116 「華氏451」 "Fahrenheit 451" (1966年 英) フランソワ・トリュフォー フランソワ・トリュフォー監督の映画「華氏451」"Fahrenheit 451"(1966年 英)です。アメリカの小説家・詩人、主に、SF・幻想・怪奇小説作家として知られ、わが国で翻訳も出ているレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を原作とする、本を読むこと、所有することが禁じられた近未来を描いた映画ですね。華氏451度とは摂氏でおよそ233度、書物が自然発火する温度のこと。 本をテーマにした本(著作)といえば、ステファヌ・マラルメ、モーリス・ブランショ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスときて、我が国では中島敦、比較的新しいところではエリアス・カネッティ、そしてウンベルト・エーコの「薔薇の名前」などが思いつきます。「薔薇の名前」では、ある書物が宗教的な立場から危険思想扱いされていますが、ブラッドベリの「華氏451度」では、あらゆる本が発見次第火炎放射器で焼き尽くされるという法令がこの未来社会を支配しています。人々は常時ラジオから流れる情報を聞き、家では巨大なテレビスクリーンがをながめていれば幸福になれるというシステムの、いわば管理社会です。ところが焚書官(ファイアマン)のひとりであるガイ・モンターグはふとしたことから読書に目覚めてしまい、書物というものが世界の本質を理解するための手がかりであることに気付きます。終盤、モンターグは当局から追われる身となって、この管理社会を逃れたコロニーに加わることとなるのですが、その小集団では、ひとりひとりが書物となっています。 焚書と言えば以前取り上げたナチス・ドイツにおけるそれを思い出しますが、これはユダヤ系の作家による本などと、一応選別された本の焚書でした。さすがに書物という書物をすべて焼く、所有することも禁止する、という世界観はあまり現実的ではありません。つまり、このstoryはかなりお伽噺的なんですよ。寓話と言った方がいいかな。お伽噺とか寓話というものは、世の中の出来事、歴史上の出来事の最大公約数なんですよ。いつの時代、どこの地域、いずれの社会でも適用しうる原型なんです。ただ、そうなると今度はactualな問題提起として迫ってくる力を失ってしまう。これがたとえば歴史書がすべて禁止されたとか、特定の思想に関わる本が禁止されたとかいう設定であったとすれば、それだけ世界観は狭まってしまうものの、ポイントを絞った問題提起にはなり得るわけです。 それでは、この原作で、すべての本が禁止されるという近未来を描いた意図は? 作者のブラッドベリ自身は、「この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊(a story about how television destroys interest in reading literature)」であると2007年のインタビューで述べています。あら単純。いやあ、でもこれはそのまま受け取れないなあ。たしかにそういった意図もあったかも知れませんが、それだけじゃないでしょう。これはよく言われていることですが、焚書とか国民の管理とかいったあたりから、ブラッドベリが当時のアメリカに吹き荒れていたマッカーシズム、すなわち「赤狩り」旋風に対する抵抗としてこの小説を書いたことはほぼ間違いありません。思想の検閲を書物の禁止にして、これをSF小説のステージ上で綴り、展開してみせたのでしょう。 そしてもうひとつ、その世界は近未来ですが、映画に関して言えば、トリュフォーは小道具や人々の生活様式、ファッションを描くにあたって、1940年代のナチス占領下のフランスをモデルにしているということです。これで気がついたのですが、この世界では国家の管理よりも以上に、その末端である市民相互の監視や密告が目立っているんですよ。この点は原作でも同様なんですけどね、映画だとこれがいっそうクローズアップされて描かれている。これはナチス占領下のパリばかりではなく、ナチスに併合されたオーストリアのウィーンでも、ドイツ本国でも同様だったわけです。もちろん、赤狩りにおいても、アメリカ議会のやったことは、ナチス体制下のドイツにおけるそれとなんら変わるところがない。後の第40代大統領、ロナルド・レーガンが俳優時代にかつての仲間たちを売ったことは、ここでのKundryさんのお話にもありましたよね。 個人的には、20世紀末ごろから急速に普及したインターネットとか、モバイル端末といった情報機器がもたらすものと、本(書物)というものの本質的な相違といった問題には、あまり興味がありません。PCと紙の印刷物の違いというのが、さほど本質にかかわる問題とは思えないんですね。「なにかが失われつつある」式の指摘は多分に情緒的なものだと思うんですよ。ただし付け加えておくと、私も紙の本に対してはかなり情緒的です(笑) そういったことよりも、私が興味深く感じるのは、コロニーの人々は、そもそも文字というものがなかった古代の「語り部」となっていることです。いや、文字が発生してからも、そもそも「読む」という行為は「音読」を意味していたのですよ。かつて読む人というのは同時に語り部でもあった。つまり、世界は読みとられ、同時に語られていたのであり、この世界に対するふたとおりの理解の仕方は矛盾なく並置され、相互補完しあっていたわけです。マーシャル・マクルーハンが「グーテンベルクの銀河系」で指摘したように、活版印刷の出現によって「音読」と「口述」から「黙読」への転換が起こった。これに伴って、聴覚と視覚、感性と知性、肉体と精神、それぞれがとらえていた世界像は切り離されてしまった。だから、黙読によって、さらに元をたどれば印刷術の出現によって、人間精神のなかに、自ら分裂しようとする起爆剤のような「無意識」なんてものが発生することとなった(発見されることとなった)というわけです。 だからこのコロニーがほとんど原始生活を送っているように描かれているのも、もっともな話なんですね。じっさい、ここのリーダーはモンターグが持っている本、ポオの「怪奇と幻想の物語」をはやく覚えて焼いてしまいなさい、と言っています。このコロニーは本を守ろうとして、結果的に文字のなかった時代に回帰しようとしているのです。こんなところに、本来人間に備わっていた、原初の認識力の純粋さというか、原点があらわれているような気がします。だから本を読む習慣なんてのは自慢にも肥満にもなりゃしないんですよ(笑) さて、こちらは焚書官たちが乗る消防車(と呼ぶのもおかしいかもしれませんが)のボンネットに飾られたマスコット、サラマンドラ(サラマンダー)です。消防署の壁にも、焚書官の制服の胸にもデザインされています。これを見て、サラマンドラが本を燃やしに行く、と思ったならば、これは微妙に違うんですよ・・・ということで、サラマンドラのお話をしておきましょう― サラマンドラ(サラマンダーsalamander)について 「火とかげ」、すなわちサラマンドラ(サラマンダーsalamander)。いまでは両棲類有尾目すなわちイモリやサンショウウオの類の総称としても用いられる名称ですが、そもそもは民間伝承において、四大元素の火の中に棲む精で、火が衰えないように番をしていると信じられていました。水の精、たとえばウンディーネやメルジーネがしばしば人間と親しく交わるのに対して、サラマンドラは人間とは折り合いが悪かった、と言っているのはパラケルスス。しかし民間信仰では決して邪悪な精ではなく、神から使わされた火の元素の番人と考えられていたようです。 おもしろいことに、初期キリスト教では、まだ火の中に棲むとは考えられておらず、むしろ火を消す力を持っていると考えられていました。旧約聖書のダニエル書には燃えさかる炉に投げ込まれた3人の若者が神の加護で火傷ひとつ負わなかったという話があるんですよ。キリスト教は民間信仰より後でしょ、だから神の加護の力がサラマンドラの性質より劣っていては困るので、逆をいったんでしょう(笑) ほかに、サラマンドラを鳥だとする伝承もあって、これによるとどんな鳥よりも冷たく、エトナ火山を住み処としているが、火傷ひとつ負わないとされており、これはどうもフェニックスと混同したのかも知れません。 火とは物質を苦しめ、これを死に至らせて再生させるもの。すなわち錬金術の過程において必要欠くべからざる要素です。錬金術で使われる炉は火の住み処であり、ここで金属が変成する。つまり炉は解放されるべき性能の眠っている子宮であり、一度死んで再生する場所。だからその火加減は強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。錬金術師は、そこに神聖な神の恩寵すら期待していたのです。 そのシンボルがサラマンドラ。古代人によって、火の中に棲んでいると信じられていた生物で、ヘルメス学においては火の元素の精霊です。この、いかにも両棲類然とした生き物が、なぜ火の中に棲むことができるとか、火を消すことができるとか考えられたかという理由は不明です。アリストテレスもプリニウスも、その他の博物学者も、そのように信じて疑っていませんでした。プリニウスの名前が出たので、その「博物誌」を参照すると、火とかげは大雨の時にしか現れず、ひじょうに冷たいのでその身体は火を消してしまう、雌雄の別もない・・・というわけで、火を消すということがキリスト教世界では情欲の炎を消すという連想から、サラマンドラは純潔・貞節・処女性の象徴となっています。 ヴァンサン・ボーヴェのように火とかげの皮から不燃性の服地を得られると考えた人もいて、これによると洗濯しようと思ったら火の中に投げ込めばいい、とされています。もっとも石綿(アスベスト)を紡績して織られた服は既に実在していたようで、これがまたサラマンドラ実在の証拠とも思われていたようです。ルネサンス期にはレオナルド・ダ・ヴィンチもベンヴェヌート・チェッリーニも火とかげに関する考察及び証言を書き残しており、後者に至っては、5歳の時に火の中にいるとかげを目撃したと言っています。 ドイツでは天然ガスのボーリング現場で生じた火災に際して活躍するエキスパートたちを「サラマンダー」と呼ぶことがあるそうです。彼らはアスベストに身を包んで消火活動にあたっているからです。つまり、サラマンドラは火をつける存在である以上に、自らが燃えてしまうことがない、着火・消火のいずれをもコントロールする火の番人、というわけです。 ちなみにダリオ・アルジェントの「サスペリア・テルザ 最後の魔女」"La Terza madre"(2007年 伊・米)では、アーシア・アルジェント演じる留学生がサラ・マンディという名前です。以前、Hoffmann君も指摘していましたが、やたらと火が燃えるシーンがあることや、錬金術師があまり必然とも思えない展開で登場するところからも、この名前がサラマンドラからとられたものであることは明らかでしょう。この物語では、サラ・マンディの母親が、かつて三母神に敗れて命を落とした白魔女であったという設定で、邪悪な魔女“涙の母”の復活を阻止するべく闘うことになっています。 (Parsifal) 参考文献 「華氏451度」 レイ・ブラッドベリ 宇野利泰訳 ハヤカワ文庫 「華氏451度」 新訳版 レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫 |