150 「マーラー」 "Mahler" (1974年 英) ケン・ラッセル 同じケン・ラッセル映画の、以前取り上げた「恋人たちの曲 / 悲愴」"The Music Lovers"(1970年 英)は、チャイコフスキーの人生を素材にして、嘘と真を混ぜ合わせて、すなわち、伝えられている事実に「嘘」の部分を付け加えたり差し替えたりして再構成した「ドラマ」でした。今回取り上げる「マーラー」も、作曲家マーラーの素材を・・・以下同文です(笑)間違っても、作曲家グスタフ・マーラーの半生を映像化した作品だなんて思っちゃいけません。 storyは― 時は1911年。ニューヨークからヨーロッパへ戻ったグスタフ・マーラーは、妻アルマを伴ってウィーン行きの列車に乗っていた。冷え切った夫婦関係、騒がしい野次馬、無礼なマスコミ。苛立つ夫に対して冷ややかな態度のアルマ。 グスタフの脳裏を、過ぎ去りし日の思い出がよぎってゆく― 貧しかった少年時代。父親ベルンハルトは子沢山の上に叔母や叔父、祖父など親戚一同を養わなくてはならず、一番年長の息子であるグスタフをピアニストにして稼がせようと期待をかけ、妻マリーの反対にも耳を貸さず人一倍厳しく育てていた。音楽教師の画一的なスパルタ教育にうんざりしていた彼に、音楽の真髄は世界を知ることであると教えてくれたのは、森で出会った風来坊ニックだった。 作曲家としての評価は低いながらも、指揮者としての名声を確立したグスタフは、自宅では妻にかまわず、自分の作曲活動に奉仕するものと振る舞い、ソプラノ歌手アンナと親密である。グスタフは、同じく作曲家だった弟オットーが不遇のうちに自殺し、親友フーゴー・ヴォルフも発狂してしまったことから、彼らと同じような苦しみを味わわせたくないという思いから、アルマの作曲活動を封印させる。 ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督になるためには、反ユダヤ主義であるコジマ・ワグナーが牛耳る音楽界において、ユダヤ教徒であることは障害になる。そのためグスタフはカトリックに改宗する。しかし長女を病気で失ったことが、妻アルマとの間に決定的な溝を生む。列車にはアルマを慕う若い将校マックスが乗り込んでいた。グスタフはアルマに、義務よりも愛に殉じるようにと告げ、自分とマックスのどちらかを選ぶことを迫る・・・。 先に述べたとおり、これはマーラーの人生を素材にして、嘘と真を混ぜ合わせて、すなわち、伝えられている事実に「嘘」の部分を付け加えたり差し替えたりして再構成した「ドラマ」です。よく、「ケン・ラッセル独自の解釈」なんて書かれていますが、「解釈」じゃありません。 少年時代の記憶。粗野で横暴な父、幼くして父親の過度な期待を背負わされた少年期、生涯に亘って付きまとったユダヤ人差別、一度は深く愛し合った妻アルマとのすれ違い、愛する弟オットーや娘プッツィの死、そして作曲家ではなく指揮者としての不本意な名声・・・それ自体はマーラーの伝記的事実に基づいています。たとえば、フーゴー・ヴォルフが発狂したのは事実、弟オットーの自殺も事実、アルマ宛てのラブレターをこともあろうにマーラー宛に送ってしまった人がいたのも事実(そのそそっかしい人はアルマの不倫相手であった若き建築家グロピウス、マーラーはこれを挑戦と受け取った)、長女の死もカトリックへの改宗も事実です・・・とはいえ、それはあくまで取り入れられた事実であって、この映画で描かれたテーマがマーラーの真実を伝えているということではありません。 冒頭の夢は、マーラーの顔をした巨大な岩が横たわり、繭から蛹となって這い寄ってゆくアルマ。 続けて、マーラーが車内からホームを見ると、そこには主人公アシェンバッハをマーラーに擬した、ルキノ・ヴィスコンティによる「ベニスに死す」"Morte a Venezia"(1971年 伊・仏・米)のシーンが。これはパロディというよりオマージュですね。ケン・ラッセルもなかなか律儀な人です(笑) 妻アルマのい不倫相手マックスがコンパートメントに現れ、そのマックスとアルマに生きたまま埋葬される悪夢にうなされるグスタフ。 発狂した友フーゴー・ヴォルフと自殺した弟オットーの記憶。 カトリックに改宗してウィーン国立歌劇場の音楽監督となるシーンは、コジマ・ワーグナーがやがて来るナチの象徴となっており、かなりグロテスクです。往年の「女看守なんとか」(古いな・笑)みたいな扮装で、ハーケン・クロイツを掲げた鬼の形相のコジマ・ワグナー。マーラーはジークフリートよろしく、鍛え上げた刀で大蛇を退治・・・。 娘たち。このふたりは本当に姉妹なんですよ。 それぞれの悪夢や回想シーンにおける、異端のヴィジュアリストたるケン・ラッセルの面目躍如とも言うべき奔放なイマジネーションは大いに見もの。これが「悪ノリ」にまで至らず、それなりの格調高さを維持しているところが、さすがケン・ラッセル。 停車駅では歓呼を持って迎えられ、マックスやコンパートメントを交換してくれた貴婦人は、マーラーの音楽について語る・・・しかしグスタフはそのどれをも否定します。数々の試練に翻弄されたマーラーの半生から浮かびあがるのは、周囲から理解されず、ひとり孤独に苦しむ芸術家の魂。登場する人物たちが、めいめい勝手にマーラーの音楽を「死」だの「人類愛」だのととらえるのに対して、「ぼくの音楽を勝手に解釈するな!」と。 それではマーラーの音楽はいったいなんなのか、というのがこの映画の結末を導くことになります。最後に明かされる、マーラーがその音楽に傾けた情熱の真意・・・本作は壮大かつ深遠な愛の物語へと昇華するのですよ。 いや、じつを言うと、はじめて観たときには、この結末、ちょっとがっかりしちゃったんですけどね。結局、「愛」か・・・って。 しかし、ここでやはりケン・ラッセルがその生涯を素材に作曲家チャイコフスキーを描いた、この監督の最高傑作である「恋人たちの曲・悲愴」(1969年 英)を思い出せば、結末が「愛」に収斂していくのも納得です。 ここでちょっとJ・S・バッハの「マタイ受難曲」の例で説明しましょう。「マタイ受難曲」は、じつはアンハルト=ケーテン侯レーオポルトの追悼のために作曲されたとする説があったんですよ。ところがその後の研究によって、いまでは「マタイ受難曲」の初演の方がはやくて、ケーテン侯の追悼音楽に転用されたということになっているらしい。これを喜んだ人が結構いるんですよ。つまり、「マタイ受難曲」ほどの作品が世俗の支配者のために作曲されたとは考えたくないっていうひとが多かったということ。そうした人たちにしてみれば、こんどは「マタイ受難曲」がそんな一個人のために転用されたということに違和感をおぼえているかもしれない・・・でもね、私は人類愛だとか自然への愛だとか、はたまた世界平和ためだとか、そんな抽象的な概念が真の傑作を生むなんて信じられません。むしろ、個人的な「思い」こそが、多くの人々の心を打つ普遍性に至るものなのではないか、と考えています。だから、マーラーの音楽がすべてアルマへの愛の結晶であったという結末は、納得のできるひとつの「解釈」だとは思えるんですよ。 ただし、急いで付け加えますが、これが作曲家マーラーの事実・真実だとは思っていません。 結果的に、この「マーラー」では、いつの時代も変わらぬ芸術家の内面的な苦悩と葛藤が描かれているとは言えそうですが、チャイコフスキーを素材にした「恋人たちの曲 / 悲愴」と同等以上の「詩的真実」が描かれているとは言えないかなあ・・・というのが個人的な印象です。 なお、この映画は「マーラー」という表題ですが、story的には「グスタフとアルマ」です。表面的には、アルマはマーラーを人生の伴侶として深く愛し、己の野心や願望を封印してまで彼に尽くした女性。偉大過ぎる夫を持ってしまったがゆえの孤独、失望、悲しみ、怒りが描かれ、前半はどうにも冷淡で嫌味な女に見えるところ、その背後に背負ったのもを徐々に描き出し、ラストにおいて大きな感動を呼ぶ・・・という設計です。その善し悪しは、いくら私がアルマ嫌いでも、「ドラマ」としては巧妙かつすぐれた出来映えと言わざるを得ません。 アルマ役のジョージナ・ヘイルはじっさいのアルマとはまるで似ていませんが、マーラー役のロバート・パウエルとともに好演。どちらもその神経質な振る舞いは、演技というレベルを超えたもの。 相変わらず音楽の扱いが上手いケン・ラッセル。随所で流れるマーラーの交響曲を中心とした音楽は、ベルナルド・ハイティンク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるPHILIPS録音が使用されています。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 (追記) 続いて「ベニスに死す」 "Morte a Venezia" (1971年 伊・仏・米) ルキノ・ヴィスコンティ をupしました。(こちら) マーラーとその作品のdiscについて、「マーラー雑感」 upしました。(こちら) |