135 「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」 "Altered States" (1979年 米) ケン・ラッセル




 原題"Altered States"を直訳すれば「変更された状態」。すなわち「意識変容状態」を意味する"Altered State of Consciousness"に由来することばです。イルカの研究で有名なジョン・C・リリー博士による、感覚遮断実験での変性意識状態をモデルとした映画であるとされています。



 storyは―

 人間の身体には、魚類から両生類や爬虫類や鳥類などを経た哺乳類への進化のプロセス、あるいはそれ以前からの進化のプロセスが記憶されている・・・そう考えた科学者エドワードは、生命の根源を探究するべく、アイソレーション・タンクを用いた幻覚の研究に没頭している。しかし女性人類学者のエミリーとの結婚を機に、研究は中断。夫婦ともにハーバード大学での職を得て、娘も生まれるが、エドワードは生命の根源の研究をあきらめることができず、エミリーに別居を提案。彼はメキシコの秘境で入手した幻覚剤とアイソレーション・タンクによって、自らを実験台に研究を再開、やがて彼の肉体に予期せぬ変化が現れはじめる・・・。



 謂わばドラッグ世代のマッド・サイエンティストもの。その人類進化の起源を探った結果の肉体の変化というのが「逆進化」です。

 ケン・ラッセル映画らしく、映像はimageの奔流をそのまま映像化。格調高い映像美などというものには一切こだわらず、愚劣さもキッチュ感も恐れず、あざとさ全開。ただしラストは“愛の力”でねじふせるあたりが、観る人によって受け入れられるかどうか・・・。




 はじめて観たときは、1979年の映画にしては古いなあ、といった印象でした。ドラッグによる幻覚の映像化は、これが1960年代かせいぜい1970年代初め頃なら、サイケデリックでそれなりに(当時としては)新しかったかもしれないんですが、1979年となると、どうにも「いまさら」感があります。

 ただね、ドラッグ(毒キノコでも)で体験できる幻覚なんて、せいぜいこんなものなんだろうなとは思います。アルコールに酔っ払っているときと同じで、ほとんど創造性はない。それに、ここで主人公の、あるいは人間の内面に潜むものを描き出す必要なんかないんですよ。それをやると、世界観が一気に狭まってしまうでしょ。人類の進化の起源とか生命の根源というものは、そんな「不安」とか「恐怖」とか、人間の「ダークな側面」といった観念的なものにしてしまえば、imageが矮小化されてしまうだけなんですよ。さらに言えば、主人公エドワードは実験によって猿になりますよね。ここがあたかも「ジキル博士とハイド氏」を連想させるわけですが、べつにこれがエドワードの「ダークサイド」ということではありません。人間の逆進化の結果なんです。二重人格の話じゃないんですから。極端なことを言えば、主人公の内面なんて、どうでもいいんです。

 ・・・とはいえ、この洪水のように押し寄せるimageは、ケン・ラッセルが「いつもやっていること」ながら、なーんか、物足りないのも事実。やっぱりね、個人の意識の内面に踏み込まない、抽象的な映像なんて、あんまり面白くないんですよ。いや、この下の画像なんか、おそらく誕生以前の(受精の)imageだと思われるんですけどね、別段、「驚き」はない。



 その原因は、これは私の想像なんですが、この映画、監督が決まらなくてたまたまケン・ラッセルが「引き受けちゃった」らしいんですね。つまり、雇われ仕事。だから完全に監督の趣味には染まっていないんじゃないか。どこに軸足を置いているのか、判然としないんですよ。夫婦愛でねじ伏せる結末なんて、プロデューサーの介入かも知れません。これは満更適当なことを言っているわけではなくて、感覚遮断タンクを最初に扱った映画で、バジル・ディアデン監督の「マインド・ベンダース」"The Mind Benders"(1963年 英)という、ダーク・ボガード主演の映画があるんですけどね、これがやっぱり後半は夫婦愛がテーマになるんですよ。どうも、そもそも「マインド・ベンダース」を意識した映画を制作しようとしていたんじゃないでしょうか。

 それから、わりあいよく誤解されているようなんですが、西欧文化が行き詰まりを見せて、未開社会の文化を導入しているという図式にも当てはまりません。猿になってしまうのだって、未開の文化が現出したということではない。ドラッグに関しては、1970年代のヒッピー文化の影響です。「インディオの秘薬で幻覚を見る」というのは、1970年代ヒッピーのバイブルと呼ばれたカルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」シリーズの影響です。これは、カスタネダというカリフォルニアの文化人類学の学生が、研究のためにメキシコのインディオの呪術師に弟子入りして、幻覚キノコや幻覚サボテンなどでトリップ修行をして、やがて「幻覚の世界こそが真実だ」と気がついて、呪術師として修行することとなった記録です(事実そのままかどうかについては諸説あり)。

 瞑想するためのタンクは、これはLSDなどの幻覚剤の効果を高めるために、実際に使用されたものがモデルです。外部の音や光を一切遮断し、そこに全身を浮かばせておく装置です。もちろん、液体に浮かぶというのは、無意識的にも、あたかも羊水に浮かぶ、胎内回帰のimageを造り出すものと思われます。

 さて、そのタンクの中から猿になって出てくるということは、どういうことなのか。先に述べたとおり、エドワードの人格の「ダークサイド」が現出したものとは考えにくい。エドワードが実験の目的としていたとおり、人類の進化の起源をたどった結果ということと理解して、(一応)いいんでしょう。我々の身体の中にも、遺伝子レベルではネアンデルタール人の要素がわずかに受け継がれているのであれば、仮にC・G・ユングの「集合的無意識」を形象化させた結果、肉体が猿になったっておかしくはない(笑)

 しかし、ケン・ラッセル映画としては、先に述べた事情によるものか、もうひとつ、物足りません。最後のくどいくらいの光の乱舞も、これでなんとか保たせました・・・という印象です。



 ・・・というわけで、あまり語ることもないので、ここから少々雑談を。


 人類の退化に関する妄想

 ここまで、この映画で主人公が猿になるのを、私は注意深く「逆進化」と呼んできました。「退化」とは言っていない。なぜ「退化」と言わないのか、その理由を以下で語ってみようと思います。

 猿になる、退化する、というと、つい先日お話ししたばかりのロバート・ルイス・スティーヴンスンの小説「ジキル博士とハイド氏」を思い出しますよね。また、Parsifal君が取り上げたH・G・ウエルズの「タイム・マシン」のお話しでも、単に生物の種の進化だけではなく、社会全体に適用可能な理論としての退化論にふれられていました。


Helena Petrovna Blavatsky

 近代オカルティズムの復興を推進したヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーといえば神智学を創設したことで知られていますよね。オカルティズムといえど、これは近代合理主義に対する反合理主義とは決めつけられないものです。むしろ近代科学の諸成果を取り入れている面もある。そのひとつが進化論。ただし、隠秘学を用いた霊的な見地から、人間の進化を主張したもの。オカルティズムに基盤をおいた進化論・・・なんて、そんな与太話なんか、と思いますか。でも、これがやがてナチズムに流れ込んでいったんですよ。すなわち人種に優劣があること、劣等種を除去すべきこと、それがオカルティズムと進化論との結びつきで正当化される根拠を提供している。ンな莫迦な、で無視してしまうわけにはいかないものなんです。

 ブラヴァツキー夫人の主張をごく簡単にまとめてしまうと、人間の霊(スピリット)は七つの「根源人種」の形態を順次とってゆく。第四「根源人種」はアトランティス人、第五がアーリア人、すなわちヨーロッパ人で、現時点での進化の頂点。はい、これは同時代の欧米の人類学、人種学(の一部)が主張する、アーリア=ヨーロッパ人種が他人種に優越しているというテーゼそのまんまですね。白色人種はもっとも新しく発生した人種で、またもっとも優秀な人種であるとする主張です。世界のすぐれた古代文明はすべて北方に発生した白色人種が生み出したものであるという、北方起源の白色人種による文明起源説、有色人種の価値を否定して、白色人種の有色人種に対する絶対的な優越性を主張しているわけです。そもそもがオカルティズムみたいな説なんですが、正真正銘のオカルティズムがまたこれを補強している。

 ブラヴァツキーの語る人類史のなかでも、面白いのは、第三「根源人種」レムリア人が動物と交合したとしていることです。これで第三「根源人種」は堕落したと。しかも、ブラヴァツキーは猿や類人猿は人間よりもはるか後に発生したものであり、それは「自らを動物の水準に置くことによって、人間の尊厳の神聖さを汚したこれらの未だ知性を備えていなかった人間から直接派生したもの」だと言っている。しかも、その祖先が魂のない怪物である人種の代表はタスマニア人であると名指しています。これは半人半獣の末裔、「動物」と呼ぶのがふさわしい存在であると。

 ブラヴァツキーは、これとは別に、「退化した人間」という存在も想定しています。たとえばオーストラリアのセント・ヴィンセント湾岸地方の原住民がその一例とされている。そして、人類史上、人間と動物の交雑の結果怪物が発生したときには、支配者がその蔓延を食い止めたとされているんですが、これはもちろん支配者による人種衛生学の適用というわけです。はいはい、これで人種衛生学もオカルティズムの支援を受けられましたね。

 もっとも、こうした人種混淆思想は、先の北方起源の白色人種による文明起源説と同じく、ブラヴァツキーの独創ではありません。たとえばブラヴァツキーと同時代の反進化論者E・G・ホワイト夫人もまた、その著書「霊的賜物」(1864年)で、大洪水に際して、神が創造したあらゆる動物の種は方舟で保たれたが、神が創造したものではなく混淆によって産まれた種は、洪水で滅ぼされた、洪水以降も人と獣の混淆は存在し、それは多様な動物の種と、ある人種の裡に見出すことができる・・・としているんですよ。

 ブラヴァツキーとホワイト夫人の、いずれがいずれに影響を与えたということではありません。この人獣混淆思想は西欧キリスト教社会に連綿として取り憑いてきた、謂わば強迫観念のようなものなんです。

 たとえばヴォルテールは、「白人と黒人の関係は、黒人と猿、猿とカキの関係に等しい」と、白人と黒人の同根を否定しています。18世紀の博物学者ビュフォンは黒人を白人の退化したものと考えていたし、イギリスの医師エドワード・ロングは、黒人とオランウータンには性的関係があると説いています。西欧での黒人差別というのは、古くは皮膚の黒さが罪や不道徳のあらわれであるなどとされていたレベルであったのが、啓蒙主義時代以降、「理性」と「科学」の名の下に、人獣交合神話と結びつけられるようになっていったのです。

 そこにダーウィンが「種の起源」(1859年)を発表した。もちろん進化論。しかし、進化という概念は、同時に人々の想像力の中に、その逆転現象としての「退化」という概念をも生み出した。

 いかがでしょうか。スティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」やH・G・ウエルズの「タイム・マシン」はそうした文脈の中に位置しているのですよ。そうそう、「美女と野獣」だって同じこと。ブラヴァツキーなんて、いかにも19世紀に突如として現れた、特異なオカルティストと見えるかも知れませんが、じつは連綿として続いてきたヨーロッパ精神史のうちの、ひとつの支流を継承している「だけ」なのです。これがヨーロッパの精神史を理解しようとするときに、オカルティズムを無視できない理由のひとつ。もちろん19世紀後半以降、「正統な」科学や思想の領域に位置を占めるには至りませんでしたが、その人種論は20世紀に入ってから、ナチス・ドイツによって採用され、その蛮行を正当化したばかりか、戦後に至っても、人種政策から優生学と名を変えて、たとえばハンセン氏病の患者を「断種」するといった、国家による生殖の「管理」を正当化してきたのです。

 進化論を真っ向から否定するキリスト教原理主義福音派でなくても、高貴なる白人種、あらゆる種族に対して優越する白人種の起源が猿であるなどとは認められないという人は、いまでもいるんですよ。ましてや19世紀おいておや。彼らにとって、猿や有色人種が退化した人間であるとする解釈は、それこそ福音であったでしょう。しかしその人種論は、オカルティズムという、科学によって公認されることのない世界認識の方法論の力を借りなければ成立し得ないもの・・・で、ありながら、第二次世界大戦後も長く影響を及ぼし続けた、集合的な妄想だったのです。


(Hoffmann)



参考文献

「聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム」 横山茂雄 水声社