167 「アクエリアス」 "Deliria" (1987年 伊) ミケーレ・ソアヴィ スラッシャー映画について




 スラッシャー映画について

 「影なき淫獣」"Torso"(1973年 伊)についてお話ししたときに“ジャッロ映画”をいくつか取り上げて、そのついでに“スラッシャー映画”についても簡単に説明しましたよね。以下に引用しておきます―

 なお、スラッシャー映画"slasher film"というのは、登場人物がひとりまたひとりと殺人鬼に殺されていく映画のことを指します。犠牲者の数が多ければ多いほど盛り上がることから、別名「ボディ・カウント映画」と呼ばれることもあります。多くの場合は刃物で殺害され、犠牲になるのは10代や20代の若者が中心。人里離れたキャンプ場や別荘などが舞台となるケースが多いようですね。殺人鬼は仮面や覆面を被っており、クライマックスで正体が明らかにされることが多い。最後まで生き残るのは処女や童貞。セックスやドラッグに手を出した若者は容赦なく殺されます。副次的な要素としては、過去の過ちが、クリスマスやハロウィン、バレンタイン・デーなどといった記念日などにトラウマ的に呼び起こされ、それが殺人鬼を刺激して殺人に駆り立てる、というパターンが多く見られます。

 原点と言われているのはマリオ・バーヴァの「血みどろの入江」"A Bay of Blad"(1970年 伊)ですが、もちろんジャッロ映画からの影響も指摘されるところです。代表作といえば、「悪魔のいけにえ」"The Texas Chain Saw Massacre"(1974年 米)、「暗闇にベルが鳴る」"Black Christmas"(1974年 加)、「ハロウィン」"Halloween"(1978年 米)、「13日の金曜日」"Friday the 13th"(1980年 米)などといったあたりでしょう。


 スラッシャー映画、日本語に直訳すれば“切り刻み映画”。別名ボディカウント映画。つまり、死体を数える映画です。殺人鬼が次々と人を殺していく映画のこと。

 あらためて、スラッシャー映画の定番と言われる特徴を挙げてみると―

1 物語の舞台が特定の場所

 キャンプ場とか一軒の家の中とか病院内とか森林とか、限定された空間のなかで物語が展開する。登場人物たちはなにかしらの理由でここから外部に逃れることができない。その意味では閉鎖空間。

2 殺人鬼は概ね精神異常者

 基本的には精神異常者が多い。たとえそれなりの動機があるにもせよ、「殺すこと」が目的なので、情け容赦なく、殺す。善悪の判断とは無縁で、もちろん話し合いなど出来る相手ではない。

3 殺し方に趣向が凝らされている

 切ったり刺したり燃やしたり、殺し方に工夫が凝らされていて、首をはねるなど朝飯前、胴体が真っ二つにされたりと、とにかく血みどろ。これは特殊メイクの発達とリンクしている。なので、武器も鉈に斧にツルハシにチェンソーとバラエティに富んでいる。

4 殺人鬼の正体は最後まで明かされない

 これはジャッロ映画とも共通する要素なんですが、しかしミステリ要素は稀薄。あくまで殺害シーンの見せ方がメイン。ただし最後まで殺人鬼の正体を明かさないでスリルを盛り上げるために編み出された手法として、カメラが殺人鬼の視点になって動くというのもよくあるパターン。ただし、私はどうもこれを流行らせたのはダリオ・アルジェントじゃないかなと思っている。

5 生き残るのは処女・童貞

 おそらく観客が感情移入しやすいということもあるのかと思われるが、これによって女性蔑視と批判されやすい側面もある。また、登場人物の大半は概ねティーンエイジャーでハメを外してバカ騒ぎをするので、こちらには感情移入しづらく、バンバン殺されても同情しない・できないので、ゲーム感覚で安心して観ていられる。場合によっては、内心殺人鬼を応援してしまうような心理にもなる。

6 事件は特定の祝祭日に発生する

 ハロウィン、13日の金曜日、プロムナイト、ヴァレンタインデーなど、特定のイベントに日に事件が起きる。これは「ハロウィン」と「13日の金曜日」シリーズの影響と思われる。これが殺人鬼の動機と関連していることもある。

 以上、これをすべて踏襲しなければならないというものではなく、もちろん、これらに該当しないスラッシャー映画もあります。ついでだから、このほか冗談混じりで言われる要素を列挙しておくと―

・冒頭で「あそこには近付くな」と不気味な爺さんが忠告してくる。

・殺されるバカップルのsexは騎乗位。

・物音に驚いて振り返ると犬。安心した次の瞬間に殺される。

・携帯は圏外。

・BGMが止まったら死亡率up。

・ようやくやって来た警官は役立たず。デブでドーナツ好き。

・「あそこまで行けば大丈夫だ!」の「あそこ」で死ぬ。

・鍵束を持っているが、なかなか鍵が合わない。

・鍵が合っても車のエンジンがかからない。

・ラストシーンは生き残りが毛布にくるまれてコーヒーを飲む。

 ・・・と、これはこれで、たしかにスラッシャー映画によく見られるパターンです(笑)


 スラッシャー映画の代表作

 ここでスラッシャー映画史を、もう少し具体的に作品を挙げつつたどってみると―

「モデル殺人事件」 "6 donne per l'assassino" (1963年 伊) マリオ・バーヴァ

「血みどろの入江」 "A Bay of Blood" (1971年 伊) マリオ・バーヴァ


 「モデル殺人事件」がイタリアの猟奇サスペンス映画、すなわちジャッロ映画というジャンルを生み、同時に世界初のスラッシャー映画であったとする人も。一方、「血みどろの入江」は遺産相続を巡って次々と殺人が起こるというstoryで、これこそがスラッシャー映画のスタート地点とも。「13日の金曜日」はこれの影響下に製作されたと言われています。

 スラッシャー映画として早いのは、

「暗闇にベルが鳴る」 "Black Christmas" (1974年 加) ボブ・クラーク

 クリスマスを迎えた女子寮で謎の殺人鬼によって女学生が次々と殺されるというstory。当時人気のオリビア・ハッセイが主演するも、興行的には振るわず。

「ハロウィン」 "Halloween" (1978年 米) ジョン・カーペンター

 これがマイケル・マイヤーズという殺人鬼を登場させ、その異常性とインパクトの強いルックスで大ヒットとなり、一大ムーブメントを巻き起こすことに。そしてそのブームの火付け役となったのが―

「13日の金曜日」 "Friday the 13th" (1980年 米) ショーン・S・カニンガム

 これは爆発的なヒットとなって、シリーズ化されたことはどなた様もご存じのとおり。これを追って矢継ぎ早に作られたのが―

「プロムナイト」 "Prom Night" (1980年 加) ポール・リンチ

「バーニング」 "The Burning" (1981年 米) トニー・メイラム

「ローズマリー」 "The Prowler" (1981年 米) ジョセフ・ジトー

「血のバレンタイン」 "My bloodly Vatentain" (1981年 加) ジョージ・ミハルカ

「面会時間」 "Visiting Hours" (1981年 加) ジャン=クロード・ロード

「ヘルナイト」 "Hell Night" (1981年 米) トム・デ・シモーネ


 ・・・などといったあたり。まだまだあるんですが、私が観たことのあるもので、ぱっと思いつくものはやっぱり1980年、1981年といったブームの初期の作られたもの。それというのも、ブームというものは来るのも早ければ去るのも早い。大量生産が過ぎてというか、粗製濫造の果てにというか、早々と時代遅れになってしまったんですよ。1980年代の半ばを過ぎると下火になって、しぶとく生き残ったのは―

「13日の金曜日」シリーズ (1993年まで)

「ハロウィン」シリーズ (1995年まで)


 同じくシリーズ化された映画といえば「エルム街の悪夢」"A Nightmare on Elm Street"(1984年 米)がありますが、ここに登場する殺人鬼、フレディ・クルーガーはもう既にスターとして評判になっている「13日の金曜日」のジェイソンのvariationなんですよ。1984年といえば、もう「13日の金曜日」は4作目まで作られている時点ですからね。

 そして1990年代にスラッシャー映画のリバイバルとなったのが、こちら―

「スクリーム」 "Scream" (1996年 米) ウェス・クレイヴン

 ただしこれは広い意味でのパロディ、1980年代のスラッシャー映画の焼き直しではなく、そのマンネリズムを逆手にとって、場合によっては楽屋オチを辞さない、メタ・スラッシャー映画と呼びたいようなもの。往年の名作へのオマージュも込められている。おかげでこの「スクリーム」もシリーズ化され、これでスラッシャー映画が息を吹き返し、いまやホラー映画の定番ジャンルとなっています。その影響で、半ば忘れられかけていた旧作も類似作品でシリーズ化、リメイクもされるようになりました。

 ここからは私のかなり個人的な感覚なんですが、ただ残酷シーンを見せることだけに主眼を置いた映画というのは、ポルノ(アダルト・ビデオ)と変わらないんじゃないかと思っています。だから1980年代の半ばを過ぎてからの、単なる「人間狩り」はすぐに飽きてしまう。たとえば―

「悪魔のサバイバル」 "The Zero Boys" (1985年 米) ニコ・マストラキス

 ・・・あたりが比較的出来のいい方。

 その点、マリオ・バーヴァは独自の美学を持ったオトナの映画なんですよ、いま観てもよく出来ている。一方で、「13日の金曜日」なんて、シリーズが進んでいくと、ジェイソンが超人化しちゃうでしょ。「13日の金曜日」なら、ジェイソンが登場する前の第一作だけが観るに値するといった印象を持っています。「エルム街の悪夢」も同様、フレディがひたすら悪意に満ちた「狂えるピエロ」であった第一作(だけ)がいい。「ハロウィン」シリーズははほとんど印象に残っておらず、リバイバルの立役者である「スクリーム」になると、オマージュとはいえ、結局これがスラッシャー映画を解体してしまったのではないかと思っています。私は楽屋オチは嫌いなんですよ。

 それでは好印象を持っているスラッシャー映画というと、やはりこれ―

 「アクエリアス」 "Deliria" (1987年 伊) ミケーレ・ソアヴィ

 ジャッロ映画とされることもありますが、わりあい典型的なスラッシャー映画と言っていいでしょう。時期的には「遅れてきたスラッシャー映画」。


劇中劇であるリハーサル中のミュージカル、じっさいに上演されたとしても、あまり受けそうにありませんね(笑)

 ミケーレ・ソアヴィといえば一般的にはダリオ・アルジェントの弟子と言われていますよね。たしかに、アルジェント作品にスタッフとして参加したり、アルジェント製作の映画でメガホンを取っている。この「アクエリアス」でも、ラストのダメ押し演出も、ソアヴィが参加していたアルジェントの「シャドー」"Tenebre"(1982年 伊)を思わせます。しかし、ソアヴィにとってはむしろルチオ・フルチこそが裏方の仕事のノウハウを教えてくれた師匠格であったはず。また、ソアヴィに、この監督としての処女作を撮るチャンスを与えてくれたのはイタリアン・エログロ映画で名を馳せたジョー・ダマトです。ま、「ダリオ・アルジェントの愛弟子」と言われたことで、この映画も結構注目されることとなったんですけが、「デモンズ '95」"Dellamorte Delllamore"(1994年 伊・仏)のときにParsifal君が述べたとおり、ソアヴィの美学の徹底ぶりはダリオ・アルジェントを大きく超えたものです。

 じっさい、ジョー・ダマトは「デモンズ3」"La Chiesa"(1988年 伊)は監督のソアヴィの責任ではなく、プロデューサーであるアルジェントの口出しで「アクエリアス」よりも劣化した、アルジェントはソアヴィの才能を搾取したのだと、ダリオ・アルジェントを非難しています。


Michele Soavi

 ちなみに「アクエリアス」という表題を我が国で勝手に付けた邦題だと思っている人がいますが、これは間違い。ソアヴィが、自らの判断で、作中に登場する水槽の中の魚の持つ象徴的意味を強調して「アクエリアス」"Aquarius"と改題したもの。ただしイタリア映画界の大御所ルチアーノ・マルティーノの助言により、イタリア国内向けには"Deliria"、英語圏向けには"Stageflight"と題されたんですね。なので、「アクエリアス」という邦題はミケーレ・ソアヴィの意思に従ったものなんですよ。ソアヴィは、「アクエリアス」というタイトルを使用してくれたのは日本だけだと、結構喜んでいたそうです。ただし、じっさいにはスペインその他いくつかの国でも、劇場公開時に使用されています。


ちょっとしたカットにも手抜きがありません。「絵面」というものをはっきりと意識していることがわかります。storyを垂れ流しているだけではないということ。


これが、ソアヴィが"Aquarius"と改題することとした問題のシーン。この、精神病院の受付にいる看護婦役もちょっと変わっています。演じているのはSheila Goldberg、名札がそのまんまSheila Goldbergになっています。ミケーレ・ソアヴィの悪戯心? ちなみに警官役で監督本人もご出演ですが、もともと俳優業でキャリアをスタートさせた人で、これはめずらしいことではない。

 あらすじは―

 新作ホラーミュージカルの上演に向けて夜遅くまでフクロウの面をかぶっているので「メンフクロウ」"barbagianni"と呼ばれている殺人鬼の凶行を描くジャッロ劇のリハーサルに励む演出家と新人俳優たち。足首を捻挫した主演女優アリシアは近くの病院へ行って応急処置を受けるが、そこは精神病院。ここに収容されていた、16人の女性を殺傷した連続殺人鬼アーウィン・ウォレスが脱走、稽古場に帰るアリシアについてきてしまった。裏方スタッフが殺され、通報を受けた警察は付近を捜索、警備を強化するなか、マスコミが詰めかける。演出家ピーターはこれをビジネスチャンスと考えて、世間の注目が集まっているうちに上演するべく、稽古場に鍵をかけて徹夜でリハーサルを続けることにする・・・はい、もう分かりましたよね、殺人鬼は既に稽古場の中に潜んでいるんですよ。そしてこの閉鎖された劇場で、「メンフクロウ」役の俳優と入れ替わった連続殺人鬼に次々と殺されてゆく関係者たち・・・。


殺し方はバラエティに富んでいます。

 超自然要素はありません。閉鎖空間ということで、所謂“オールド・ダーク・ハウス”もののvariationと見ることも出来るでしょう。快適なテンポで進行するstory、登場人物もよく描き分けられていて、ストレスなく観ていられます。フクロウの仮面をかぶっているので「メンフクロウ」"barbagianni"と呼ばれる殺人鬼は「O嬢の物語」を連想させて、これもなかなか格調高いと言いたい効果があります。


これを「格調高い」という私は病気が重い? いやいや、独自の美学に彩られていることはたしかです。それにしても、右のアリシアひとりが生き残った終わり近くで、フクロウ仮面の殺人鬼が舞台に死体を飾り付けるシーンにひと言。出演している俳優は、死体なら死体らしく、まばたきくらい我慢していなさいと言いたいですね(笑)

 ・・・とはいえ、そこまで(笑)さすがにソアヴィも監督第一作とあって、後の作品に観られるような美学の徹底はまだまだ。「デモンズ3」「デモンズ4」「デモンズ ’95」には及ばず。思うに、脚本がいま一歩。登場人物たちの描き分けと言いましたが、適度に個性を付与しているのは評価できるものの、肝心の主人公アリシアがクローズアップされるには至らないんですね。もうひとつ、感情移入できない。これ、イタリア映画の基本であるアフレコのせいじゃないでしょうか。いや、アフレコがだめなんじゃなくて、どうも不自然。アフレコ処理が雑なことに加えて、とりわけバルバラ・クピスティ演じるアリシアの声を当てている(クピスティとは別人の)声優が、その声の演技がわざとらしくて失笑モノ。

 それでも、後の個性を確立するソアヴィの才能が垣間見える佳作であることは認めざるを得ないでしょう。キャンプ場だのハロウィンだのといったシチュエーションで、頭ン中がカラッポの若造が次々とブチ殺されるゲーム感覚のハリウッド映画とは一線を画するもの。ドリルで殺されたり胴体真っ二つなんてシーンもありますが、ひたすら暗くてグロテスクなイタリアン・ホラーのtasteでもない。案外と品位を保っています。


最後のこけおどし的ダメ押し演出は「お約束」。首尾よくヒットしたときのために、続篇につなげる余地を残しておくんですよ(笑)


(おまけ)



 俳優としてのミケーレ・ソアヴィです。左はダリオ・アルジェントの「シャドー」"Tenebre"(1982年 伊)から。台詞もないチョイ役ですが、この映画ではクレジットされていないものの、助監督も務めていたはず。右はランベルト・バーヴァの「デモンズ」"Demoni"(1985年 伊)から。マリオ・バーヴァの息子ランベルトはたいして(いや、まったく)才能もなく、B級以下の退屈な映画といいたいところですが、ソアヴィがこの謎の仮面男を演じているというだけで、捨て難い(笑)


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。