155 「ジキル博士とハイド氏」 ロバート・ルイス・スティーヴンスン 夏来健次訳 創元推理文庫 ドッペルゲンガー、すなわち分身というテーマは人類の歴史とともにあって、世界中の神話や民間伝承に記録されています。J・G・フレイザーの「金枝篇」では古代人はしばしば自分の影や鏡像を自分の魂あるいは自分の命に関わる重要な部分であると考えていたことを指摘しています。 自分の姿を見るといえばギリシア神話のナルキッソスが有名ですね。泉に映った自分を、自分とは気付かずに恍惚としてて眺める・・・つまり自己愛。ナルキッソスはそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだという話と、水面に映った自分に口付けをしようとして、そのまま落ちて溺れ死んでしまったという話もありますね。いずれにしろ、エロスとタナトスをここに見ることができるでしょう。 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ 「ナルキッソス」 1597年頃 ドッペルゲンガーDoppelgaengerとはドイツ語で、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種を指すことばです。「自己像幻視」なんて言われますね。近代では不吉な意味を帯びていることが多く、死の前兆であると言われることもあります。これを見たという文学者はたくさんいて、ゲーテやモーパッサン、ネルヴァルにシェリー・・・シェリーなんて二度見て、二度目は分身から話しかけられていますからね。我が国では芥川龍之介が有名。 文学に描かれた例はといえば、これもたくさんあります。E・T・A・ホフマンの「悪魔の霊液」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」あたりは代表格。シャミッソーの「影をなくした男」やオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの画像」、そしてロバート・ルイス・スティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」などはドッペルゲンガーのヴァリエーションとして典型的な例です。日本では芥川龍之介と泉鏡花の名前を挙げておきましょう。 それにしても、なぜドッペルゲンガー、すなわち分身の出現が不吉であり、多くの文学作品で主人公の身を滅ぼす原因となるのか? オットー・ランクによれば、そもそもドッペルゲンガーは自我の消滅を防ぐための防衛機構であって、死の威力を決然と否認することだったとされています。つまり、ドッペルゲンガーは不死の霊魂そのもの。その根拠は、フロイトによればアニミズム世界観の時代に遡るもので、死に対する恐怖と生への執着がドッペルゲンガーを生んだということになる。自分の外部に現れた自己像は、自分が死んでもなお生き続ける、これによって死を回避することができるという理屈ですね。なので、古代におけるドッペルゲンガーは永遠の生を象徴する、positiveなものであったわけです。それが不気味なものに変化したのは、人間の世界観の変化が原因で、科学的合理主義によって、ドッペルゲンガーはただの迷信になってしまったから。たぶん、プロテスタンティズム以来じゃないかな、非合理なものが全部抑圧されるようになったのは。つまり、プロテスタンティズムによって、近代以降、人間が死と正面から向き合うことをしなくなったでしょ。だから死がよりいっそう強く抑圧された。だから分身が不吉なimageを持つようになったんです。 ドッペルゲンガー、分身、これが抑圧された「私自身」であるから、当然の如く、悪魔憑きとか潜在的な人格である二重人格(多重人格)もまた、その別名であると言っていいものです。 二重人格、すなわち解離性障害。キリスト教は「もうひとりの私」なんてものが表出すると悪魔の存在としたわけですが現代人ならドッペルゲンガーを解離性障害の症状のひとつとするはず。第二の自我ですよ。しかし18世紀以前には無意識という概念がない、もっと大昔ならそもそも無意識があったのかどうかさえ定かではない。だからカトリックはこれを悪魔憑きとしてエクソシズム(悪魔祓い)をやった。プロテスタントは迷信的魔術的行為を敵視して、エクソシズムなんてインチキと見なした。ところがそれが抑圧になって、宗教改革後の方が悪魔が頻繁に人々の前に姿をあらわすようになったんですよ。つまり、モラルの要求の厳しいプロテスタンティズムによって、欲望や悪を自我の外へと追い出したことによって、抑圧された欲望や願望が肥大化、その隠れた自我が「もうひとりの自分」となって爆発してしまうということが増えてしまったわけです。 ついでに言っておくと、カトリックは悪魔なんて神の作った世界の一部、最後は神の恩寵が勝利を収めるに決まっているんだから、悪魔なんぞ恐れるに足りないと考えていた。しかしプロテスタンティズムによって、悪はより憎まれ、排撃するべき恐ろしい対象とされたので、かえって悪魔は力をつけてしまった。抑圧によってひそかに成長して、やがてどこかの時点で爆発してしまうというのはそういうこと。死や悪の抑圧が、人間の自我分裂を招いてしまったという皮肉です。これを文学作品で明らかにしたのが、たとえばジェイムズ・ホッグの「悪の誘惑」です。 プロテスタンティズムは人間をあまりにも完璧な存在であると過信していたのですね。悪く言えば、人間の良心に対する楽観主義。その点、カトリックは「懺悔」というシステムで、内なる欲望(もうひとりの自分)を、当人自らによって可視化させるという、謂わば精神療法を行っていました。ところがプロテスタンティズムは「懺悔」を廃止しちゃいましたからね。行き場を失うってことは抑圧されるということであり、いずれそのままではすまされないわけですよ。 もうひとつ、18世紀以降のルネサンス、産業革命、自然科学の発達ですね。これが社会進化論の台頭を招いた。代表は哲学者のハーバード・スペンサーかな。社会を有機体ととらえて、文明化による発展を信じていた。 たとえば19世紀イギリスのヴィクトリア朝といえば道徳的にも厳格なimageがありますよね。厳格な戒律と清貧を重んじる気風・・・これを押し進めたのがプロテスタントの一派である福音主義。でもね、なぜことさらに「清く正しく」を理想として旗印にしたかというと、それは、社会がちっとも道徳的ではなかったからなんですよ。それで「抑圧」されたものはなんなのか。それは「本能的なもの」、攻撃性や性欲など、これらすべてが原始的で、近代人が乗り越えるべき障害であるということにされてしまった。それは進化によって駆逐されたはずの原始人の資質、さらに遡って下等生物の資質であって、これを生来的に受け継いでる退化した人間の野蛮な衝動であると―。 はい、ずいぶん長い前説になってしまいましたが、これを描いたのが、1886年に出版されたロバート・ルイス・スティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」であって、具体的にはハイド氏なのです。 Robert Louis Stevenson 物語は弁護士のアタスンが語り手。友人で著名な学者であり慈善家でもあるヘンリー・ジキルがエドワード・ハイドなる人物に、死後、全財産を譲るという遺言状を作成、アタスンはこれに疑念を抱く。ハイドなる男は暴力的かつ反社会的な人物であると知り、ハイドと接触すれば、得体の知れない憎悪と恐怖を感じる。その後老紳士が深夜路上でハイドに襲われる事件が起こり、ジキルはアタスンに、もう二度とハイドには会わないと約束する。ところがジキルの使用人の相談によってジキルの部屋に突入すると、そこにいたのはハイドで、服毒自殺を遂げる。机上にはジキルの手記があり、ジキルとハイドは同一人物であることが判明する・・・というもの。 ジキルは自らの下劣な部分を必死になって隠し通して生活してきたが、どうも人間は二元的な存在なのではないか、このふたつの要素を個別の個体に宿らせることができれば、いずれもその人生から堪えがたい苦悶を取り除くことができるのではないか、と考えた。そこで薬剤の効果によって、人格を交互に入れ替えることに成功する・・・というわけです。 薬によって呼び出されたハイドの容貌が顔色青白く、かぼそくしわがれた声、「どこか原始人を思わせる」小男であるというのは、犯罪学者チェーザレ・ロンブローゾが1876年に提唱した「生来性犯罪者説」に基づいているのでしょう。すなわち、犯罪者は人類の特別の変異であって、身体的表徴―左右不均等な頭蓋骨、長い下顎、平たい鼻、まばらな顎ひげなどを有しており、精神的表徴としては、道徳的感情の欠如、残忍性、酒色耽溺、痛覚の鈍麻などがある。このような人間は,生れながら必然的に犯罪者となるもので、この類型は、野蛮人類型への隔世遺伝によって生ずるものである、とする説です。ああ、こうして語っていてもばかばかしくなってきますNA。 しかしこのスティーヴンスンの紡いだ物語は、善悪二元論じゃありませんよ。ここでは文明人ジキルが邪悪なハイドにのみ込まれてしまうんですから。つまり、社会進化論という楽観的な進歩観とは一線を画している。むしろ、人間の内なる悪はいかにしても克服して消え去ることはない、抑圧すればするほど大きな反撃に出てくるという警告なんです。ジキルは人間が二元的な存在だと確信するに至る、つまり、人間は善と悪の混合物であって、分離して、一方の文明人側が悪の恥辱や悔悟に晒されることのない平安に至るなどという未来はあり得ないと溶いているのです。深読みすれば、抑圧は不健全であると、スティーヴンスンはそこまで見抜いていたのかも知れません。 ・・・今自分の良心にもう一度あらがってみたいと思ったのは、わたし自身、すなわちジキルの人格のほうなのだ。そして、心のうちにひそかに罪を擁する人間にありがちなように、誘惑が襲う前に自分から敗北していた。 言うまでもなく、ここに描かれているのは二重人格なんですが、それは病理としての解離性同一障害ではなく、ユングが言うところの、人間の「シャドウ」です。"Hyde"という名前からして、"hide"と音が同じでしょ。「隠す、隠れる、見えないようにする、匿う、秘密にする」という意味合いを連想させる。つまり、自我の抑圧された部分なんですよ。これをちゃんと理解していたのが、たとえばオスカー・ワイルドです。先日、Hoffmann君がお話しした「ドリアン・グレイの画像」では、この抑圧された部分を統合することが必要であることに気付いています。そしてその享楽主義(快楽主義)もまた、社会進化論に一矢報いようとする姿勢であるように思われます。ああ、ワイルドがカトリックに改宗したのも納得ですよね。 付け加えておけば、「ジキル博士とハイド氏」が文学的な影響を及ぼしたのは、オスカー・ワイルドに限りません。コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの事件簿」に収録されている「這う男」(1923年)は、ほとんどスティーヴンスンの焼き直し。アーサー・マッケンの「パンの大神」も発表当時、複数の証言や手記を交錯させて謎の核心に迫ってゆく構成に、スティーヴンスンの影響が指摘されています。 (Parsifal) 引用文献・参考文献 「ジキル博士とハイド氏」 ロバート・ルイス・スティーヴンスン 夏来健次訳 創元推理文庫 「分身 ドッペルゲンガー」 オットー・ランク 有内嘉宏訳 人文書院 Diskussion Hoffmann:「ジキルとハイド」と言えば、もはや二重人格の代名詞だね。 Klingsol:フロイト以来といえばそうなんだけど、ふたりの登場人物がひとつの人格の表と裏、と読めるようなものは古くからある・・・というか、我々が遡って適用しているのかも知れないけど。 Kundry:作者が意識していなかったとしても、そこに真実が見出されるということはありますよね。たとえば、「ドリアン・グレイの画像」にしても、この「ジキル博士とハイド氏」にしても、identityの問題として読むことも可能ですよ。つまり、社会的自己像と、本来の自己像との齟齬に苦悩するといった・・・。 Hoffmann:そういった側面はたしかにあるけど・・・(笑) Kundry:「それじゃつまらない」とおっしゃりたいんですね(笑)Hoffmannさんは「社会」を持ち出すのはお好きではありませんからね。 Hoffmann:たとえば、田山花袋が私小説ジャンルの草分けである「蒲団」について、「世間に対して戦ふと共に壅蔽してい置いたもの、それを打明けて自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、そういふものを開いて出して見ようと思った」と言っている。ここで破壊されるのは、まさに「社会的自我」「社会的自己像」だ・・・というか、所詮破壊すると言ったってその程度のものじゃないか、と思うんだよ。「蒲団」を書いて発表することで、作家としての田山花袋の(文学的)自我を満足させ、肥大化させたことは間違いない。中学生ぐらいの時に「蒲団」を読んで軽蔑の念を抱いたのは、そうした理由だ。 Klingsol:なるほどね。私小説における語り手といえど、結局は「文学的自我」の支配下にある奴隷なんだ。自己肯定のために自己否定が語られているというわけか(笑) Parsifal:そうか、Hoffmann君は私小説のそうした「自己欺瞞」が嫌いなんだね。 Hoffmann:だから「社会的自我」なんてあまり重きを置くようなものとも思えないんだな。いや、「社会的自我」も結構なんだけど、それ自体がテーマとなると、なんだか文学の本質とは別な問題じゃないかと思えてくる。これは、自分語りをしない澁澤龍彦とか種村季弘には親しみを感じる人間の「偏見」だと思ってもらってかまわないけどね。 Kundry:そのような見方をすると、ヘンリー・ジキルも自己欺瞞で満足していられるような人だったら悲劇には至らなかったんでしょうね。 Klingsol:あとジキルとハイドにはモデルがいることを指摘しておきたい。18世紀半ばのエジンバラの市議会議員で、石工ギルドの組合長をしていたウィリアム・ブロディーWilliam Brodieだ。昼間は実業家として生活していたけれど、夜になると盗賊として18年間に数十件の盗みを働いて、最後はスコットランド間接税務局本部の襲撃計画が露見して1788年に処刑されている。スティーヴンソンとウィリアム・ヘンリーが、この事件をもとにした「組合長ブロディー、あるいは二重生活」という戯曲を書いて1884年に初演している。そのほか、18世紀の外科医で解剖学者のジョン・ハンターが解剖に使用する死体調達のために墓荒しをしており、これもジキル博士のモデルと見なされることがある。 Kundry:この小説を原作とした映画を取り上げていただけませんか? (追記) 映画を観る 133 「狂へる悪魔」 (1920年 米) ジョン・S・ロバートソン upしました。(こちら) 映画を観る 134 「ジキル博士とハイド氏」 (1931年 米) ルーベン・アムーリアン その他の“ジキル&ハイド”もの upしました。(こちら) |