160 「サスペリア」 "Suspiria" (1977年 伊) ダリオ・アルジェント ダリオ・アルジェントの監督デビュー作となる「歓びの毒牙」"L'uccello dalle piume di cristallo"(1970年 伊・西独)がジャッロ映画の爆発的なブームの先駆けとなり、続いて「わたしは目撃者」"Il gatto a nove code"(1971年 伊・仏)、「4匹の蝿」"4 mosche di velluto grigio"(1971年 伊)と順調にジャッロ映画が製作されました。このあたりでイタリアでは模倣作が数多制作されて、アルジェントはマカロニ・ウェスタン風のコメディ、「ビッグ・ファイブ・デイ」"Le cinque giornate"(1973年 伊)を発表するも興行的には惨敗。そこで再び猟奇サスペンスである「サスペリアPART2」"Profondo Rosso"(1975年 伊)を発表。これが新しくも極めて完成度の高い大傑作であったわけです。、 そしてその次にイタリアン・ホラーの新しい世界を切り開いたのが「サスペリア」"Suspiria"(1977年 伊)です。 ![]() ![]() ダリオ・アルジェントにこの作品のヒントを与えたのがダリア・ニコロディです。彼女の祖母イヴォンヌ・ローブはフランスのピアニストで、少女時代、全寮制の音楽学校教師たちが行っている黒ミサを目撃したことがあるというのですね。その事実を知った祖母は学校を逃げ出したのですが、ニコロディはアルジェントにこの話をした。興味を抱いたアルジェントはニコロディとともにその学校を訪ねてみると、アポなしの訪問で名乗りもしないのに、老教師から「ニコロディさん、お祖母さんはお元気ですか?」と声をかけられた・・・というのはニコロディ自身があちこちで語っている有名な話。 ![]() あらすじは― 舞台はドイツのフライブルク(ただしロケ地はミュンヘン)。アメリカ人のバレエ生徒スージー・バニオンは、現地の名門バレエ・アカデミーで学ぶためにニューヨークからやって来るのだが、到着した晩にアカデミーの生徒パットが惨殺される。どこか不穏な空気の漂うアカデミーで彼女を出迎えたのは、理事長の留守を任されている副理事長のブラン夫人と厳格な主任コーチのミス・タナー。慣れない環境に戸惑いつつも、気さくな同級生サラと親しくなったスージーだったが、やがて彼女の周囲で不可解な怪現象や陰惨な事件が次々と起きていく。アカデミーの創設者エレナ・マルコスが魔女だったという噂を耳にした彼女は、その真相を確かめようとするのだが・・・。 ![]() 日本では1977年公開当時、「決してひとりでは見ないでください」というキャッチコピーが流行語になったこの映画。あまりにも激烈な恐怖・残酷表現のため、もし映画館で鑑賞してショック死した場合1000万円を支払うという「ショック死保険」をつけ大ヒットした。 アルジェントが、ディズニー映画のアニメ「白雪姫」を参考にしたという色彩が、とにかく印象強烈です。なんでも当時すっかり廃れて時代遅れとされていたテクニカラー映画。手に入ったfilmも限られており、各シーンともそうそう何テイクもとれない状況で、照明も基本は赤・青・緑の三原色。プリントはローマに唯一残されていたテクニカラー・マシンを使用して、ようやく再現できたんだとか。 ![]() ![]() クレーン・ショットなどの撮影も効果的で、当時としては斬新。おまけにギリシアやアフリカの民族楽器を使用したゴブリンの音楽は悪魔的なまでに不安をかき立てる・・・。 冒頭、ニューヨークからドイツへと到着したスージーはほとんど無音かと思われるような空港内でを歩いている場面ではじまり、自動ドアが開いて外に出たとたんに暴風雨の音に包まれるというあたりから、すっかり引き込まれてしまいます。そう、ここで「不思議の国のアリス」さながら、悪夢のような異世界に放り込まれるんですよ。 ![]() ![]() そして、これまた主人公は外国人。タクシーで行き先を告げても通じない。異郷で不案内な主人公なんですよ。ちなみに行き先が「エッシャー街」というのも、そこが常識的な理が通用しない、歪んだ異世界であることを象徴しているようです。そのタクシーは、雷雨の中で、大写しにはならず、つねにポツンと小さな存在。雰囲気造りは巧みです。恐怖なんて、びっくりするようなものが、不意に、唐突に、現れるから怖いのではありません、「出るか出るか」と思っているところに、つまり既に恐怖感が十分高められて、準備されているところに現れるから怖いのです。そのショック映像や音というものに関しては、お笑いと同じで、間合いとタイミングが重要なんですよ。そこまでは観客を不安をかき立てるのがホラー映画の常道です。 また、このタクシー内のシーンでは、雷光に照らされた車内隔壁ガラスの運転手の首元に、叫ぶような青い顔が映っている。じつはこれはアルジェント本人が意図した演出で、演じている顔もアルジェント本人なんですが、当時、本物の幽霊が映っていると話題となり、「仕掛け」としてはたいへんに効果的だったわけです。観客が気付くとも限らないところにも演出を施しているわけで、「サスペリアPART2」や「歓びの毒牙」を思い起こしますね。 ![]() 序盤でパットが殺害されるシーンでは、その足元の血だまりがほうきに乗った魔女の形となっているところもユニークな演出です。 ![]() 公開当時の批判的な批評は、storyが単純かつ論理性がないなどというもの。これは超自然をテーマにしながら、ジャッロ風謎解き要素が残っているから、そこに注目してしまうと、この男が殺されたのはなぜ? だれがなんの目的で? などと、最後までわからないままなんですね。 脚本を書いて(アルジェントとの共同執筆)、当然自分が主演すると思っていたダリア・ニコロディを退けて起用した主演女優、ジェシカ・ハーパーがすばらしい。いや、もともとはヒロインのスージー役にはダリア・ニコロディが想定されていたところ、彼女が主演ではアメリカのマーケットで売れないと映画会社に判断されて、アルジェントが注目していたジェシカ・ハーパーに白羽の矢が立ったらしいのですね。副理事長のブラン夫人役には大女優ジョーン・ベネット、ミス・タナー役には、これまた大女優アリダ・ヴァリが起用されており、ああ、メインキャストは全部女性、しかも芯の強そうな女性ばかりなんですよ。ちなみに魔女「溜息の母」ことエレナ・マルコス役のリラ・スヴァスタは、この役のために探してきた高齢の売春婦だったそうです。 ![]() 男優陣は比較的目立たない映画ですが、ドイツ映画界の怪優ウド・キアが、精神科医を演じていることは特記しておきたいところ(若い若い)。 ![]() (Parsifal) Diskussion Parsifal:さて、ダリオ・アルジェントの「魔女三部作」といえば次の三作― 「サスペリア」"Suspiria"(1977年 伊) 「インフェルノ」"Inferno"(1980年 伊・米) 「サスペリア・テルザ 最後の魔女」"La Terza madre"(2007年 伊・米) これを順に取り上げようと思って、今回はその第一回目ということになりますが、じつは以前、Hoffmann君がフリッツ・ライバーの「闇の聖母」を取り上げたときに、「映画も観る ダリオ・アルジェント Dario Argento の映画『魔女三部作』について」として少しお話ししていましたね。なので、ちょっとHoffmann君と意見交換してみたいと思います。 Hoffmann:自分とは違った見方もあるから、Parsifal君に取り上げてもらって、とても興味深いよ。 Parsifal:「魔女三部作」でモティーフとなっている魔女というのが、トマス・ド・クインシーの「阿片常用者の告白」の続篇「深き淵よりの嘆息」に登場する三姉妹、悲しみの三聖母をモデルとした、「嘆きの母」「暗闇の母」「涙の母」であることは、既にHoffmann君から説明済みだったね。 Hoffmann:「サスペリア」の公開年がフリッツ・ライバーの「闇の聖母」の発表年と同じだったんだよね。あと、ジェシカ・ハーパーが1977年時点で28歳であったこと、アメリカ人だけどこの映画出演のために、イタリア語を「難なく」マスターしたんだという話はしてあったよね。 Parsifal:Hoffmann君が好きなアルジェント作品は「サスペリアPART2 / 紅い深淵」と「歓びの毒牙」ということで前回、前々回と取り上げたわけだけど、「サスペリア」は微妙? 我々の世代には結構「サスペリア」の洗礼を受けてしまったホラー映画ファンが多いんだけど。 Hoffmann:いや、「サスペリア」は結構好きだよ。ただ、公開当時には観ていなくて、はじめて観たのはずっと後のことでね。しかも同時に観た「サスペリアPART2 / 紅い深淵」の方が印象に残っちゃったんだよ。 Parsifal:「正直なところ、ダリオ・アルジェントは過大評価されすぎていると思う・・・」と言っていたのは? Hoffmann:「シャドー」"Tenebre"(1982年 伊)、「フェノミナ」"Phenomena"(1985年 伊)、「トラウマ / 鮮血の叫び」"Trauma"(1993年 伊・米)、「スタンダール・シンドローム」"La sindrome di Stendhal"(1996年 伊)といった、1980年代、1990年代の作品を想定して言ったんだ。 Parsifal:アルジェントが「撮りたい」シーンのために無理矢理につじつまを合わせたり、登場人物に余計な動きをさせたり説明させたりはしないで、storyを破綻させないため(だけ)の、「余分な」要素は省いてしまっていることについては寛容に許しているということだよね。 Hoffmann:そう、ミステリ・タッチでも、謎解きや犯人捜しが描きたいわけじゃないんだから。ただね、次のような指摘があるじゃない? 曰く― 話のつじつまが合わない。矛盾がある。 原因と結果がどうつながるのか不明。 展開が行き当たりばったり。 前後のつながりのないシーンが唐突に挿入される。 犯罪者の正体が明かされてもスッキリしない。 動機や目的が取って付けたよう。なので、カタルシスを感じない。 こうした指摘が間違っているわけではない。つまり、ツッコミどころ満載。ふつう、そのような映画を観たら、脚本に問題があると思うよね。ところが、ダリオ・アルジェントの場合、本人は問題ないと思っている。脚本なんて、自分の映像美学・残酷美学を表現するための手段にしか過ぎないと思っているんだよ、たぶん。これをもって、アルジェントの「ビジュアリスト」と呼ぶ向きもあるわけだけど、擁護するならそう呼ぶしかないということなんだよね(笑) 撮りたいシーンがある、見せたい映像のアイデアがある・・・そこまではいいんだよ。しかし、そのためにstoryが破綻してちゃダメでしょ。サイレント映画をご覧なさい、じつに美しい、あるいはグロテスクな、「絵になる」シーンが目白押しだよ。それはおそらく映画というもの創生期において舞台芸術とか絵画・美術が見本としてあったからだと思うんだけどね、それはドラマのなかで決して「浮いて」はいない。しかし、アルジェントの映画では、「これを観ろ!」とばかりに強調されていると言えば聞こえはいいものの、「浮いて」いる。 Parsifal:たしかに、地元イタリアではエルネスト・ガスタルディがその空虚性を批判、脚本家ダルダーノ・サケッティも、全面的にとまでは言わずとも多分に間違っているとしているよね。アルジェントの作品は概ね「暴力のための暴力、流血のための流血」といった批判がある。 イギリス・オランダでは、これは次回取り上げる「インフェルノ」に関してなんだけど、「内容よりスタイルを優先」「ストーリーはまったくもって意味をなさず」なんて言われて、「わたしは目撃者」に対しては、「サスペンスやショックの産出こそ可能であっても、物語の名に値するような内容を提供することは不可能」「スリルに満ちた場面が存在するにせよ、その前後には退屈な場面が延々と続く」、「4匹の蠅」は「見え透いたショック描写とコミカルな似非ドラマ」、「シャドー」は「貧弱な脚本と脆弱な演出」・・・と、散々な言われようだ。 Hoffmann:だいたいみなさん、言っていることは同じ(笑) Parsifal:アルジェント自身は、自作における殺人はジークムント・フロイトのメタ心理学における無意識の映画的表現であると説明して、人間精神の大部分は無意識であるというフロイトの理論こそは少なくとも自分にとっては自作を理解するための鍵なのであると解説している。そして、「精神分析学は『歓びの毒牙』から(当時の最新作である)『サスペリア・テルザ 最後の魔女』に至る、全フィルモグラフィに一貫した要素である」と―。娘のアーシア・アルジェントも、父ダリオの映画は人間の恐怖を扱っているとしても、その恐怖というものを自らの内面から精神分析的手法をもって引き出したうえで精神分析学的に描き出している、と主張している。 Hoffmann:いやあ、父娘して、無意識だの精神分析的だのと、本当に理解しているのか、ちょっと疑問なんだよね。その作品を観る限り、その無意識とか精神分析学的手法というのが、案外と浅薄な理解に基づいているとしか思えないんだな。だからダリオ・アルジェントが精神分析、精神分析と繰り返せば繰り返すほど、ちょっと滑稽とさえ思えてくるんだけどね。フロイト理論の取り入れ方は、さほど深い理解に基づくものとも考えられない。だから「行き当たりばったり」と見えちゃうんだ。 Parsifal:いや、なにも考えないで撮った「思わせぶり」のシーンに、あたかも深い内容があるような「ふり」をしているだけ、なんてことは決してないと思うよ。かなり考えて撮っていると思う。過去の二流ジャッロ映画では、事件や犯人に関する合理的説明を試みていたよね。ところが、アルジェントはその合理的説明そのものを放棄してしまった・・・だからこれはファンタジーの世界なんだよ。逆方向から考えると、ファンタジーだと思えば納得できる。 Hoffmann:ダーク・ファンタジーというか、悪夢だよね。アルジェントは「私の映画は、私自身が夜に見る悪夢が源泉となっている」と語っている。じつは、ダリオ・アルジェントの発言って、こうした一般論でも、特定の作品に関する「解説」「説明」でも、なーんか、「後付け」の理屈に聞こえるところがあるので、そのまんまは受け取れないんだけど(笑)悪夢と言われると、それはそれで納得できるのはたしかだね。悪夢ならつじつまが合わなくてもぜんぜんかまわない。しかも悪夢だから映像重視、なにが見えるか、どう見えるかがすべてなんだ。その点、imaginationがどことなくフェリーニ風に感じられるんだよ。フェリーニはあくまで「自分自身のために映画を撮っている」と言ってのけた人でしょ。ダリオ・アルジェントにもちょっと共通するものがあるように思えるんだな。なにがどう見えるかという問いは、自分に発せられて、自分で回答している。観客目線で考えていない、私的なものなんだよ。だからstoryが破綻していても、行き当たりばったりな展開でもかまわない・・・。 Parsifal:その作品を既定のジャンルに当てはめようとすると、いろいろな批判が出てきてしまう。アルジェントは唯一無二なんだよ。 Hoffmann:悪夢なら悪夢らしく、もっとカフカみたいに硬質に、克明に描くべきじゃないかなとも思うんだけど、そうしたらダリオ・アルジェントじゃなくなっちゃうな(笑) Parsifal:ただ、こうした自分が望むような映像を作り出せたのが、Hoffmann君も言っていたように、「わがまま」が通用するだけの援助がファミリーから得られたからであって、そのファミリーがなければ、これまでダリオ・アルジェントが撮ってきた映像はなかったであろうことはたしかだ。ダリオ・アルジェントは映画一家に生まれたおかげで、スタート地点からひじょうに恵まれていたことは間違いない。もっとも、イタリアではコネがものを言うので、我が国の国会議員と同じく、映画界でも「世襲」はそんなにめずらしいことではないことも指摘しておきたい。とはいえ、少なくとも、ダリオ・アルジェントはいまやイタリアを代表するホラー映画の「巨匠」なんだから、我が国の石原○晃、石○宏高、小泉進○郎のような、ボンクラ世襲議員とはわけが違うんだよ(笑) 参考文献 「恐怖 ダリオ・アルジェント自伝」 ダリオ・アルジェント 野村雅夫、柴田幹太訳 フィルムアート社 |