104 「地獄に堕ちた勇者ども」 "La caduta degli dei" (1969年 伊・独・瑞) ルキノ・ヴィスコンティ




 「地獄に堕ちた勇者ども」 、オリジナル題名は英語では"The Damned"(Goetterdaemmerung)、イタリア語吹替え版は"La caduta degli dei"(Goetterdaemmerung)、ドイツ語吹き替え版"Die Verdammten"(Gotterdaemmerung)と、副題にリヒャルト・ワーグナーの楽劇「神々の黄昏」"Goetterdaemmerung"付記されています。


鉄鋼・・・これはワーグナーの楽劇に登場するニーベルング族を連想させますね。ちなみにこの映画を絶賛した三島由紀夫の「豊穣の海」四部作もまた、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」を連想させる、というよりほとんど下敷きにしているように思えます。

 あらすじは―

 1933年、ナチス台頭の時代。ルール地方に巨大な権勢を誇る、製鉄王ヨアヒム・フォン・エッセンベック男爵一族。総支配人フリードリッヒは、男爵の子息の未亡人ソフィと愛人関係にあり、息子マーティンをおとりに男爵の地位を狙っている。この一族にはほかに姪の娘エリザベートと自由主義者の夫ヘルベルト、社主を狙うナチ突撃隊の幹部でもある甥のコンスタンチン男爵とその息子ギュンターなどがいる。

 また一族の陰では、エッセンベック男爵の従兄であり、ナチ親衛隊の幹部アシェンバッハが暗躍している。ナチスの国会焼打ちの日。フリードリッヒは、アシェンバッハの命令で計画を実行した。老ヨアヒム男爵は血に染まって倒れ罪は国外へ逃亡したヘルベルトに被せられた。やがて遺言によりマーチンが相続人となったが、実権はフリードリッヒとソフィにあった。これに激怒したコンスタンチンは、ソフィとマーチンを脅迫したが、「長いナイフの夜」の日、コンスタンチンを含む突撃隊員は親衛隊によって全員射殺された。

 アシェンバッハの魔手はフリードリッヒとソフィに向けられた。まず母への異常な愛憎に苦しむマーチンを巧みに利用して、コンスタンチンの息子、純粋なギュンターをナチ党員に引き入れた。そんな時に、逃亡していたヘルベルトが戻り、妻と娘をダッハウの強制収容所に引き渡したフリードリッヒとソフィを激しく非難。じつはこれも、アシェンバッハの指金。

 親衛隊の黒制服を身につけたマーティンは、権力を奪われたフリードリッヒと、母ソフィの結婚式をあげるが、これは娼婦などを狩り集めた狂宴。マーティンはふたりの前に毒入りカプセルを置く・・・。


服装倒錯の男性が女装するのは、「恐ろしい母」―やさしくもあるが息子の独立心をくじいて我が身から手放そうとしない、息子から男らしさを奪う脅迫的な力を持つ母親と、同一化しようとする心理によるもの。それによって去勢不安を克服しようとするわけです。マーティンの一連の行動はまさにそうしたものの例と言えるでしょう。ちなみにヘルムート・バーガーのもとには、この映画を観たマレーネ・ディートリヒから、その歌いぶりを絶賛する手紙が届いたそうです。たしかに、上手い。

 ナチス・ドイツと頽廃・・・などと言ったら、「なにをいまさら」というカオをする人は少なくないでしょう。

 ナチス・ドイツはワイマール共和政時代の「頽廃」と「堕落」を断罪しました。また、政権にとって好ましからざる芸術を「頽廃芸術」と呼んでいます。「頽廃」Entartungということばに肯定的な意味などありません。「頽廃」は病的なもの。支配者たるべきアーリア人種(という実体のない虚像)をたぶらかそうとする劣等人種の陰謀。ナチス・ドイツが好み、ドイツの芸術と呼ぶものは「わかりやすい」「健康的な」芸術。表現主義なんぞ、見る者の精神を損なうことを目的とした歪んだ欠陥品。


音楽の使い方―左はマーティンが安アパートの隣室で折檻されているユダヤの少女の叫び声を聞くまいとしてラジオのスイッチを入れたところ、ブルックナーの交響曲第8番のファンファーレが悠然と鳴り響く場面(壁に掛かっている絵にもご注目)。右はコンスタンチン・フォン・エッセンベックが突撃隊の乱痴気騒ぎで「トリスタンとイゾルデ」イゾルデ愛の死を高らかに歌い上げる場面。いずれもヴィスコンティの音楽への趣味と嗜好、そしてその残酷で洗練された扱いが見事です。ちなみにマーティンとユダヤ人少女の挿話は、「スタヴローギンの告白」を連想させます。

 にもかかわらず、なぜナチス=頽廃という図式が現代人の共通認識の如く刷り込まれることとなったのか。

 そのひとつのきっかけが、ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」"La caduta degli dei"(1969年 伊・独・瑞)だったのではないでしょうか。プロイセンの鉄鋼王の一家を舞台に、ナチスの台頭からはじまって、「長いナイフの夜」を頂点に描いたこの作品、女装ショーから少女レイプに同性愛の大乱交、近親相姦と、「頽廃」現象が目白押し。当時この作品は公開されるや一大センセーションを巻き起こし、ヴィスコンティは釈明に追われることとなります・・・ということは、当時のジャーナリズムには、ナチスと頽廃を結びつける発想が未だなかったということなんじゃないでしょうか。

 だから、これに続いて1974年に同じイタリアのリリアーナ・カヴァーニが「愛の嵐」"Il Portiere di notte"(1974年 伊)を公開したときには、やっぱり大騒ぎにはなったものの、一応道はできていて、この基盤をより強化する映画となったのです。

 参考までにイタリアのファシスト党を素材にしたのはさらに2年ほど後の公開である、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「ソドムの市」"Salo o le 120 giornate di Sodoma"(1976年 伊・仏)です。これはまた特異な映画ですが、一面、ヴィスコンティ、カヴァーニの系譜に連なるものでもあることをお忘れなく。


「長いナイフの夜」前夜の、突撃隊の乱痴気騒ぎ。右は誰からともなくナチス党歌「旗を高く掲げよ」”Die Fahne hoch!"、別名「ホルスト・ヴェッセルの歌」"Horst-Wessel-Lied"の合唱になったところ。さらに騒ぎと歌は続いて、上記の「イゾルデ愛の死」に至るわけです。「頽廃」を描くヴィスコンティの手腕。

 「地獄墜ちた勇者ども」に話を戻します。というか、ナチスがなぜ頽廃的に描かれるようになったかという話―。

 ナチス・ドイツの「頽廃」の根源は、そのキッチュ性に求めることもできると思いますが、もっと、わりあい単純に説明できるような気がします。

 ヘルムート・バーガー扮するマーティンが女装して「嘆きの天使」のローラ、すなわちマレーネ・ディートリヒを歌いますよね。「愛の嵐」でも、シャーロット・ランプリングが上半身裸サスペンダーで、ディートリヒ1931年のヒット曲「望みはなにかと訊かれたら」を歌っています。1930年の映画「嘆きの天使」も、ここ1931年のヒット曲も、ナチスによる政権獲得前のワイマール共和政時代のものなんですよ。ナチス・ドイツは猥雑で頽廃であるとして排除したはずのものです。ナチス・ドイツはワイマール時代への反動でありながら、それを内包していたのです。つまり相反するものを持ち続けていた。

 これはワンダーフォーゲルをヒトラー・ユーゲントに変えたのと同じこと。人種政策はある側面では性の解放であったのも同じこと。受容と拒否、服従と破壊の欲求、ふたつの相反するものが併存していることで、大衆のみならず、ナチス中枢の構成員にとっても、その欲望のはけ口になっていたのです。第一次大戦で敗北したでしょう、それでグローバル化に向かうんじゃないかというのは、机上の空論。その証拠に、敗北の屈辱がナショナリズムに結びついて(ナショナリズムにはけ口を見出して)、これを強化したじゃないですか。これもまた「振り出しに戻る」という意味では同じことなんです。

 だからワイマール体制の風紀紊乱はなにも変わってはいなかった。むしろ、ナチズムの支配する社会に取り込まれたことで、表面上は秩序だっているように見せかけている分だけ、かえって倒錯的な頽廃の相を帯びることとなった。


この作品に限らず、ヴィスコンティの映画では鏡が多用されていることにご注目。さらに「化粧」も要所要所で場面を効果的に際立たせます。

 とりわけ性の問題に関しては、これは極めて人間の、個人的な、privateな側面であるわけですよね。これを国家権力が規制するなどということがそもそも愚の骨頂。規則だとか決まりごとを定めれば定めるほど、その決まりごとは滑稽にならざるを得ない。よく、学校の校則におかしな意味不明のものがあると話題になるじゃないですか。あれと同じ。嘲笑の対象となるほど荒唐無稽になってしまうんですよ。

 またまた話が逸れてしまいますが、「サド裁判」のときに、検察側証人の連中ときたら純潔同盟とかなんとか、教育勅語のような生き方が美しいとか言いだして、もうまともじゃないんですよ。後に石井恭二は「本当にこんなおかしな人たちがいるんだというくらいおかしなひとたち」「嫁さんと寝るときに羽織袴で寝るのかというような世界」と言っています。それに「自分の人間性を縛ってしまうとああいう画一的な台詞になってくるんですね」とも。そうナチスの全体主義によりドイツ国民が行き着いたのも、まさにこうした画一性なんですよ。自分の滑稽さにもまったく気がついていない。


ナチ親衛隊の幹部アシェンバッハ。同じヴィスコンティの「ベニスに死す」"Morte a Venezia"(1971年 伊・仏)の老作曲家と同じ名前であるところに「裏設定」を見る人もいるようです。

 ナチス政権下で、ドイツ国民は全体主義でいいかげん道徳的人格が麻痺してしまっていた。だからユダヤ人虐殺に良心が痛むこともない。殺しておいて、殺したという実感すらないわけです。そのような人々は、ナチスがさまざまな決まりごとを作っていても、それがいかに滑稽なものであるか、わからないのです。しかし現代の我々には、その荒唐無稽なことが明白です。だから「頽廃」と見える。これが、とりわけ性の問題に見られるナチスの「頽廃」の正体なんですよ。


最後は「母殺し」、すなわち息子の自立。申し遅れましたが、ヘルムート・バーガー、ダーク・ボガード、ヘルムート・グリーム、それにイングリッド・チューリンと、役者も揃っています。


(Hoffmann)



参考文献

 とくにありません。