162 「サスペリア・テルザ 最後の魔女」 "La Terza madre" (2007年 伊・米) ダリオ・アルジェント 前作から27年を経て製作・発表された「魔女三部作」の完結篇。我が国でのキャッチコピーは「三度目の約束です。決してひとりでは見ないで下さい」。 本作の魔女はローマの街に破壊と狂気をもたらすという、なかなかにスケールの大きい物語になっています。もっともその魔力は悪魔で狂気を蔓延させるもので、殺人シーンは切ったり刺したり締めたりと、「普通に」暴力的。たとえば腸で絞殺、目潰しに、股間から口まで串刺しなど。これを「見せ場」と意識した画面造り。そのための残酷描写。良き魔女の血を引くサラ・マンディも姿を消したりする能力はあるんですが、あくまで力技で対抗します。つまり、あまりそこに超自然的なファンタジーは導入していないということ。ジャッロ映画といっても通用する作品です。やはりこれこそがアルジェントの持ち味なのか。 ![]() ![]() 色彩は、もはや「サスペリア」や「インフェルノ」の系譜の上にはなく、普通も普通。だから、あまり美しさは感じないところが「魔女三部作」の完結篇としては、「これでいいのか?」と疑問感じるところです。 あらすじは― 絵画修復の技術を学ぶためにアメリカからローマにやってきた研究生のサラ・マンディは、副館長のジゼルと共に墓地で発掘された壺を調べる内、骨やローブ、短剣などを発見する。それは「涙の母(マーテル・ラクリマルム)」と呼ばれる邪悪な魔女の遺物で、サラたちは世界制覇を企む魔女たちを現代に解き放ってしまう。周囲の人々が魔女たちに殺される中で、サラは亡き母と魔女の三姉妹との因縁を知り・・・。 ![]() なんだか雰囲気の明るい映画です。世界中からローマに集結してきた魔女たちなんて、単なる「ヤンキー」にしか見えないし(笑) ![]() ![]() いや、悪夢的な世界ではあるんですけどね、ある種の超自然的な能力を持ったヒロインが悪に対抗しちゃうというのは、ラヴクラフトのクトゥルー神話がオーガスト・ダーレスのそれになったみたい。ジャッロ映画風味なったのは、ヒロイック・ファンタジーにならないように力技vs力技の展開としたためなのか、やっぱりこれがダリオ・アルジェントの本質なのか・・・。 いずれにせよ、普通の映画なんですよ。それなりにまとまりがよくなっている。つじつまが合わないところとか、これを撮りたかった(見せたかった)んだなという、悪く言えば「浮いた場面」が強烈な印象を残すということがあまりないのも、アルジェント作品としては寂しい気もします。 ラストの魔女集会乱入なんか、首をかしげた人も多いんじゃないでしょうか。さっきまでヌードだった魔女がシャツを奪われて「キャッ」てなもんで、はい、ヤンキーの女子会はこれをもちまして強制終了、ですからね(笑)良き魔女と、もっとも美しく残忍な魔女の闘いがこれだけ・・・って。 ![]() 音楽はクラウディオ・シモネッティ。主演はダリオ・アルジェントの次女アーシア・アルジェント。ダリア・ニコロディがその亡き母役で出演しており、「サスペリア」ではカメオ出演なれど、三部作すべてに姿を見せたことになりますね。完結篇に至って母娘共演を果たしたわけです。また、ウド・キアも神父役で第一作「サスペリア」以来のご出演。 ![]() ![]() (Parsifal) Diskussion Parsifal:さて、今回はHoffmann君に加えてKundryさんとKlingsol君もご参加です。 Kundry:サラ・マンディという名前については、以前、Hoffmannさんもご指摘で、Parsifalさんも映画「華氏451」のときに、「やたらと火が燃えるシーンがあることや、錬金術師があまり必然とも思えない展開で登場するところからも、この名前がサラマンドラからとられたものであることは明らかでしょう」と言われていましたよね。 Hoffmann:いやあ、じつは個人的にはこの作品はまったく評価できない・・・。 Kundry:Hoffmannさんは1980年代以降のアルジェントはダメですか? Hoffmann:普通のドラマだもの。これをダリオ・アルジェントが撮る必要があったのかと思うよ。 Kundry:たしかに、Parsifalさんも前二作に比べて、扱いが小さくなっていますけど(笑)Hoffmannさんはアーシア・アルジェントはいかがですか? Hoffmann:父親似だけど(笑)別に嫌いじゃない。でも、アーシアが出演しているアルジェント作品にはいいものがないんだよ。「トラウマ / 鮮血の叫び」"Trauma"(1993年 伊・米) も、「スタンダール・シンドローム」"La sindrome di Stendhal"(1996年 伊)も。 Klingsol:「魔女三部作」の完結篇ということで、自由な展開が制限されたのかも知れない。アルジェントらしからぬつじつま合わせが施されているような気がする。とくに台詞に。 Hoffmann:アルジェントの自作についての「説明」「解説」って、なんだか後付けの思いつきみたいなところがあるんだけど、この「サスペリア・テルザ 最後の魔女」に至っては、作品そのものが三部作を完結させるため(だけ)の「後付け」に見えるんだな。ダリア・ニコロディやウド・キアを呼んできたのも、「卒業制作」に見えてしまう。 Parsifal:やっぱり、超自然的な能力を持ったヒロインが悪に対抗しちゃうからね(笑) Kundry:「サスペリア」や「インフェルノ」の終わり方とはずいぶん違いますよね。とくに、「インフェルノ」なんてそもそも闘ってはいませんでした。 Parsifal:たしかに、その意味では展開が普通というか、凡庸というか、陳腐かも知れないね。 Kundry:その陳腐さを回避するために、最後の闘いがあっさりしているんでしょうか? Klingsol:それは別な説明ができるかもしれない。すべてが「事後の語り」なんじゃないか。これはちょっと説明が必要で、我々が見ているドラマというのは、大抵の場合はリアルタイムで進行しているよね。ところが、そこにトラウマだとか精神分析だとかいった要素を放り込んでしまうと、その物語はあらかじめ用意された「過去」を「再話」するものになってしまう。その「再話」はなかなかに劇的な様相を帯びたプロセスとして描き出されることになる。ここで「劇的」というのは、あくまで登場人物の内面のこと。そこで登場人物がさまざまな体験をするうちに、その主体の内面は変容していく。しかし、それはあくまで「再話」。だから、そのあとに事件が起きても―というのは、「サスペリア」にしても「インフェルノ」にしても、「サスペリア・テルザ 最後の魔女」にしても、ラストの主人公の闘いのシーンはとても短い。あっという間に決着がつく。なぜか。じっさいの行為はもうそれまでに終わってしまっているから、ここはさっさと処理してしまって、それでいいわけだ。ダリオ・アルジェントが展開するドラマは、主人公の私的な、これまで歩んできた道のりの「再話」がすべてなんだよ。つまり、いったん出現してしまったものは、常に、既に、存在していたことになり、そこで語られることは、その発生についての神話なんだな。 ![]() Hoffmann:行動らしい行動は欠如していると・・・すると、ここでのサラ・マンディにしても、「サスペリア」のスージーにしても、その闘いは空虚な身振りというわけか。「インフェルノ」に至ってはもはや闘ってもいないし。 Klingsol:象徴的な性質を持つ、身体的欲動を排除した身振りだね。あえて言えば魔女に対する「否定」の身振りだ。「否認」と言った方がいいかな。 Parsifal:そう考えると、ダリオ・アルジェントの映画が自己言及的であることにも納得ができるね。 Kundry:そうなると、「インフェルノ」では魔女=死神が鏡の中から現れるのも納得できそうです。 参考文献 「恐怖 ダリオ・アルジェント自伝」 ダリオ・アルジェント 野村雅夫、柴田幹太訳 フィルムアート社 |