139 「ボディ・スナッチャー / 恐怖の街」 "Invasion of the Body Snatchers" (1956年 米) ドン・シーゲル




 1950年代、原爆・水爆の恐怖を描いた映画は山ほど製作されています。思いつくまま挙げてみると―

「ゴジラ」 (1954年) 本多猪四郎
「水爆と深海の怪物」 "It Came from Beneath the Sea" (1955年 米) ロバート・ゴードン
「放射能X」 Them"(1954年 米) ゴードン・ダグラス
「戦慄! プルトニウム人間」 "The Amazing Colossal Man" (1957年 米) バート・I・ゴードン
「巨人獣」 "War of the Colossal Beast" (1958年 米) バート・I・ゴードン (上記「戦慄! プルトニウム人間」の続篇)


 順に、古代の恐竜、サンフランシスコを破壊する蛸、蟻、タランチュラに、人間までが巨大化。監督の名前が「ゴードン」ばっかり。「ゴードン」は巨大化がお好き? 逆に小さくなるのが―

「縮みゆく人間」 "The Incredible Shrinking Man" (1957年 米) ジャック・アーノルド


 とはいえ、主流はやはり巨大化―


「世紀の怪物 / タランチュラの襲撃」 "Tarantula" (1955年 米) ジャック・アーノルド
「極地からの怪物 大カマキリの脅威」 "The Deadly Mantis" (1957年 米) ネイサン・ジュラン
「黒い蠍」 "The Black Scorpion" (1957年 米) エドワード・ルドウィグ


 とりわけ放射能によって巨大化した怪物というのは核戦争に対する避雷針だったんですよ。考えてみれば、理屈は単純。放射能を浴びたキンセンカが大きな花を咲かせるのであれば、核実験の結果なにかが変異して巨大化してもおかしくはないだろうなという程度の発想で、謂わばジプシーの呪いがテクノロジーの衣を纏ったようなもの。じつは、巨大化したのは動物や植物ではなく、文明に潜む恐怖だったのです。原子力には原子力発電という「平和利用」も可能、なにしろ当時は、原子力発電がはじまれば、もはや電気代を支払う必要なくなるなんて信じられていたんですよ。だから、原子力は神と悪魔のふたつの顔を持っており、人間を幸福にもするし、また罰する力も持った存在として認識されていた。その悪魔の面、ダークな側面が怪物として表象化されたわけです。

 もちろん、これは「放射能X」のときにお話ししましたが、ここにはアメリカという国が、先住民族を迫害し追い立てた歴史を、こうして邪悪なものが家や国家を攻撃してくるという物語を捏造して、自分たちを正当化しようとしている「歴史」=「敵」を捏造するプロパガンダ映画でもあることをお忘れなく。なお、「黒い蠍」ならメキシコ侵略の歴史の正当化ですね。

 それのようなパラノイアックな衝動がよりあからさまに現れているのが、原爆・水爆の恐怖を描いた映画と並行して制作された、東西冷戦下の不安と、赤の脅威を象徴する映画です。じつは先に挙げた「極地からの怪物 大カマキリの脅威」も東西冷戦下でのソヴィエトに対する恐怖と不安のあらわれなんですが、あれは単純な巨大化したカマキリに形象化しただけ。思想的な他者性を地球外生物に投影して、共産主義の代わりにマインド・コントロールを目論む宇宙からの怪物を登場させる手法もまた、さまざまな映画で多用されていました。

 その代表作がドン・シーゲル監督の「ボディ・スナッチャー / 恐怖の街」"invasion of the Body Snatchers"(1956年 米)です。原作はジャック・フィニイの「盗まれた街」。

 これまでに幾度となくリメイクされ、さらにはコピーもされてきた傑作です。さすがに古い映画ですからね、特殊メイクにしても未だ未熟で原始的なんですが、にもかかわらず、リメイクを観た後でも唸らせられる、ただならぬ不穏なatmosphere漂う映像と展開は目が離せなくなります。



 カリフォルニアの小さな街に、人間の複製を作ることができる豆のさやのようなものが侵略してくるというstoryは、いかにも東西冷戦下ならでは。そこで入れ替わった=マインド・コントロールされた複製人間は盲目の順応性を示していますからね。エーリヒ・フロムがナチス・ドイツの全体主義社会における「自由からの逃走」と名付けた大衆心理を想起させる・・・ということは、同時代性ではソヴィエトの、あるいは社会主義・共産主義の脅威・恐怖の隠喩なんですよ。さらに、1950年代初頭にアメリカで「マインド・コントロール」といえば、誰もが当時広く報道されていた、朝鮮の捕虜収容所で起こったとされているアメリカ兵への洗脳を連想したはずです。「夢遊病者としての兵士」。愛国的なアメリカ市民が外国・地球外生物によって変容させられ、操作されるという悪夢。

 ここで思い出して下さい。ロベルト・ヴィーネの「カリガリ博士」"Das Kabinett des Dr.Caligali"(1919年 独)ですよ。ジークフリート・クラカウアーは「カリガリからヒトラーヘ」(1947年)で、この映画を、その後のアドルフ・ヒトラーによる政権掌握とプロパガンダによる大衆操作、そして国民の盲従的なヒトラー崇拝と、第二次世界大戦やユダヤ人迫害をはじめとする国民の破滅的行為への加担を象徴化した作品であると見たわけですが、このクラカウアーの主張は、近年ではほぼ否定されています。ところがハリウッドはまさにこのジークフリート・クラカウアーが「カリガリ博士」に観たものを、新たな映画に焼き直しているんですよ。クラカウアーの著書が1947年でしょ。折りから東西冷戦と赤狩り。クラカウアーの主張とハリウッドの映画にも、同時代性が、たしかにあるんです。

 この、典型的な東西冷戦パラノイア映画において、かつてシンデレラのようなハッピー・エンドの物語や立身出世物語で魅力的な夢想として扱われた「変身」「変容」というモティーフは、一気にnegativeな、個人の人格を屈服させる暗黒の力となってしまったのです。

 そのように、この象徴とか寓意はかなりあからさまなんですが、気付かない人は全然気付かない(笑)現に、この映画の公開当時、批評ではまったくこの点に触れられず、というかほとんど無視されていたようです。にもかかわらず、大がかりな陰謀が企てられていて、それを知った主人公はだれにも信じてもらえないままに、追われる身となる・・・こうした展開はハリウッド映画のひとつの定番になりました。はたして、ここから「陰謀論」が生まれたのか、もともと「陰謀論」の大好きなアメリカ人がここに「陰謀論」を投影したのか・・・いずれにしろ、ジョン・F・ケネディの暗殺から9.11のアメリカ同時多発テロ事件に至るまで、じっさいの事件は常に陰謀論をもって語られるようになり、それが映画化されている。そもそも「陰謀論」流行の発端であった映画館に回帰してきて、意味と形を与えられているというわけです。その意味というのは、世界を巻きこむ壮大な陰謀の前で、個人の存在のいかにも卑小なものであることを示すもの。つまり、いま我々が生活しているのは、じつは何者かによってすべて操作されている全体主義社会そのものなのではないか、という不安です。アメリカ人というのは、なぜかこの不安に酔っている状態を好んでいるのです。だから、こうした陰謀や謀略の展開はスクリーンの定番になって、この“ボディ・スナッチャー”ものも、これまでに都合3回リメイクされています。

 人間が入れ替わる・入れ替わってる、というのは、手塚治虫の「マグマ大使」での人間モドキとか、「ウルトラセブン」第47話「あなたはだぁれ?」にも取り入れられていますよね。替え玉妄想と言えばそれまでなんですが、この替え玉妄想というのは統合失調症の典型的な症状でしょ。だからパラノイア臭もひとしおなんですよ。東西冷戦下とか赤狩りの不安で、なにかが侵略してくるかも知れない、いや、既に侵犯されてしまっているんじゃないか、まわりがみんな組んでいて、自分だけが孤立しているのではないかという、恐ろしい絶望感が描かれている。

 愛する家族や友人が「別人」になってしまった、町の人々が次々と入れ替わってゆき、その異変は周辺の町にも及び、国そのものが乗っ取られようとしている、その危険を訴えても、だれも耳を貸してくれない・・・ここには、東西冷戦及び赤狩り旋風吹き荒れる当時のアメリカの社会不安が投影されていることは間違いありません。だって、そもそもその異変に最初に気づいた人たちは「集団ヒステリー」扱いですからね。



 物語はその「集団ヒステリー」と思われた異変の真相に気づいた開業医べネルの視点で展開されるわけですが、既に、住民の多くが複製人間に取って代わられている状況で、だれを信じていいのか。もはや外部の救援を求めるしかなく、しかしだれひとり、彼の警告に耳を貸すものはいない・・・。

 じつは原作であるジャック・フィニイの「盗まれた街」は読んでいませんが、しかし原作がよくできているのだろうとは想像がつきます。

 なんでも制作費は42万ドル弱、撮影期間は3週間強という低予算ぶり。典型的なB級映画ですがな(笑)これをここまでの傑作に仕上げたのは、監督のドン・シーゲルの手腕でしょう。また脚本も、ダニエル・メインウェアリングと共同で、シーゲルが手がけています。

 1950年代のアメリカのSF映画を観ていると、たいがい説明過多なんですよ。ひどいのになると、主人公のモノローグで状況説明までしてくれる、ある意味親切設計。だからシラケちゃう。ところが、この作品では、説明は必要最小限。どうやら豆のさやみたいなものは宇宙からやって来たらしい、そのさやから生まれた複製人間が宿主の寝ている間に姿形をコピーし、さらに人格や記憶もそのまま移植されるらしい、しかし感情だけは受け継がれない、というか消失してしまう・・・らしい。そもそもその複製人間たちの目的は、それはいちいち説明されていない。そうした説明されていな部分が謎であり、謎は謎のままstoryが展開してゆくので、かえって主人公の視点はリアリティがあるし、観ている側も不安をかきたてられるわけです。

 おまけに、その複製人間たちは、別に人肉を食らうようなゾンビや血に飢えた邪悪なモンスターではないのです。喜怒哀楽の感情がないことを除けば、複製人間も元の人間となんら変わりがない。その言い分は、この世の苦しみも悲しみもすべては感情が原因だから。感情がなくなれば、なにも悩むことはなくなって、平穏な生活を送ることが出来る。君たちもこっち側に来ればわかるよ・・・。なんだか、感情こそが人を人たらしめるものであり、人生を豊かにするのだという主人公の言い分が正しいのかどうか、つい立ち止まって考えてしまいますね。



 この不安というのは、ひとつにはソヴィエトなどの全体主義・社会主義国家への不信感、もうひとつは、当時のアメリカ社会を席巻していた現代の魔女狩り「マッカーシズム旋風」への不安でしょう・・・というかそのように解釈されてきました。じつはそのいずれをも、監督のシーゲルや製作者ウェインジャー、原作者フィニーらは否定しているんですよ・・・たぶん、嘘でしょう。当時のアメリカでマッカーシズムを否定しました、とか揶揄しました、なんて言えるわけがない。百歩譲って、明確な意図がなかったとしても、時代を覆っていた不穏な空気に影響された作品であることは確実だと思われます。

 1950年代のアメリカと言えば、第二次世界大戦後の好景気真っ盛り。ソヴィエトの全体主義への不信感というのは、翻って豊かになった中流階級の白人層が、たとえば新興住宅地で同じような家、同じような服装、同じようなことを考えていかにも平均的な良きアメリカ市民として画一的な社会を築きつつあったことへの不安でもあるのです。ついでに言っておくと、日本でも、10~20年遅れてのことですが、「一億総中流化社会」なんて言われるようになり、総理大臣が「期待される人間像」なんて言い出しています。いまだって、「多様化の時代」なんて調子のいいこと言っていますが、実態は「画一化」を図ろうとしているでしょ。

 閑話休題。みなさんはお気づきでしたか? この物語で最後まで複製人間としての生まれ変わりを拒否して抵抗する主人公ベネルと恋人ベッキーのふたりは、当時の理想的な中流白人社会においては少数派であった、離婚経験者なんですよ。この映画の中では「離婚」ということばは使わず、「リノ経由で来た」という台詞だけで説明されています(台詞では「リノ経由で」「リノ?」「あなたもでしょ」ですが、字幕ではわかりやすく「あなたもそこで離婚手続きをしたのね」と出ます)。リノというのはネヴァダ州の町。ここは1930年代に離婚手続きが簡略化された地で、当時離婚許可の条件が厳しかった全米の各州から離婚希望カップルが押し寄せる「離婚のメッカ」だったんですよ。



 その意味では、世間体なんぞというものよりも真実の愛を追求しようとしたベネルとベッキーは、画一的な道徳観念に支配された当時の中流白人社会の規範から外れた異端者であったわけです。だから、この物語で清濁併せ呑む「人間性」そのものを象徴する存在であり続けようとしたのです。

 なので、本作で描かれる漠然とした恐怖とか不安といったものが、個人の権利や自由よりも、集団の利益を重視する全体主義社会への警戒心に根差していると見てもいいでしょう。その実態が、たとえば醜悪なモンスターに形象化されず、社会、というより隣人や同僚、友人といった世間の変化レベルであらわされているところも、その不安を得体の知れない漠然としたものとして感じさせる効果があるわけです。



 従って、よく言われるように、物語の冒頭と最後に設けられたプロローグとエピローグの存在はいかにも余計でしたね。このstoryは、ひとり町から脱出して半狂乱の状態で警察に保護されたベネルのフラッシュバックとして語られており、最後は彼の話が本当であると悟った警察やFBIが事態解決のため動き出すところで終わる。これ、じつはもともとこの枠部分は存在しなかったところ、配給会社から希望を残すようなエンディングへの変更を指示されて付け加えられたものなんですね。当然のことに、シーゲル監督は強く抵抗したものの、しかし製作者ウェインジャーから「君がやらないならほかのだれかにやらせる」と迫られ、やむを得ずプロローグとエピローグを追加したらしい。ああ、だから制作者が口を出すとロクなことにならないんですよ。



 そうした精神的背景を別としても、映画自体がよくできていて、家族が家族でなくなっている、という感覚はなかなか怖い。その不安から絶望感に至るまでの過程、すなわち妄想と思われたものが現実になってゆく様をとことん描いている。眠るとすり替えられてしまうという設定もユニークだし、廃坑で眠ってしまった恋人が入れ替わっていることに気付くところなど、ショックシーンとして際立っており、storyにメリハリを与えています。



 さらに、莢豌豆みたいなもののなかで粘液質でアブクが出ていて糸を引いている(?)のも、生理的に嫌悪感を催させる。納豆ならいいけど(笑)アブクが出て糸を引くっていうのは腐敗のimageですからね、それがだんだん本人そっくりになっていくという逆転現象も、感覚的に、なんとも異様なものを見せられているという印象を与える効果があります。



(おまけ)



 こちらは「SF / ボディ・スナッチャー」"Invasion of the Body Snatchers"(1978年 米)。ジャック・フィニイの原作小説はこれまでに4度映画化されていますが、上記ドン・シーゲル監督の「ボディ・スナッチャー / 恐怖の街」(1956年 米)が原作発表の翌年に公開された第一作。「SF / ボディ・スナッチャー」は最初のリメイク、つまり2度目の映画化です。おそらくはじめて観たのがこの第二作という人も多いのではないでしょうか。監督はフィリップ・カウフマン。主演はドナルド・サザーランド、脇にジェフ・ゴールドブラム、そしてMr.スポックことレナード・ニモイと、異貌の俳優が勢揃い。また、本作は、第一作へのリスペクトとしてドン・シーゲルやケヴィン・マッカーシーがカメオ出演しています。

 オープニングでは、宇宙の彼方で絶滅する惑星、そしてそこから逃れて、地球に向けて侵略を開始する微生物が描かれており、舞台は、田舎町ではなくて大都市サンフランシスコ。そしてドナルド・サザーランドが演じる主人公ベネルは、医師ではなく、州の公衆衛生官となっています。



 やはり第一作と比較すれば特殊メイクやSFXなどの進歩ぶりは明らか。なかなかのグロテスクぶりです・・・が、決してそれだけの映画ではありません。舞台を大都市に変えたのだって、プロデューサーであるロバート・H・ソロに言わせれば、大都市に暮らす人々は、「お互いに無関心であり、回りの人の小さな変化などに、誰もが気がつかない」から・・・ということは、ここでは行き過ぎた個人主義に対して、疑念を提示しているとも言えるわけです。つまり、この大都市ではかつて人々の間にあったコミュニティが崩壊してしまっているということです。



 ちなみに第三作、アベル・フェラーラ監督による「ボディ・スナッチャーズ」"Body Snacthers"(1993年 米)では、舞台はアメリカ国内の米軍基地に。栽培された莢は軍用トラックで運び出されていくという、田舎町でも大都市でもなく、軍の基地が宇宙種子に乗っ取られていくという設定になっているところが、いかにも社会情勢を象徴しているかのようです。その一方で、主人公は10代の少女。見ようによっては、思春期の不安定な心理が生んだ妄想劇とも解釈できるというわけです。

 第四作は、オリヴァー・ヒルシュビーゲルによる「インベージョン」"The Invasion"(2007年 米)。スペースシャトルの墜落によって、未知の宇宙ウィルスが地球上に降下して、やがて蔓延していくという設定。主人公はジングルマザーの精神科医。ここでは、ウィルスに感染した者が眠りに就くと、起きた時には、別人になっているという仕組み。従って、「莢」は出てきません。ああ、未知のウィルスというのがこれまた現代的ですね。なんだか、新型コロナを予見していたかのようです。

 こうしたさまざまな改変をうけながら、映画化され続けていくというのは、原作であるジャック・フィニイの小説がそれだけの幅広い解釈を受け入れるだけの、「元型」的なものであったということです。


(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。