。私の職場にもこういうやつ、いましたけどね、「要するに」ということばは、なにも話すことのないひとが多用することばなんですよ。なにも言うことが思いつかないのに、(なにか言わなきゃ・・・)と焦って、ほとんど無意識に、つまり会話の脈絡を無視して口に出すことば。じっさいこのひと、「○○がすごい」「××は・・・すごい」と「すごい」も多用している。表現力とかボキャブラリーの問題かもしれませんが、それ以上に、なにも考えていないから話すことがなかったんでしょう。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 |