131 「ナチ・ドイツ清潔な帝国」 ハンス・ペーター・ブロイエル 大島かおり訳 人文書院




 
「愛と欲望のナチズム」 田野大輔

 Klingsolさんが取り上げた「魅惑する帝国 政治の美学化とナチズム」(田野大輔 名古屋大学出版会)の著者による本をもう一冊、「愛と欲望のナチズム」です。

 著者も述べていることですが、ナチズムというと、一般には、性に対して抑圧的あるいは禁欲的であるという印象が持たれています。それはワイマール共和政時代の性的堕落を断罪する態度や、各種の人口・人種政策による生殖管理などのimageが強いからでしょう。しかし著者はドイツ各地での一次資料調査によって、この通説を覆しています。

 ナチズムについて、性に関する観点から迫ろうとすると、どうしても最初に人種主義や優生学にぶつかることとなります。これを詳細に理解するのはなかなか骨で、いまはあまり立ち入りません。ここでは、その目指すところがドイツを強国にするために強靭な健康を備えた国民を増やそうという政策課題であり、そのためには健康な男女の性欲を積極的に刺激しなければならず、言い換えれば、国民の性生活にも踏み込んでゆくこととなるということだけ、確認しておきます。

 つまり、ある一面では「性の解放」。

 ドイツの純潔な血統拡大のためには風紀紊乱は排除しなければならない。同性愛者は許されない。戦争勃発後は兵士をコントロールするために公認売春街が必要。ナチズムにおける理想の女性像は・・・これはなかなか焦点が定まらなかったようで、同じ裸体でも「アメリカ的な性欲を刺激する破廉恥な女性」はダメ、「北方人種的な健康で自然な肉体美」はヨロシイ・・・という、いささか滑稽にも思える二律背反でした。また保守派層は婚外交渉一般を否定し、ナチズムも政権掌握前はこれに同調していたものの、「産めよ殖やせよ」のためには人種政策として、ドイツ人の間に限って、婚外交渉や私生児も積極的に推奨していくことになります。

 つまり、「道徳家ぶった偽善」を批判しつつ、風紀紊乱の排除などと言いながら、いつの間にか形骸化してしまったり、それどころか反対のことをしていたり、そこにまた苦しい理屈を付けてみたり・・・といった具合です。

 こうした、個人の性欲というきわめてプライベートな局面に政治が介入するということ、その右往左往ぶりを嘲笑してすませられないのは、これによって国民生活のすべては国家への奉仕として一元化・画一化されてしまうためです。そしてその発端には「人種政策」があるのです。

 学説としてはとりわけ新味のあるものではありませんが、一次資料に基づいた論述であるところに本書の価値があります。


 「踊る裸体生活 ドイツ健康身体論とナチスの文化史」 森貴史


 これは上記とは若干視点の異なる、ドイツ裸体生活文化の歴史を追った本です。

 発端は19世紀末、自然科学の進歩が旧来のキリスト教的価値観を覆し、またアメリカの舞踏家、イザドラ・ダンカンのヨーロッパ進出を機に舞踊や体操、フィットネスという身体に対する健康増進意識が高まりました。さらに同じころ医学の発達が衛生学の重要性を説き、朝の日光を浴びる自然療法が拡大、そうして裸体文化運動が盛んになってきたということです。


Isadora Duncan 20世紀を代表するアメリカのダンサーでモダンダンスの祖。自身の創作による自由な舞踊で、1900年にパリでデビュー。衣装はギリシャ風のチュニックを用いて、裸足で踊るのが特徴。

 とりわけドイツでは19世紀末の国家統一後に産業革命と工業化が進展したため、都市部の劣悪な住環境や健康被害が問題視されていたところ。ちょうどこの頃にワンダーフォーゲル運動が台頭していますよね。あれも健康ブームの流れです。ちなみに近代オリンピックは、1896年にアテネで第1回大会が開催されています。これを提案したのはフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵で、1892年にソルボンヌ大学で行った講演で、古代ギリシアのオリンピアの競技大会を復興しようと呼びかけた・・・歴史とは面白いもので、ちゃあんと、いろいろなきっかけが重なっているんですよ。以前、Parsifalさんが取り上げたレニ・リーフェンシュタールのベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」"Olympia"(1938年 独)の制作・公開もそうした一連の流れの延長線上にあるものです。


 「ナチ・ドイツ清潔な帝国」 H・P・ブロイエル

 原著は1972年の刊行。

 ナチス・ドイツが「清潔」"sauber"ということばを使ったのは、食品添加物の排除、有機栽培、街頭清掃活動、そしてヒトラー個人の嗜好としての、禁酒、禁煙を意味するため。さらに、そこには「異物の排除」という概念も加えられています。以前、「殺菌する」"sterilize"ということばには「断種する」という意味があることが指摘されていたことを思い出して下さい。"sterilize"は英語ですが、ドイツ語なら"sterilisieren"ですよ。ナチス・ドイツにおいては障碍者、ロマ(ジプシー)、同性愛者、ユダヤ人など、すべて排除と矯正(と断種)の対象です。このナチス・ドイツがその体制の道徳性を誇るのに使った"sauber"ということばに込められた意味は、いかにも広範にして多様なものであったのです。

 この本については、目次を記載しておくことにします―


序章  「育ちのよさ」の終焉

第一章 市民・農民・貧民
    アドルフ・ヒットラーの例

第二章 主人のはした女
    ヨーゼフ・ゲッベルスの例

第三章 日々のたのしみ
    エルンスト・レームの例

第四章 戦士と母
    ヘルマン・エッサーの例

第五章 子宝
    マルティン・ボルマンの例

第六章 新しい人間
    ハインリッヒ・ヒムラーの例

第七章 「種の特性を失った」人間


 ナチス・ドイツの性、家族、風俗、教育、犯罪について書かれた本書。これは上記「愛と欲望のナチズム」と似たテーマですが、各章にナチ高官の、それぞれの章のテーマに則した側面の人物描写をはさんでいます。こうして具体例を挙げるように構成されているのはいいアイデアで、たいへんわかりやすく、読みやすい本です。

 初期の党員で早い時期にナチズムから離反したヘルマン・ラウシュニングによれば、大衆のために設定された基準は、(党の)エリートには適用されなかったとしていますが、どうもことはそれほど単純な話ではないようです。

 ゲッベルスは妻がありながら愛人との不倫問題。おまけに喫煙家。菜食主義者であるうえに喫煙を嫌う総統の前では我慢我慢(笑)

 エルンスト・レームは男色家。レームの性癖と部下のハイネスがヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも知っていたヒトラーは彼らを一時的に追放するのですが、その理由は政策の相違と命令無視というタテマエ。レームは後に粛清されますが、粛清した側のヒムラーの頭を悩ます問題も、親衛隊(SS)内での同性愛。


Ernst Julius Guenther Roehm ヒトラーとは「おれ、おまえ」の仲でした(ドイツ語の"Du"で呼び合う関係)。

 「刑法第175条」は男性同性愛を禁止したものとして有名ですが、これはそもそもナチスが立法したものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されていたもの。

 ヒトラー・ユーゲントでは、マインツで指導員が20名の少年に対して28件の罪を犯し(同性愛でしょう)、4年の懲役・・・。そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5,000本のフィルムが毎月配給されていたのですが、その内容は「健康な家庭」「遺伝的疾病のある子孫」「五千年のゲルマン文明」「ヴェルサイユ条約とその克服」「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などといったもの。10~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、年長の17歳、18歳にもなると、さすがにウンザリ。彼らにとっては、健康な少年らしく振る舞うことよりも、酒場で煙草でも喫っている方がはるかに魅力的だったのでしょう。

 ヒトラーの女性に対する戒告―


「ドイツの娘よ、ドイツの母となるべき身であることを忘れるな! わが国では母は最も重要な市民となるだろう!」


 ナチスはもともと女性に過酷な労働を求めず、夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラックの運転などは禁止していました。しかし戦中、1940年にもなるとそのような通則も形骸化。子供は4人産め。ドイツの戦士を産め・・・なんてやっているうちに、この際婚外子(庶子)でもかまわない、などという話になってくる。それどころか、婚外性交が奨励されて、夫婦でも子供が生まれなければ離婚が奨励される。そのためには婚姻法もねじ曲げる。

 指導者の妻ともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。ヒムラーがあるSS大将に書いた手紙は、「・・・きみの奥さんの振る舞いが、あまり好ましいものではないという印象を受けざるをえない。どうか彼女ができるだけつつましく暮らし・・・大管区のあれこれの政治問題や、大管区の指導官個人について、あちこちの場所ではっきり意見をのべたてないよう、よくしつけてくれたまえ」というもの。闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、彼女たちのオツムではもはや不十分だというわけです。早い話が「黙らせろ」。まあ、夫の仕事に口出しをさせるなというのは、それなりにゴモットモですが(笑)

 そんななかで大勢の女性に貢がせていることを自慢気に吹聴して「ゴロツキ」と評判だったヘルマン・エッサーが、愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がナチ式離婚として紹介されています。

 いやはや、もうなにが「清潔」なんだか(笑)

 ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、このような「産めよ増やせよ」政策のために、1,000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。子供ひとり産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだら全額返済免除になるわけです。しかし、現実には母親がひとりで子育てと家事をこなすことは困難。この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出します。まるでどこかの国の自民党のように「場当たり」でいいですね(笑)


Heinrich Luitpold Himmler 「ホロコーストの執行者」として悪名高いヒムラーですが、オカルティズムへの傾倒でも有名です。

 もちろん、自民党・・・ではなくて、ヒムラーが考えるほどコトは簡単には運びません。1944年になると、今度は単に子供を産みなさい、ではなくて、男子を産みなさい、となります。親衛隊の女性福祉施設、レーベンスボルン(生命の泉)に「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、最初の資料をSS全国指導者自ら持参したというのですから、その本気の度合いも知れようというものです。

 その資料に記載されている、本部長ゴットロープ・ベルガーが自分の故郷の風習として語ったことがなかなかケッ作でして・・・夫は、妻と同様に一週間アルコールを断ったうえで、正午に家を出て、20キロ離れたウルムまで徒歩で往復する。妻はそれまでの一週間、働かず、栄養をとり、よく眠り、一切の精力消費を避けてすごす。夫が帰り着いたら性交、その結果、必ず男児が生まれる・・・という摩訶不思議なオハナシ(大爆笑)大真面目で意見を求められたSS医師団長は意見を述べることを拒否したそうです。

 さらに人種学に通暁した医師レオナルド・コンティは子供のない夫婦の医療相談所をつくらせて、「人工授精」も視野に入れはじめる・・・ところがこの建白書は、「これはおれの領分だ」とヒトラーを激怒させたというおまけ付き。

 第6章「新しい人間」もたいへん興味深く読めますよ。エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されているのですが、夫婦ともどもが人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、ふたりともスポーツバッジの受章者であることが求められ、また鉄棒の「大車輪」が優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。ちなみに「大車輪」、ヒムラー本人は猛練習の甲斐もなく、遂にできなかったんですけどね(笑)

 そうしたなかで、ナチ党人種政策局による10項目の「配偶者選択の指針」は―

1 ドイツ人であるとの自覚をもて!

2 精神と魂の純潔を保て!

3 身体を清潔に!

4 遺伝的欠陥のない者は、結婚せずにいてはならない!

5 愛のためにのみ結婚せよ!

6 ドイツ人として、配偶者にはかならず同種もしくは近縁種の血の者を選べ!

7 配偶者を選ぶときは、その祖先を調べよ!

8 健康は外面的美しさにとっても不可欠である!

9 結婚には遊び友達ではなく、伴侶を求めるべきである!

10 できるかぎり多くの子供を望むべし!


 これは第六章で引用されているのですが、ここまで読んできて、だれだって「よく言うよ」と感じるでしょう。

 問題は、ドイツ人であることが当人の功績ではなくて、民族のおかげなのだから、民族に対して責任を果たせ、という理屈であることです。これは助言ではなくて命令、国民の画一化であり、理想主義的な外見をまとった「育種計画」なのです。

 いかがでしょうか、現代の生活習慣病予防とか、病気の治療よりも定期健康診断、という風潮にも、似たものを感じ取れないでしょうか。私は「健康管理」ということばが大嫌いなんですよ。だれが好き好んで病気になりますか。「健康管理」ということばは、当人が望んでもいない病気を「自己責任」に帰するためのレトリック、詭弁ではないでしょうか。


(Kundry)



引用文献・参考文献

「愛と欲望のナチズム」 田野大輔 講談社選書メチエ


「踊る裸体生活 ドイツ健康身体論とナチスの文化史」 森貴史 勉誠出版


ナチ・ドイツ清潔な帝国」 H・P・ブロイエル 大島かおり訳 人文書院


「セックスとナチズムの記憶 20世紀ドイツにおける性の政治化」 ダグマー・ヘルツォーク 川越修・田野大輔・荻野美穂訳 岩波書店




Diskussion

Parsifal:「愛と欲望のナチズム」も読みやすい本だね。

Klingsol:「踊る裸体生活 ドイツ健康身体論とナチスの文化史」に一箇所間違いがある。「ユーゲントシュティールとは、フランスでいうアール・デコ様式をドイツ、オーストリアで呼ぶばあいに使用されるもの」とあるけれど、この「アール・デコ様式」は「アール・ヌーヴォー様式」の間違いだね。

Kundry:参考文献には挙げましたが、直接取り上げていないダグマー・ヘルツォークの「セックスとナチズムの記憶 20世紀ドイツにおける性の政治化」(岩波書店)について補足しておきます。この本によれば、ナチズムは教会その他の保守派には性の解放をユダヤ人の影響によるものとして非難しておいて、その一方で人種的にすぐれたアーリア人には特権的に性の解放を認めて、大衆的な支持を得た、ということです。そして終戦後は、主に教会側から、性の解放がナチズムの犯罪をもたらしたと認識されたのですが、これは過去の克服のために性的保守主義に価値転換が図られたため。これはドイツ人が自らをナチズムの被害者に仕立てようとする意図のあらわれでもあります。これが1960年代になると、今度は性の抑圧こそがナチズムの犯罪を生んだという話になる・・・これはフェミニズムの台頭でそれまでの男性中心主義が攻撃され、性の解放はすなわち政治的解放であるという論理を維持できなくなったため・・・。

Klingsol:たしかに、性の解放を政治的解放と同一視する風潮はあったようだね。ニュー・レフトかな。悪者はなんでも抑圧する側というわけだ(笑)

Hoffmann:つまり、一時的に・・・1950年代あたりかな、ナチズム下における性の解放、あるいは風紀紊乱は隠蔽されたわけか。

Klingsol:性に関しては、抑圧と解放の二元論で語るのは無理があると思っているんだけどね。ことにナチズムにおいては奨励が統制そのものだったんだから。

Kundry:政治を語るのにも、性を無視できなくなったとは思いますが、その際には、必ずと言っていいほどフェミニズムの側面からばかりアプローチされることには、若干の違和感もあります。主義主張が先にあって、それに沿った議論になりがちなんですよ。


Hoffmann:それにしても、堕落してさえなければ健全な美を示す女体はOKって・・・(笑)


Parsifal:一方で、300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団」"BDM"は、その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」「ドイツ牝牛団」などと綽名されていたんだよね。


Hoffmann:ヒトラー・ユーゲントの規律もたいがいなとところがあったようだ。子供のうちはともかく、16歳とか18歳ぐらいにもなると・・・もう半ズボンを履くのも恥ずかしい年頃だろう(笑)

Parsifal:入念につくりあれげられてきた公衆道徳と徳性のimageと現実との間に不整合が目立つようになると、Kundryさんが言っているように、どこかの国の自民党みたいな「場当たり」の連発になるのは一面、滑稽なんだけど、これがナチスとなると滑稽ですませられないんだよね、やっぱり。

Hoffmann:体制管理はいずれ破綻する。全体主義で一般道徳の管理なんかできるわけがないんだよ。

Klingsol:それに、ヒトラーも含めて、ハイドリヒなど、複数のナチス幹部にはユダヤ人の血が流れているとの噂があったからね。DNA鑑定もできなかった時代だから、書類だけでユダヤ人、アーリア人を確定させていたわけで、さすがに無理がある。そもそもアーリア人なんていうものは実体のない幻影なんだから。

Parsifal:まして戦争が始まったら、夫は戦地に赴くし、末期に都市に残れば、妻子は疎開する。家族は分断されて、家族と道徳が解体されるのは時間の問題だよ。

Kundry:つくづく思うのは、ナチスが機能不全に陥っていったのは、一種の自家中毒だと思うんですよ。もちろん、最終的には連合軍の勝利に終わったわけですが、そればかりではなく、内部から壊れていったのですね。場当たりな対策で延命を図っただけと見えます。

Hoffmann:別に下半身活動ばかりが崩壊の理由じゃないけどね(笑)政権に就いて何か月かの間は、ヒトラーも規則正しく政務をこなしたんだけど、やがてミュンヘンのカフェにいりびたっていた頃の生活スタイル、つまり昔のボヘミアン時代の生活に戻ってしまっているんだよね。たいていは昼頃まで寝て、気分次第で予定を変更した。

Kundry:権力は腐敗する、ということですか?

Hoffmann:いや、信頼できる少数の者を集め、大げさに独り言をいいながら活動を始めるのは、夜になってから。夜になって(みんなが眠たくなってきて)から重要なことを話すのは、ヒトラーの得意とするテクニックで、民腫党の枝○が東日本大震災のときに深夜に記者会見をやっていたのはこれを真似たものだ。

Parsifal:最後にKundryさんが言っているように、現代の生活習慣病予防とか、病気の治療よりも定期健康診断、という風潮には、たしかに似たものを感じるね。つまり、政権、国、公共団体、役人による個人の健康問題への介入だ。ミシェル・フーコーを思い出す。

Hoffmann:「健康管理」ということばには、強迫観念を呼び起こすための呪文めいたところがある。だれも望んでもいない病気を「自己責任」に帰するためのレトリック、詭弁というのは賛成だ。だからこの延長線上に、「人工透析患者なんて自業自得だ」「そのまま殺せ!」などと言い出すナガタニガワ豊とかいう「異常者」が現れるんだよ。自分が差別される側に回ることなど絶対にないという根拠のない確信も、差別感情の典型的な例だ。ちなみにこの男、後になって「意図的に煽ることでエンターテインメントのような見せ方を狙っていた」「楽しくなければ、面白くなければ発信しちゃダメだと考えてい」た、と言っているんだけど、この自分の発言が「エンターテインメント」で「楽しく」「面白い」と思っていたというのなら、その神経は、ナチス・ドイツをはるかに上回る狂気と言うべきものだね。