139 「アルゴールの城にて」 ジュリアン・グラック 安藤元雄訳 白水社 ジュリアン・グラックの「アルゴールの城にて」、今回、安藤元雄訳(白水社)と青柳瑞穂訳(現代出版社)と、続けて読み返して、小説というものについていろいろ考えてみましたので、お話したいと思います。例によっておおらかなキモチでお聴き下さい。 小説というものは、そこで語られていることが、誰かが作った作り話であることは明白、読者もそのことを認めている。その誰かというのは、通常、どこの誰やらわからないとか、複数人の人間であったりするとかいったことはない。ひとりの作者という個人の意識的な作り話であるはず。読者の側にそれが分かっているのですから、作者にとっても、ことばを使って書く以上、どんな場合でもそこに他人が介在していることになります。他人の目を避けて書かれる日記でさえ、他人に向かってことばを使うという形をとっている。いわんや、読者あての「はしがき」などがおかれている場合においておや。作者にとっては、その読者像がはっきりしている場合もあるし、曖昧な場合もあって、その程度はさまざま。ひょっとしたら、作者の想定している読者像というものが、自分から剥離した亡霊のような自分自身であるかも知れない。いずれにしろ、読者はこの小説を自分にあてられた親展文書のように読みはじめる・・・。 私的な小説。秘密めいたもの。表面上はともかく、小説というものは、作者が自分の私的なものを他人に見せたいと思って書かれている。幸いなことに、作り話であるという前提があるので、書かれたものが作者の汚物のような自我であったとしても、礼節をわきまえていないなどと非難される心配はありません。裸体で公衆の面前に立ちはだかるような小説でも、仮面を付けていることで許されてしまうようなもの。しかし、作者と読者の対話と考えてみると、これは会議室や講堂で不特定多数の人々に大きな声で語りかけるようなものではありません。さすがにそれは似合わない。読者の方も、小さな私的な部屋で読むのがふさわしいと感じるはず。なぜなら、私的なことであって、相当いかがわしいものであることは作者・読者ともに了解事項だから。 言うまでもなく、虚構という最低限の砦を排除してしまえば、それは打ち明け話、身の上話であって、それはもはや礼節を欠いているばかりでなく、小説と呼べるものではない。他人の身辺問題を書いたものは暴露本など呼ばれることはあっても、小説ではないし、もちろん文学でもない。ただの噂話レベル。これは声を潜めて私的な領域でのみ、語られるべきもの。 たとえば歴史書を繙いてごらんなさい。そこに書かれているのは、もっぱら国王や政治家、武将や将軍の、公人としての行動や発言であって、その前日の晩に夫人と交わした睦言や、今朝方の夫婦喧嘩の際のやりとりは一切無視されている。これが小説家となると、そのあたりのことにも想像力を働かせるのが自分の仕事だと言わんばかり。つまり、小説とは卑しい興味を満たすために書かれたものということもできる。 ところが、私的なものというのが、ひとつの思想である場合もある。虚構という仮面を被って、誰か架空の人物に関する話であるという約束が、作者と読者の間にはあるわけです。しかし、普通なら他人に見せてもあまり意味のないことに属した事柄。 それでは、思想を語るにも、あまり卑俗にならないように小説に仕立てる方法はないか。たとえば批評的な小説。既に存在している物語に憧れて、自分でもそのようなものを書いてみたいという欲求。これをちょっと捻って、既存の物語を利用して、新たな物語として語り直すことで、ひとつの批評を試みる場合。これを私的なものを描く小説と融合させたのが、マルグリット・ユルスナールやヘルマン・ブロッホ。ハドリアヌス帝やウェルギリウスを登場させて、そこに「意識」を描き出した。昔の神々や英雄物語はただ行動するのみで、そこに意識の流れのようなものはあまり感じさせなかったが、ユルスナールやブロッホはこの方法で思索に沈んで見せた。 よく、小説でも思想があるのないのと言われることがあるが、人間は常にある特定の立場からものを見ることしかできないのは明白なこと。その意味では思想のない人間なんかいやしない。世界は馬鹿げていて無意味である、どんな思想も信じるに足りない、という考えも思想のひとつ。"-ism"というものがあるのないのと言っている人は、自分についてではなく、必ず他人に対して自分のことばで表現している。そもそも思想とはそういうもの。マルクスはマルクス主義者ではない。キリスト教だってキリストの思想ではない。特定のイデオロギーに縛られた自分の視点を絶対的な原点だと勘違いしている人は多い。しかし注意するべきは、価値相対主義をとるということは、そもそも価値相対主義に反するというパラドックスを含んでいること。つまり一切のイデオロギーを捨て去るとことを許さないのがイデオロギーというもの。イデオロギーを否定するのも一種のイデオロギーであるということ。 いまさら感はあるが、「神は死んだ」ということばを使って考えてみる。神は死んだ。だから人間にはもはや拠り所がない。そこから人間の疎外とか不条理だとかいったテーマが生まれ、流行りだした。ほとんどの人は、神が死んだのに、イデオロギーからの解放どころではない、むしろイデオロギーに繋がれてしまった。だからシュルレアリスムに先立って、ダダなんていう運動もあったわけ。なんでもかんでもその価値観を破壊するということは、すべてに"anti"を唱えるということ。これを突き詰めてゆくと、当然のように、ダダそれ自体にも"anti"とせざるを得なくなるわけで、まあ、あれは人類の思春期における反抗期の訪れのようなものだったわけですよ(笑) ダダだのシュルレアリスムだのという時代になると、これはもう20世紀。このあたりから小説も「変数」を使うようになる。これは場所も定かではない、登場人物も、何者だかよく分からない。事件が起きているのかいないのか、判然としない。土地にしても人間にしても、名前(固有名詞)さえついていない場合もある。読んでいると、終始、迷宮を歩き回っているような感覚に誘い込まれる。たいがい、人間そのものよりも「状況」を表現したり分析したりすることに主眼が置かれていて、その周辺にあるものは常に姿を変えてあらわれる(表現される・語られる)。だから「変数」。 おもしろいのは、作家の想像力といって、じつはその想像力は統制されているのが普通であること。物語でなにかが起こり、それに対する反応がある、あるいは次にまたなにかが起きる・・・これはそれほど自由な想像力で書かれているものではなくて、思考の統制のもとに紡がれている。この精神や思考の支えをなんとか排除できないかと試みたのがシュルレアリスム。しかし、説明であれ、告白であれ、描写であれ、なにを語ったところでそれは作者の精神の運動の軌跡にほかならない。そうでないわけがない。ただし、心理分析は慎重に避けておく。よくある心理小説は人間の行動に対する決定論的な説明をしてしまうことで、登場人物を自動人形化してしまう。これだと人間が神々に操られる神話・伝説の類いと変わるところがないわけで、シュルレアリスム以降の、真の意味で新しい小説はこれを避けることが多い。 会話に関しても同様。会話も人間の行動のひとつではあるが、まるで登場人物の脇に速記者が控えていたかのような、肉声に近いものを再現しようと試みたのが自然主義文学。しかしそれは作者の思想というよりも、精神の裸体や内臓を露出しているようなもの。現代人はたいがいおしゃべりなので、もともと作り話である小説は、人間の生活に必要のない無用なおしゃべりに過ぎないものであるから、やたらと会話の多い小説というのはそれだけで低級なもの、精神の怠惰と衰弱をあらわしているものだと見ていい。駄弁というものはそれが政治などの文学以外のことについてのものであったとしても、有用なものであることは、まずない。そういった小説はやたらと「私は」「ぼくが」といった一人称主語が多い。芸ではなく、「私」や「ぼく」を売り込みたいのですよ。小説で表現したいものがあるのではなくて、自己表現をしたいだけ(笑)その類いでしばしば見られるのが、常軌を逸したものや、単なる異常を描いて、意味ありげに「狂気」などと称しているもの。これは人間が社会なり時代なりの被害者であるという戦後マルクス主義の残滓。いまでは町中で見知らぬ人に斬りかかったりする殺人犯や殺人未遂犯の言い訳になっている。いま流行の、ノーベル文学賞候補だなどと取り沙汰されている小説などは典型的な例で、自らを崇高な弱者・被害者だと思い込んでいる読者の自己慰安の道具になっている。極端な例だが、もっとも低劣かつ幼稚なもので、これを文学などとは呼びたくない。 とくに現代の日本の小説家に多くみられる特徴が、個人を描けないということ。夫婦関係とが親子関係とか、男女関係などといった「関係」しか書けない。人間を、人間関係の中でしかとらえられない。現代人の疎外とか孤立にその要因を求めるのは見当違いもはなはだしい。単に精神が幼児レベルであるということ。そんな次元で表現できる、あるいは表現しなければならない自己などというものは、なにも分かっていない自己にすぎない。それが先に述べた、本来軽々に使うべきではない「狂気」などと言うことばに彩られたらどうなるか、他人の耳に蛮声を張り上げているとしか聞こえないような不器用で鈍感な精神を開陳するだけの小説になる。逆に、40、50、はては60歳にもなってそういうもの書きつづけている作者は、いい歳をして幼稚なままに精神を病み続けているということ。逆にそうでなければ書けるものではない。 批評精神というものは、自己に対しても働くようでなければ成立し得ないもの。これは自分の弱さが自覚できないほど弱い人間には、身につくものではない。 世に言われる難解な小説といえばカフカ。カフカの場合、じつは不明確なところはない。読者は主人公の行動がことごとく空振りに終わる現象を解釈しようとするから難解だと感じるだけのこと。他人の紡いだ物語が解釈できないからといって、難解だの「シュール」(何度も言うが、このことばの誤用だ)だのと言っているのは筋違い。筋違いは接骨院に相談して下さい・・・って、これは前にも言ったかな。迷宮は人を迷わせるために迷宮として存在しているのですよ。一応断っておくと、もやもやと曖昧で幽霊でも出て来そうな雰囲気が難解なものであるとは限らないということ。多くの場合、人間の行動の因果律が不明瞭である場合に、人は難解だと感じる。それは「解釈」しようとする限り、言い換えれば「なぜ」と問いかける限り、難解になる(難解なままである)ということ。 しかし、考えてみて欲しい。それはいちいち説明してもらわなければならないものなのかと―。正義感で知人の不行跡を非難している男がいたとする。当人は、自分がまったくの正義感で憤っていると信じている。しかし、周囲にいる者の目には、それが嫉妬心とかその他の感情から発した憤りであるように見えている。これ、いちいち説明しなければいけませんか? ましてや先に述べた「変数」を利用して語られている物語においては、そのような説明を加えれば、物語世界を著しく限定的なものとしてしまうことになってしまいますよ。読者の理解力の範囲内で物語を完結させてよしとしていられたのは、せいぜい19世紀までのこと。 Julien Gracq 「アルゴールの城にて」はゴシック小説風の舞台装置の中で演じられる物語になっています。「はしがき」という、読者へのことばも用意されている。作者はこの小説を、ワーグナーの「パルジファル」の再話、「悪魔的な書き換え」と見られても差し支えないとしています。当初、原稿をガリマール書店に持ち込んだが拒否され、仕方なしにシュルレアリスム関係の小出版社であったジョゼ・コルティから自費で刊行。150部しか売れなかったが、アンドレ・ブルトンがこれを評価した・・・。どうも、この経緯は別としても、この小説は読者にシュルレアリストを想定したと思われる節があります。ずばり言ってしまえばアンドレ・ブルトンその人。 その文章は一切の会話を排し、比喩に比喩を重ねて、すべては暗示されるにとどまる。会話がないので静謐感が漂い、登場人物の行動はまるでパントマイムのよう。つまり、極度に様式化されたギリシア劇か、フランス古典劇か、はたまた我が国の能などを連想していただければいいでしょう。筋を追うような読み方だとちょっとついて行けないかも知れません。これはそうした様式をそのまま受け入れてしまうことです。 このグラックの小説について語る人がほとんどふれてくれないことをひとつふたつ、お話ししておきます。小説中、アルベールが読んでいるヘーゲルの引用で、「傷を負わせる手は、また傷をいやす手でもある」というのは、ワーグナーの「パルジファル」のなかで、「役立つ武器はただひとつ、傷を塞ぐのは、その傷をつけたこの槍のみ」に対応するもの。ヘーゲルであることに深い意味があるのではなさそうです。また、ワーグナーの「パルジファル」において、もっとも重要かつ謎めいている歌詞は、大詰での合唱団の最後の一節、"Erloesung dem Erloeser!"です。これは「救済者に救済が与えられた!」とか「救済者に救済を!」などと訳されています。これに正面から取り組んで考察したものは、日本語文献では見当たらず、私の本棚にはドイツ語文献でWolfgang Seeligによる"Ambivalenz und Erloesung Parsifal"(Bouvier-Verlag, 1983)があるのみです。 どうも、この「アルゴールの城にて」には、はじめの方でお話しした、既存の物語を利用して、新たな物語として語り直すことで、ひとつの批評を試みたという側面があるように思われます。ただしここには私的なもの、すなわち意識の流れは描かれていません。そこは20世紀文学ですから、「変数」は「変数」のままに呈示されているわけです。作者の考察で読者を縛るようなことはしていない。あえて言えば、ほのめかしで、読者の側を思索に沈ませようとしているのかも知れません。しかし、これを読んだ読者に思索することが求められているとも思えない。ここでは作者と読者の対話は成り立たないのです。そこが、私がこの小説をシュルレアリスムの小説なのかな、と思う唯一の点です。カフカと同様、およそ小説というものは、悪夢なのです。解釈などといった律儀な作業は、たとえ作品からこれを拒否されても解釈せずにはすまされない、一部の研究者と評論家たちに任せておけばいいでしょう。 もうひとつ―とくに我が国では文学というものを、なにかを教示してもらうようなたいへんありがたいものととらえている人が多い。たとえば伊藤整は「フィクションによるロマンというものこそが、今では真実を語る唯一の方法である社会に我々は住んでいるというべきだ」と言っていた。ついでに言っておきますが、これに限らず「・・・べきだ」という断定に出会ったときは、多くの場合、一度立ち止まって疑ってみた方がいいですよ(笑) この伊藤整の発言は昭和37年の発言なんですが、いまや文士は市民社会の一員となって自由に行動したりあからさまに言えることは限られている、といった前提のもとに言われたもので、また私小説が書きたくても書けなくなった、というニュアンスを含んでいることにご注意下さい。たしかに、虚構(フィクション)の中に現実世界の主要部、つまり作者が主張したいテーマをはめ込む、というのはわかります。しかし、「芸」としての文学というものもあるはず。いや、じつは伊藤整は、芸が芸として認められ、味わわれるためには寛容な近代的市民社会の存在が前提で、社会が急迫しているときには芸はよけいなものだ、とも言っているんですね。たしかに、漱石や鷗外のような高給取りが心の余裕を持って書いた高度な「芸」は、貧しくて切迫した生活意識を持つ層には空々しいものと映って、むしろ嫌悪されました。だからプロレタリア文学なんていうものが台頭したわけです。 私小説というのは、徹頭徹尾、実感に裏付けられた現実「だけ」を描いているんですよ。私小説家にしてみれば、私小説の範囲から外に出て行けば、その現実像は市民社会の通念を利用しただけの陳腐な通俗小説になってしまう。プロレタリア文学がまさにそれ。しかし、現実像のとらえ方なんてひとさまざまです。以前、幻想文学について次のようなことを言ったこと、覚えていますか? 日常性を失うような境遇が必要なのかもしれません。やはり孤独が必要なんです。これは必ずしもその人が孤独であるという意味ではなくて、「個人主義」ですね。日常的な感覚から一歩踏み出そうというときに、あくまで「個」で考える・見るという姿勢でないと。 例を挙げると、中村眞一郎とか山田風太郎などがこれに該当します。お二方とも、社会とか家庭とかいったものを外から観察していた、徹底した「個」人的な意識の持ち主です。もちろん、社会市民的な常識は持ち合わせているでしょう。しかしこの種の人たちは、現実をひとつのフィクションとしてとらえている。市民社会の「常識」というものが、政治、経済、法律などの作り出した客観的な約束に過ぎないことに気付いている。そのような、広い現実をフィクションとしてとらえることができてこそ、作家もフィクションを創造することができるのです。それではじめて、その作者独自の現実像が成立する。その点、マルキシズムの唯物史観というのは、現実把握の方法としてはまことに有用なものであったんですよ。ところが、肝心の作者の世界観・現実認識とはかけ離れたところで、あたかも科学的合理主義のごとく、世界を抽象化・画一化してしまった。だから我が国伝統の私小説にのみ込まれてしまったんです。のみ込まれたというのは、マルクス主義が通俗的現実像として私小説に融合されてしまったということ。できあがったのは、反体制な「私」が社会の余計ものとして疎外されるというお決まりのパターンの小説。社会全体をとらえる意識が成熟しないうちに行き詰まってしまったんです。 でもね、漱石だって鷗外だって、明治の社会で市民として生きた「芸」達者なんですよ。疎外されてなんかいない(ついでに言うと、カフカだって疎外なんかされていません)。その作品は社会全体を再構成するような「全体小説」ではありませんでしたが、亡命したトーマス・マンが言ったように、「私のいるところにドイツがある」のであれば、そこに描かれているのが、紛れもなく、漱石、鷗外の社会。「社会」ということばに惑わされないでください。いっそ、「世界」と言った方がいいか。その「世界」を作るのが「芸」なんですよ。 ジュリアン・グラックの小説も、漱石や鷗外とは違いますが、高度な「芸」によって創造されたものなのです。どちらかというと、批評小説としては芥川により近いかな。 (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「アルゴールの城にて」 ジュリアン・グラック 安藤元雄訳 白水社 ※ 白水社版は結構なお値段がついていたので、岩波文庫版をおすすめしておきます。 「アルゴオルの城」 ジュリアン・グラック 青柳瑞穂訳 現代出版社 Diskussion Kundry:解釈するよりも味わいなさいと(笑) Hoffmann:偉そうな言い方に聞こえたら困るんだけど、ありのままに読めばいいんだよ。 Prsifal:グラック自身は「はしがき」で、「ユードルフォの不思議」や「オトラントの城」、「アッシャー家の崩壊」の「強力な奇蹟が動員されて、その鎖や、その亡霊や、その棺桶などが保持してきた呪いの力を、これらのかぼそい章句にいささかでも伝えてくれるといい」と書いている。 Klingsol:ハイデの葬儀なんか、たしかに「アッシャー家の崩壊」連想させる。たしかに批評的な小説と言えそうだね。 |