096 「イングロリアス・バスターズ」 "Inglourious Basterds" (2009年 米) クエンティン・タランティーノ




 監督・脚本はクエンティン・タランティーノ、出演はブラッド・ピット、クリストフ・ヴァルツ、メラニー・ロランほか。

 舞台は第二次世界大戦中のドイツ国防軍占領下のフランス。5つの章に分けて描かれた物語の中心となるのは、ドイツ指導者の暗殺を企てるふたりの主人公です。ひとりはナチス親衛隊大佐に家族を皆殺しにされたユダヤ系フランス人の女性映画館館主。もうひとりはユダヤ系アメリカ人からなる秘密部隊を率いるアメリカ陸軍中尉。女の復讐と男たちの戦いは、彼女の映画館でドイツのプロパガンダ映画が披露される夜に向かって収斂していきます。


サイレント期の様式感を観るようです。

 いろいろな意味でたいへん興味深い映画です。entertainment映画の常套手段に則ったstory展開と人物描写には違いないんですが、それでいて陳腐な愚作にならないところがタランティーノならでは。ヒーローはカッコいい、ヒロインもカッコいい、悪役はクールで知的で要所要所でハラハラさせる、おまけにユダヤ系アメリカ兵によって、ヒトラーが機関銃で蜂の巣にされるという、超の字が付く名場面をクライマックスに持ってくる・・・ご都合主義の予定調和でありながら、観せる(魅せる)映画になっている。


ランダ大佐が喫っているのは、以前ここで話題に出たキャラバッシュ・パイプです。ちなみに尋問されているラパディット氏は安価な桜材のパイプのようで、立場の違いがあらわされています。

 娯楽映画も極めれば、ここまでのものになる、下手な高踏的・高尚な芸術映画を軽く超えてしまうことができるという例です。しかし、なぜ? ヒトラーが蜂の巣にされて、映画館が炎上・爆発するカタストロフィに爽快感を覚えることは否定できません。それにしても、こんな危なっかしい題材をとりあげて、不謹慎と批判もされず、ハリウッドのアメリカのための宣伝映画・洗脳映画に堕してもいない。なぜ?


ヒトラーが蜂の巣に。ちなみに機関銃を撃っているのはユダヤ系アメリカ兵士、演じているのはイーライ・ロス。

 ナチスは究極の悪、ナチスの所業を免罪することは絶対に許されないということが約束事になっているいま、ナチスを描いた映画を作成することの難しさは、「ヒトラー ~最期の12日間~」"Der Untergang"(2004年 独)の話の時に、Klingsol君も指摘していたとおりです。

 これを笑いに変えたのが、たとえば「チャップリンの独裁者」"The Great Dictator"(1940年 米)。これは1940年ですから、まさに同時代。それでもチャプリンがヒトラーを題材に映画を制作することに関しては、内外から反発の声が上がっています。また、チャプリン自身も後年、自伝において「ホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれない」と述べていました。


「チャップリンの独裁者」"The Great Dictator"(1940年 米)から―

 メル・ブルックスの「プロデューサーズ」"The Producers"(1968年 米)では、映画内で、確実に興行を失敗させるためのミュージカルが上演されるのですが、これがナチシンパのドイツ人が書いた「ヒトラーの春」"Springtime for Hitler"というもの。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされてしまうというstory。しかし、これが問題とされなかったのは、メル・ブルックスがユダヤ人だからでしょう。笑いにするのも、自身がユダヤ人でもない限り、簡単に許されることではないのです。


「プロデューサーズ」"The Producers"(1968年 米)から―なお、メル・ブルックスは「メル・ブルックスの大脱走」"To Be or Not To Be"(1983年 米)でも、ナチスを揶揄していますが、ここでは登場人物に、ヒトラーに対する至極真面目な抗議の台詞を言わせています。ただし、これはエルンスト・ルビッチ監督の映画「生きるべきか死ぬべきか」"To Be or Not to Be"(1942年 米)のリメイク作品。

 ですが、私の意見を言わせてもらえば、「人間の人格は統一的なものではない」ので、その人間のどの一面を描いたところで、ナチスの歴史をいかにとらえているか、などということが問われるのが、そもそも筋違い。筋違いは接骨院に相談して下さい。

 ヒムラーが相当な腕前のバッハ奏者であったり、チェコスロヴァキアで残虐行為を指揮したハイドリヒが、モーツアルトの音楽を聞いて演奏会場で落涙したからといって、なにが問題なんですか? ゲーリングは見栄っ張りの贅沢好きで、ゲッベルスが女好きな一方で子煩悩だったからといって、それがどうかしましたか? 私の職場にも、見栄っ張りの贅沢好きや女好き、子煩悩はいましたよ。そうした要素というか、性質が、誰もが期待するナチスの「究極の悪」に直結しないからといって、べつにナチスに肩入れしていることにもならないでしょう。人間の人格は統一的なものではないんですから。

 世の中には絶対悪はない、絶対善もない・・・善悪も、道徳も、一社会にのみにしか通用しない、相対的なものなんですから。

 世界はナチスを絶対悪と認定して、認定しただけならまだしも問題はないんですが、ナチスに関連するものや意見を、なにもかもタブーにしてしまった。だからナチスは神話化してしまったんです。

 たとえば、W・C・シンガーの「米国戦時秘密報告 ヒトラーの心」(ガース暢子訳 平凡社1974)によれば、戦時中、アメリカではヒトラーの心理分析をした結果、その最後が戦死であろうと、暗殺、自殺であろうと、ドイツ国民をヒトラー伝説にひきつけて彼の名を不滅ものとしてしまい、それをかき消すのには何世代もかかることになるかもしれないと危惧していました。

 現代の、ナチスに関する無批判なタブーは、この神話化を助長していると思われます。ナチスに惹かれている人がいたとしても、驚くにはあたらない。なぜなら、1930年代のドイツ国民は「惹かれている」どころではなかったのですから。そうした呪縛を非難するために、たとえばマックス・ピカートは、「もろもろの事物がもはや世界の本質のなかに根を下ろして存在しているのではなくて、連関性を失ったまま」だなんて、苦しい理由付けをしている。そのほか、よく言われるのが、無関心が悪だとか、権力に命じられるままのロボット化した人間が悪だとか、いやそもそも悪は破壊本能と同じで人間の本質のなかにあるものだとか・・・物事を抽象化するばかりの安っぽい仮説がまかり通っている。こんなのに血道を上げているのは、ナチスをスケープゴートに仕立てて(安心しきっていて)、自分の問題として考えることを避けているということなんです。

 いいですか、そういう安易な切り捨てによる思考停止こそが、まさしく「ナチス的」なんですよ。つまり、ある「他者」を自分たちとは関係がない、別な生き物だと見なすことが、ナチスの態度と同じなんです。世の中にあふれているナチスについて語った本や映画の多くが、じつはそれ自体、ナチスと同じスタンスで語っている、描いている、と言っていいのです。


早い段階で予告しています。あたかも倒叙法のように、その後の展開でハラハラさせるわけですね。

 澁澤龍彦が「ディジタル反対」というエッセイで、こんなことを言っています―

「もし私が独裁者だったならば、ただちに一切のディジタル時計の製造を禁止するであろう」
むろん、独裁者云々は冗談のつもりだが・・・


 この冗談口がどうこうということではありません、だれだってナチスが振るったような強大な力、集約された権力に魅力を感じるのではないかという話です。「もし私が独裁者だったら・・・」なんて、私だって言ったことがあります。もしも自我を限りなく肥大化するがままにさせておくことができたら、そんなことが許されるとすれば、それは際限なく欲望を満たし続けることができるということです。

 ナチスを描くにも、その暗黒を無批判に、なんらの考察もなく、「異常な」人間の暗部として貶めるのではなく、その暗黒に魅入られる己の内面を、ナチスに対するのと同様に見据えなければ、自分にも相手にも、納得のいく回答を提示できるはずもないのです。

 1960年代までのアメリカの戦争映画は、アメリカの正義を宣伝・洗脳するために作られたもの。これがヴィスコンティの「地獄に墜ちた勇者ども」"Die Verdammten"(1969年 伊・西独・瑞)となると、近親相姦、幼女姦、同性愛の大乱交などをスクリーンに登場させて、頽廃と堕落にノーを突きつけたナチスを、まさしく頽廃と堕落によって描いているという点で視点が新しかった。リリアーナ・カヴァーニの「愛の嵐」"Il Portiere di notte"(1974年 伊)はその延長線上にあり、シャーロット・ランプリングがマレーネ・ディートリヒの1931年のヒット曲「望みは何と訊かれたら」を歌うことで、映画「嘆きの天使」"Der Blaue Engel"(1930年 独)をも連想させて、そこで表現されているものは、ナチス以前のワイマール時代の頽廃にまで至っている。つまりそのワイマール時代の頽廃をナチ時代の収容所に再現させたところがミソなんですよ。ここ、大事なところですからね。もっと下世話に、ベルリンに実在した娼館をモデルにして描いたのがティント・ブラスの「サロン・キティ」"Salon Kitty"(1976年 伊・仏・独)です。このあたりからナチを題材にしたエログロ路線はB級映画とポップ・カルチャーに移行しました。

 背徳的なエロティシズムに頼ることなく、またことさらに頽廃ぶりを取り上げようとはせずに、むしろ(おそらく)ドライなタッチを目標にして制作されたオリヴァー・ヒルシュビーゲルの「ヒトラー ~最期の12日間~」(2004年 独)については、以前Klingsol君がお話ししたとおり。 


緊迫感のあるシーンがたびたび。152分、弛緩しません。

 ではタランティーノ監督作品はどうか。

 これはもしかしたら意図してのことではないかもしれませんが、俳優・女優が現代人感覚であること。黒澤明の「椿三十郎」(1962年)を思い出して下さい。黒澤明監督が、この映画に登場する9人の若侍たちを、時代劇のそれではなく、現代の若者そのままで演じさせたがったということを。この「イングロリアス・バスターズ」でも、大道具や小道具は時代考証をしているし、チャーチル役のロッド・テイラーなどはそれらしく演じている。しかし、ことさらに当時の時代を感じさせるようなノスタルジックな要素は加えられていない。主要な登場人物はそれぞれのキャラクターを演じつつも、「昔の民間人」「当時の軍人」ではない、あくまで現代人と共通する感覚です。だから、60年以上も前の時代を描いているのに、それは大昔の一コマではなくて、現代とひと続きの物語と見えるのです。ここが、一般的なハリウッドあたりの戦争映画とは根本的に異なるところ。

 そうしたところ、本当ならその映画を貶す要素です。しかも、entertainment映画の常套手段に則ったstory展開と人物描写ですからね。ところが、ここではこれがいい方に作用している。

 先ほど、「ヒーローはカッコいい、ヒロインもカッコいい、悪役はクールで知的で要所要所でハラハラさせる・・・」と言いましたが、カッコいいというのはそれだけ単純だということです。それもまたお約束。単純なものが偉大だということではなくて、単純さに「正義」を擬しているわけです。だからナチス親衛隊のランダ大佐が、悪役であるにもかかわらず、もっとも深いところまで克明に描かれている。当然、キャラクター自体も魅力的になる。悪役なんですけどね。ナチスには下世話で物見高い観客の興味を惹き付けるものがあることを、ちゃんと理解しているのです。ミステリ的な関心で観ていても、ちょっとした仕草や小道具といったディテールに注意を引かれてしまう。


ミステリ的要素がちりばめられています。しかも取って付けたようにならないところがさすが。

 そうしたこととパラレルに、登場人物たちがイデオロギーにとらわれていない。ナチスの思想信条を語る登場人物もいなければ、その政策やユダヤ人虐殺・迫害について、イデオロギーで非難したり反論したりする登場人物もいない。ドイツ軍人でありながらゲシュタポ将校を13名も殺害したスティーグリッツ軍曹についても、その精神的背景については語られていません。そんなことはどうでもいい・・・ってことでしょう。つまり、この物語では、社会集団や社会的立場における思想・観念・信条、あるいは特定の政治的立場など、一向に重要視されてはいないのです。しかも、単純なカッコよさで通していながら、なぜかキャラクターが立っている。それは登場人物が集団や社会の代表ではなくて、それぞれが独立した精神を持った「個(人)」であるからなんですよ。そんなところが、この映画をentertainment映画にしているのであって、また、だからこそ、芸術映画を超えたものにしているんです。


「イデオロギーなんか下僕に任せておけ」ということばが聞こえてきそうです(笑)

 もうひとつ、これはほかのタランティーノ作品にも言えることなんですが、映画愛にあふれている。タランティーノの語るところによれば、「第1章と第2章は、マカロニ・ウエスタン、第3章ではフランス映画やエルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』のようなタッチがあり、第4章と第5章は、『特攻大作戦』のような1960年代中盤の戦争アクションっぽくなっている」―そのそれぞれの世界で、現代感覚の俳優・女優が演じている。「ゲッベルス指揮下の“ウーファ”の説明を」とか、「デヴィッド・O・セルズニックだと思っています」なんて台詞もあります。

 極めつけは終盤、発火しやすい可燃性のニトロセルロース製映画フィルムで劇場を炎上させるシーン。これについては、タランティーノ自身が「比喩としてではなく文字どおり映画が第三帝国を打倒する様を映像化できることに興奮した」と言っています。


映画館炎上シーンはCGではありません。イーライ・ロスは、あやうく「灰になりかけた」と言っています。炎が40℃であるべきところ、1200℃にまで達してしまい、鉄のケーブルも熱で溶解してしまったんだとか。

 いかがでしょうか。そんな映画が名作にならないわけがないと思いませんか。


「お約束」の結末です。うれしくなります(笑)

 ちなみに、額に鉤十字を刻むという行為で思い出すのは、シャロン・テート事件殺害事件で有名なチャールズ・マンソンCharles Milles Mansonです。マンソンは別にヒトラーやナチスに惹かれていたわけではありませんが、逮捕され裁判にかけられる際、社会に対する抗議として額に"x"字を彫り込んでいます。当初は"exit(脱出)"という意味が込められていたのですが、これが後に手を加えられて鉤十字に変更されています。

 ブラッド・ピット扮するレイン中尉がナチスの軍人・兵士の額に一生消えない鉤十字を彫り込むのは、まさしくナチスによる巧みな「シンボル(の利用)」を逆手に取った行為であるということです。


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。



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