138 「カルパチアの城」 ジュール・ヴェルヌ 安東次男訳 集英社文庫 これは1892年に刊行されたジュール・ヴェルヌの作品です。"Wikipedia"にはこんなことが書いてあります― 『カルパチアの城』(カルパチアのしろ、原題:仏: Le Chateau des Carpathes )は、1892年に刊行されたジュール・ヴェルヌの怪奇小説、ゴシック小説。 概要 トランシルヴァニアを舞台にしており、徐々に読者を怪奇の渦に巻き込んでいく筋立ては、老練なヴェルヌの真骨頂とも言える。登場人物の恋愛に関しては他の作品とは異なり、詳しく描かれる。 うーん、たしかにゴシック小説の舞台設定で展開されるstoryには怪奇味があるんですけどね、しかし怪奇小説とは言えないんじゃないかなあ。冒険ものが、神話・伝説の類いにおける超自然や魔法が科学に置き換えられているように、この小説でもその不思議な出来事は、科学(の発明品)で説明されています。 Jules Verneの墓 storyは― トランシルヴァニアのロドルフ・ド・ゴルツ男爵はイタリアの歌姫ラ・スティラの美貌と美声に心を奪われ、魔法としか思えないような機械で、城にいながら、ラ・スティラの美貌と美声をとらえた。ラ・スティラは若くして舞台で死に、ゴルツ男爵は密林に囲まれたカルパチア城にこもりきりになる。 ロドルフの恋敵であった若きフランツ・ド・テレクはゴルツ男爵の行動を怪しむ。土地の百姓は、密林の奥から声が聞こえ、光がちらつくのが見える、あの城には幽霊が住んでいるに違いない、という。フランツが耳をすませると、城から流れ出る声はラ・スティラの歌声であった。望遠鏡で眺めると、ラ・スティラの姿が見えて、フランツはゴルツ男爵が催眠術でラ・スティラを昏睡状態にして監禁しているに違いなとにらむ。 そこでフランツは城に忍び込んで、明るい照明に照らされた舞台の上で歌を歌っているラ・スティラに飛びかかる。すると、それは動く鏡に反射する像でしかなく、歌声はその背後におかれた金属の箱から出ていたものだった・・・。 原書の扉絵 つまり、蓄音機と映写機、あるいはテレヴィジョンですね。 これまで、潜水艦やロケットはともかくとしても、テレヴィジョンに至っては、当時だれも想像(空想)できるものではなかったであろうと、批評家の間でも別格扱いされている作品です。 しかし、そうでしょうか。 音声に関しては、その記録法に関する学説は19世紀にはいくつも現れています。もっとも有名なのはエドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルという長い名前の人が考案した「フォノトグラフ」Phonautographと、御存知トーマス・アルヴァ・エジソンが開発した「フォノグラフ」Phonographです。レオン・スコットが紙に塗布した油煙墨に豚の毛で音声を波形として記録することに成功したのが1857年。これは再生を想定していませんでしたが、エジソンが録音と再生を目的とした「フォノグラフ」を開発したのは1877年です。小説の発表よりも15年も前。 映像についてはどうでしょうか。これはParsifal君がお話しした「ファンタスマゴリア 光学と幻想文学」に出てきたファンタスマゴリア"Phantasmagoria"に起源を求めることができるでしょう。ファンタスマゴリアは18世紀の末、1798年にベルギー生まれのロバートソン、本名エティエンヌ=ガスパール・ロベールが、アタナシウス・キルヒャーの幻燈器に改良を加えた光学器械のこと。そのアタナシウス・キルヒャーの幻燈"Laterna Magika"にまで遡れば17世紀ですよ。19世紀末の数十年に至ると劇場でのファンタスマゴリアが精巧になっていくのと軌を一にして、家庭用幻燈器が普及しはじめていますから、まったくの「絵空事」でもなかったんじゃないでしょうか。ちなみにParsifal君がお話ししていたように、かつては"Phantasmagoria"ということばは、幻想や埒もない絵空事、玄妙怪奇な幻を指すことばとして使われていたので、「ファンタスマゴリアが絵空事ではない」というのは、パラドックスみたいな面白い言い回しですね(笑) とはいえ、トランシルヴァニアの密林に囲まれた古城が舞台です。トランシルヴァニアといえば「吸血鬼ドラキュラ」を思い出しますよね。たしかにゴシック小説の道具立て。怪奇ムードを高めておいて、ラストの仕掛けで一切合切を合理的に説明してしまうことがいいか悪いかという問題ではありません。そこはそれ、ヴェルヌなんですから。 はてさて、それではこの小説で、そのような「元型」めいた舞台装置のなかにあらわれるラ・スティラの歌声や実体を伴わぬ映像はなんなのか。 勘のいい方はもうお気づきでしょう、ラ・スティラの歌声はセイレーンの歌なんですよ。 セイレーン、御存知ですよね。ギリシア神話に登場する海の怪物です。もともとは上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされていましたが、中世あたりになると下半身が魚の姿になります。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、難破させるアレです。 古くはホメーロス(ホーマー)の「オデュッセイア」に登場して、オデュッセウスはその歌を聞きたくて、船員には蜜蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じています。アポロニオスの「アルゴナウティカ」ではイアソン一行の乗ったアルゴ船がセイレーンの岩礁に近づくと、乗組員オルペウスがリラをかき鳴らして歌を打ち消しています。ちなみにコーヒーチェーン店、スターバックスのロゴマークに描かれているのもセイレーンですよ。 ヴェルヌの小説では、人工物としてのセイレーンです。だからフランツ・ド・テレクは最後に正気を失ってしまう(その後回復する)。女性、女性の声、人工的なもの。意外に思われるかも知れませんが、西洋思想においては、男性的なものは精神や観念といった表象不可能なものと結びつき、女性的なものは物質性と結びつきます。つまり女性性は加工可能な人工物なんですね。ちなみに女性がお化粧するのも、その人造的技巧性により「誘惑」をするためです。人工的。だからE・T・A・ホフマンの「砂男」の歌う自動人形オリンピアも、ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」も、映画の「メトロポリス」でも、最初に作られたロボットは女性なんですよ。技術革新の時代を経て、いまや人工物は芸術的な、崇高なものにとって換わることさえ可能なものとなるのです。もちろん、そこにおいては、新たな物質崇拝と非人間的近代性への恐怖と不安の、いずれの感情もが呼び起こされる。 以前、これもParsifal君がお話しした「魔の眼に魅されて メスメリズムと文学の研究」は視線を扱っていましたが、ここでは音声、声です。先に述べたセイレーン神話の異本には、その歌声が愛する女の声を完璧に真似るというものもあります。つまり誘惑の声。声は聴覚的fetishismの一番槍です。とりわけオペラ歌手の声はfetishなものとされています。その意味では、ジャン・コクトーが書いた戯曲をオペラ化したプーランクの歌劇「人間の声」は、まさにうってつけの題材であったと申せましょう。ましてや、たったひとりの登場人物は電話で、別れた恋人の声を聞いているのですから。 同時に、女性の声は人間が胎児であった時分に最初に聞いたであろう母の声の記憶を呼び起こす。しかも、その声は歌なので、言語の意味内容よりも言語習得以前の身体的律動に結びつく。ほら、ピンク・フロイドの「狂気」も心臓の鼓動ではじまるじゃないですか。母親の身体との関係は言語獲得とともに抑圧されていたところ、声という物質的な支えによって、回帰するのです。 オペラ歌手というと、このころ女性歌手が歌っていた役は、少し前まではカストラートの領分でした。つまり性を持たない声。極端な言い方をすれば、非人間的な声です。それが女性歌手が歌うようになって、オペラにおける女性の役柄は飛躍的に重要なものとなって、またより高い音域まで要求される(できる)ようになった。オペラにおける女性歌手はカストラートの後継であるという「伝統」を背負いながら、ロマン主義は女性歌手をを天使の化身として確立させたわけです。すなわち人間ならざる性を持たない天使(の声)です。 この人工性の「完璧」である理由は両性具有的存在であるということです。性を超えていると言ってもいい。しかし、それは現実のものではない。ピグマリオンなら彫像に過ぎないし、この小説中のステラは映像・・・というより「影像」でしかありませんでした。19世紀末の象徴派と呼ばれる画家たちが、好んで冷ややかで無表情な女性を描いたのも、この人工性という観念を求めたからです。 その身体なき声、この世のものならぬ声、その背後にあるテクノロジーへの関心と、ある種の女性蔑視は、同じフランス文学では後のヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」において人造美女に表象させているんですが、ジュール・ヴェルヌは神話・伝説の「元型」に従っており、それ以上の深い意味や逆説が、この物語に込められてはいません。だからこそ、より解釈の幅が広がるのも事実です。 私が所有しているジュール・ヴェルヌの翻訳本 自分の整理のために、リストを作っておこうと思います。ただし、明治11年、13年の川島忠之助訳による「新説八十日間世界一周」とか持っているわけじゃないですよ(実物を手に取って見たことはあります)。 集英社コンパクトブックス ヴェルヌ全集 全24巻 1 「八十日間世界一周」 田辺貞之助訳 1967年7月25日 2 「海底二万里」 江口清訳 1967年8月25日 3 「征服者ロビュール」 手塚伸一訳 1967年9月25日 4 「皇帝の密使」 新庄嘉章訳 1967年10月25日 5 「二年間のバカンス」 横塚光雄訳 1967年11月25日 6 「カルパチアの城」 安東次男訳 1967年12月25日 7 「気球に乗って五週間」 手塚伸一訳 1968年1月25日 8 「地底の冒険」 川村克己訳 1968年2月25日 9 「月世界旅行」 鈴木力衛訳 1968年3月25日 10 「悪魔の発明」 江口清訳 1968年4月25日 11 「シナ人の苦悶」 石川湧訳 1968年5月25日 12 「インド王妃の遺産」 中村真一郎訳 1968年6月25日 13 「アドリア海の復讐」〈 I 〉 金子博訳 1968年7月25日 14 「アドリア海の復讐」〈 II 〉 金子博訳 1968年7月25日 15 「月世界探検」 高木進訳 1968年8月25日 16 「動く海上都市」 三輪秀彦訳 1968年9月25日 17 「グラント船長の子供たち」〈 I 〉 大久保和郎訳 1968年10月25日 18 「グラント船長の子供たち」〈 II 〉 大久保和郎訳 1968年11月25日 19 「黒いダイヤモンド」 新庄嘉章訳 1968年12月25日 20 「ジャンガダ」 安東次男訳 1969年1月25日 21 「神秘の島」〈 I 〉 手塚伸一訳 1969年2月25日 22 「神秘の島」〈 II 〉 手塚伸一訳 1969年3月25日 23 「砂漠の秘密都市」 石川湧訳 1969年4月25日 24 「ドクター・オクス」短篇集 古屋健三訳 1969年5月25日 ※ 収録作は「ドクター・オクス」「ザカリウス師」「ラトン一家の冒険」「永遠のアダム」 新書版。いまはノベルス版というのかな。もっともまとまっているのはこのシリーズ。20~30年前には結構な古書価でしたが、いまは多少落ち着いているようです。 創元推理文庫 「サハラ砂漠の秘密」 石川湧訳 1977年3月24日 「必死の逃亡者」 石川湧訳 1972年6月23日 「八十日間世界一周」 田辺貞之助訳 1976年3月19日 「海底二万里」 荒川浩充訳 1977年4月22日 「動く人工島」 三輪秀彦訳 1978年2月10日 言うことが古くて申し訳ないが、上記5冊は「帆船」マーク。 「月世界へ行く」 江口清訳 1964年10月23日 「地底旅行」 窪田般彌訳 1968年11月29日 「悪魔の発明」 鈴木豊訳 1970年8月7日 「オクス博士の幻想」 窪田般彌訳 1970年11月13日 ※ 収録作は「オクス博士の幻想」「ザカリウス親方」「氷のなかの冬ごもり」 この4冊は同じく創元推理文庫の「SF」マーク。 「八十日間世界一周」「海底二万里」などの有名作は常に在庫されていたようですが、それ以外はしばしば品切れに。しかし何度か復刊もされていたようなので、その機会に入手した人もいるんじゃないでしょうか。 中公文庫 「南十字星」 曽根元吉訳 1973年10月10日 中公文庫から出たヴェルヌはこの1冊のみ。 集英社文庫 「海底二万里」 江口清訳 1993年5月25日 「チャンセラー号の筏」 榊原晃三訳 1993年5月25日 本邦初訳 「アドリア海の復讐」上 金子博訳 1993年7月25日 「アドリア海の復讐」下 金子博訳 1993年7月25日 「征服者ロビュール」 手塚伸一訳 1993年7月25日 「二年間のバカンス 十五少年漂流記」 横塚光雄訳 1993年9月25日 「カルパチアの城」 安藤次男訳 1993年9月25日 「気球に乗って五週間」 手塚伸一訳 1993年11月25日 「インド王妃の遺産」 中村真一郎訳 1993年11月25日 「氷のスフィンクス」 古田幸男訳 1994年1月25日 本邦初訳か? 「世界の支配者」 榊原晃三訳 1994年1月25日 本邦初訳 「ミステリアス・アイランド 神秘の島」上 手塚伸一訳 1996年6月25日 「ミステリアス・アイランド 神秘の島」下 手塚伸一訳 1996年6月25日 集英社文庫は、1993年に初訳3巻に加えて、上記「ヴェルヌ全集」から10巻の復刊を加えて計13巻出しています。全部出すものと思って期待していたのですが、13冊で終わったのは残念。「征服者ロビュール」と「気球に乗って五週間」、「ミステリアス・アイランド 神秘の島」上下は、「訳者あとがき」によれば「手を加えることができた」「見直すことができた」とのこと。文庫化の際に翻訳を見直した手塚伸一氏は偉い。立派。 インスクリプト ジュール・ヴェルヌ〈 驚異の旅 〉コレクション 全5巻 I 「ハテラス船長公開と冒険」 荒原邦博訳 2021年6月30日 II 「地球から月へ」「月を回って」「上も下もなく」 石橋正孝訳 2017年1月20日 III 「エクトール・セルヴァダック」 石橋正孝訳 2023年4月20日 IV 「蒸気で動く家」 荒原邦博、三枝大修訳 2017年8月21日 V 「カルパチアの城」「ヴィルヘルム・シュトーリッツの秘密」 新島進訳 2018年10月31日 少々値段はお高いのですが、立派な本です。ただし訳文に関してはさほど「立派」ではありません。 交遊社 「永遠のアダム」 江口清訳 2013年6月1日 「ジャンガダ」 安東次男訳 2013年8月1日 「黒いダイヤモンド」 新庄嘉章訳 2014年1月1日 「緑の光線」 中村三郎・小高美保訳 2014年8月1日 その他 「二十世紀のパリ」 榊原晃三訳 集英社 1995年3月20日 ※ 「ジュール・ヴェルヌ新発見作品」 「地軸変動計画」 榊原晃三訳 ジャストシステム 1996年5月20日 ※ 「地軸変動計画」は「上もなく下もなく」の翻訳。「西暦二八八九年・アメリカの新聞王の一日」を併録。 「地軸変動計画」は上記「二十世紀のパリ」と判型が同じで装幀もよく似ているので、いまのいままで集英社から出たものだとばかり思っていました(笑) 「名を捨てた家族 1837-38年ケベックの叛乱」 大矢タカヤス訳 彩流社 2016年10月15日 ポツンとこういう本が刊行されることがあるので、見落とさないように日頃からアンテナを張っておかなければならんのよ(笑) 「グラント船長の子供たち」〈 上 〉 大久保和郎訳 復刊ドットコム 2004年7月10日 「グラント船長の子供たち」〈 下 〉 大久保和郎訳 復刊ドットコム 2004年7月10日 (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「カルパチアの城」 ジュール・ヴェルヌ 安東次男訳 集英社文庫 「ジュール・ヴェルヌの世紀 科学・冒険・《驚異の旅》」 私市保彦監訳 新島進・石橋正孝訳 ミシェル・セール序文 東洋書林 「機械仕掛けの歌姫 19世紀フランスにおける女性・声・人造性」 フェリシア・ミラー・フランク 大串尚代訳 東洋書林 Diskussion Hoffmann:蓄音機はその人間の声を肉体から引き離す機械だからね。同時に消え去った過去の時代を再現させるタイム・マシンでもある。ということは、これはもう、プルーストの喚起―過去の記憶を甦らせる、紅茶に浸したマドレーヌや教会の尖塔の役割を果たすものだと言ってもいいんじゃないか。そして死を追放するもの。時間と死(不在)を出し抜く機械・・・。 Parsifal:人工性に関して言うと、そのはしりはボードレールあたりじゃないかな。ボードレールに言わせれば、その身に付ける装飾品はみんなその女性の一部だということになるんだから。ここでも女性は人工的な創造物なんだよ。まあ、時代が時代なのでその根底に女性蔑視が潜んでいるのは仕方がないかな。そもそも、聖書だって、女性(イヴ)はアダムの肋骨によって、後から作られている。 Kundry:それに、この小説には「八十日間世界一周」をはじめとする冒険ものに必ず登場するヒーローがいません。ヴェルヌの作品群にみられるもうひとつの系譜。ヴェルヌも晩年に近くなると超人が登場しなくなるんですよ。 Klingsol:ヴェルヌは晩年に至って、ユートピア思想が影を潜めて、やや厭世主義的になっているんだよ。 |