175 「宦官物語 男を失った男たち」 寺尾善雄 河出文庫




 以前、「纏足物語」を取り上げた流れで、今回は「宦官物語」です。いやはや、中国史を繙くと、いろいろ奇々怪々な習俗が・・・と言いたいところですが、宦官は中国の特産物ではありません。古くはエジプト、ギリシア、ローマ、トルコ、朝鮮と、我が国を除くアジア全域から地中海にわたって存在していたものです。

 去勢・宦官については、Hoffmann君がドミニク・フェルナンデスの「ポルポリーノ」を取り上げたときに、次のように語っています―

 去勢の風習自体は旧約聖書にもその記述が見られることから、古くから存在していたことは間違いないものの、たしかな起源は分かっていません。

 ヘロドトスは宦官をペルシア人の風習だと言っていますが、じっさいはエジプト、ギリシア、ローマ、トルコから東は中国、朝鮮まで、すなわち地中海からアジア全域にわたって存在していたようです。その起源は東洋の宗教祭祀だったという説もありますが、刑罰として実施されていた時期・地域もあります。エジプトやペルシアでは密通、不義、強姦、盗みなどをした者に刑罰として行われており、イギリスやアルバニアでも強盗、貨幣偽造者などが去勢されたという例があります。


 しかし、なかでも特異な発達を遂げて、辛亥革命以前の中国史を裏で動かし、漢・唐・明を衰亡させた要因であるとまでされている宦官(制度)が見られるのは中国をおいてほかにありません。そう、中国史を通観すると、宦官の政治関与が見られない王朝は皆無なのです。宦官はかつての暗黒専制王国の産物であり、君主権の終身的な奴隷。そのなかで、ほんの一握りの宦官は支配階層の一員にまで這い上がり、悪逆横暴の限りを尽くしていた・・・己の権勢欲と物欲を満たすために殺し合い、歴史に汚点を残して、おかげでいまも宦官の悪評はよく知られているところ。

 この支配階層の一員というのは、つまりトップの身辺にいる側近、取り巻き、顧問・相談役であり、トップと心安い、昵懇の関係にある立場のこと。つまり側近政治の黒幕。トップが暗愚であればこれぞチャンス、阿諛追従や讒言でやりたい放題。君主というものはそのように、表面上は尊敬しているように見せかけながら、暗愚に仕立て上げ、自分の存在を高めるための道具に使うものだと内心軽蔑していたのが、宦官の君主観であったわけです。

 今や宦官は、皇帝を背後から操って権勢を握り、その恩恵は九族にまで及んでいる。これを見て愚民は、争って自分の子や孫を去勢して宦官にし、富貴を夢見ている。一つの村で数百人を数える所もあるほどで、いくら禁止しても、一向に改まらない。

 これは明の中期に出た「皇明実録」という、自宮についての公式記録。公式記録でこれですからね、実情は推して知るべし。

 なので、よく知られている、刑罰としての宦官、たとえば司馬遷の例が宦官の代表ではありません。宦官=去勢は刑罰としてのみ行われていたわけではないのです。中国におけるその来歴は、この本によれば大きく分けて五通り―

1 貧乏人が生活に困り、子供を宮廷に送り込んで、将来、少しでもよい目を見せてやろうとする場合。

2 悪い奴が他人の子供をかどわかし、宦官製造専門家(畢五、小刀劉が有名)の両家に連れて行き、身代金をせしめようとする場合。

3 上記畢、劉の両家が貧乏人に対して、子供を宦官にすれば、子供は楽が出来るとことば巧みに言いくるめて去勢に同意させる場合。

4 重罪を犯し、“浄身”することによって刑罰を免れる場合。司馬遷はこれですね。

5 自宮、すなわち富貴に憧れ、楽な生活をしたくて自ら去勢した宦官志望者。これは明代、清朝末期に多く、この時代の中国宦官の研究者、イギリス人ステントの報告にも実例が挙げられています。

 おわかりですか? 宦官というのは私利私欲を満たすための手っ取り早い手段のひとつだったのです。

 唐代、宦官の供給地は人身売買もさかんだった福建、広東、広西などの華南の地。文化的に遅れており、北方への奴隷の供給地でもあったところ。加えて、アラビア商人が数多く訪れていた。アラビアというのは中国と並ぶ宦官使用民族なんですよ。唐代末期に建てられたのが南漢。この国の始祖は南海貿易の商人で、その子孫の国王が宦官を重用して、国政のすべてを宦官に任せていた。なんでも小国にもかかわらず、宦官が2万人もいたんだとか。もう、宦官王国。だから下層庶民も己の才覚によって下積みから這い上がろうと、宦官を志願したわけです。

 そしてこの本には、実在した宦官、その悪徳ぶりの数々が紹介されています。内容が内容なので、少々下世話な話題と見えるのは仕方がありません。具体的が悪逆非道ぶりはそれぞれに読んでみていただくこととして、ここではその末路について―。

 ごく一部の宦官が権勢を誇ったところで、昵懇の間柄であるはずの権力者に疎まれる事態となれば命運もそこまで。また、当の権力者が逝去・失脚すればそれまで。そうでなくても、晩年、勤務に耐えなくなれば宮廷から追われることになるわけです。しかしもはや一般社会で生き延びる能力は皆無。安住の地はなく、寺廟を安身養命の場所とするほかはありませんでした。それというのも、社会や家族が宦官を蔑視して、嫌ったから。いったん宦官となれば、もはや親族からは一族の者とは認められず、死んでも一族の墓所に葬られることはなかったのです。社会においても、宦官は男でも女でもない下賤の者と軽蔑される存在。

 そのため、宦官は金を貯め、財産を作ることに熱心だったのです。宅地を買い入れ、仏教や道教の師を拝して弟子となり、寺廟を修建して晩年に備えた。権勢のあった宦官のなかには、宮廷引退後、道士か僧侶の身分で政府の要人に接近し得た者もあったようですが、一方で、貧乏な宦官は寺廟に入ることもできずに異郷をさまよい、乞食をしながら野垂れ死ぬ運命・・・。

 宦官制度が廃止されたのは1922年(民国12年)7月16日。これは宮廷内の問題に留まらず、北京中に大騒ぎを起こす一大事件。きっかけは建福宮の大火が宦官の放火であると疑われたこと、イギリス人の宣統廃帝への助言など、いくつかありました。またその遠因として、当時有力な宦官が宮廷規則を犯して、宮廷内に阿片吸飲所と賭博場を設立して、しかもそこで口論から大騒ぎを演じたこともあったようです。いや、大多数の宦官は貧乏でしたからね、賭博をやって阿片をやるとなると金がない、そこで宮物を盗んで売り飛ばすなどしていたんですよ。そうして大多数の宦官は追放・・・大多数というのは、皇后や妃嬪が身の回りの世話をしてくれる宦官がいないと困るというので、結構残したから。それでも追放されたのは700余人。もちろん、宦官なんて人間扱いする必要がない、どうとでも処分できる奴隷としか見ていなかったということです。


 さて、この本では悪逆非道を尽くした宦官が紹介されていますが、だからといって宦官すべてが悪人というわけでもありません。いつの世の中だって、どんな身分・出自の人間も、可もなければ不可もない、平々凡々たる人生を送っているのが大多数です。だから宦官のすべてが悪人というわけではないのですが、その制度が暗黒政治の暗黒部分を助長した。

 先ほど、「トップが暗愚であればこれぞチャンス、阿諛追従や讒言でやりたい放題」と言いましたね・・・あれ、現代でもいますよね、そういう輩。人間集団としての宦官はいなくなっても、宦官的な存在は現代にも生きているということです。トップに立つ者は余程自らを律していないと、臣下に付け入られ、ゴマすり、そそのかしでいいように利用されてしまうんですよ。もう一度同じことを繰り返しますが、君主という者に対しては、表面上は尊敬しているように見せかけながら、暗愚に仕立て上げ、自分の存在を高めるための道具に使うものだと内心軽蔑している・・・私の所属していた組織にも、いましたよ。そういう奴が「世渡りが上手い」なんて言われて、ほとんどサイコパス的に自らの利益のためなら組織そのものを食い潰すことにもためらいはないから、じつは暗愚なトップよりもさらにたちが悪いのです。個人的には、天下りの官僚が典型的な例。いずれまたどこかに転出するであろう当人にしてみれば、天下った組織なんて、潰れようがなくなろうが、痛くもかゆくもありませんからね。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「宦官物語 男を失った男たち」 寺尾善雄 河出文庫




Diskussion

Parsifal:官僚は天下り先を食い物にしているって言われるけど、末端の、ほとんど奴隷扱いされている官僚だっているよね・・・って、なるほど、中国の宦官と同じだ。

Kundry:以前、Hoffmannさんがおっしゃっていたことを思い出しました―

 もしもあなたが、会社勤めでもなんでもいい、どこかの組織・グループに所属しているのなら、あなたの部下や助手で本当に役に立つ人材は、あなたが言われて耳が痛くなるような進言をしてくれる部下や助手なのです。上司や先輩の言うことだからと、疑問を持っても口に出さずに従っているような人間や、ましてやご機嫌取りなど、あなたにとってはなんの役にも立たない、不要な人材、害のある人材だと知るべきなのです。


Klingsol:小澤征爾の有名なN響事件でも同じことだね。一般人ですら足下をすくわれる危険があるんだから、皇帝ともなると、自分を律することなんか、余程でないと・・・。

Parsifal:ヒトラーやルートヴィヒII世と同じだよ。自我が肥大化するにまかせられる、そんな絶大な権力を得た立場だから。

Hoffmann:宦官というか、去勢に関しては、両性具有という観念的なものに関心がある。だからカストラート歌手なんて興味深い存在なんだ。中国の宦官について読むと、賄賂とコネがものを言うきわめて中国的な制度だと感じられるし、さらに中国という国家を超えて、いかにもいまも宦官的な者は生きていると思えるんだよ。案外とactualなテーマなんだな。

Kundry:観念に傾くのはHoffmannさんらしいですね。でも、ヘリオガバルスなども見逃せませんよ。あれはちょっと性同一障害かもしれませんが・・・。

Hoffmann:むしろ、ワーグナーの楽劇「ラインの黄金」で、愛を断念してして権力を得るアルベリヒを思い出すね。それと、舞台神聖祝典劇「パルジファル」のクリングゾルだ。

Klingsol:それは同感なんだけど、HNの都合上、ふれにくかったんだよ(笑)自分だけじゃない、Parsifal君とKundryさんまで巻きこんでしまう。そのあたり、まさに観念的な考察をHoffmann君に期待したい。