106 「マトリックス」 "The Matrix"  (1999年 米) ウォシャウスキー兄弟




 監督のラリー&アンディ・ウォシャウスキー兄弟Larry and Andy Wachowski brothersは、その後ふたりとも性別適合手術を受けており、現在はラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹Lana and Lilly Wachowski sistersと呼ばれています。



 2003年には続編の「マトリックス リローデッド」"The Matrix Reloaded"(2003年 米)と「マトリックス レボリューションズ」"The Matrix Revolutions"(2003年 米)が公開され、2021年には「マトリックス レザレクションズ」"The Matrix Resurrections"(2021年 米)が公開されていますが、私が観たのは第3作目までです。「マトリックス レザレクションズ」は観ていません。

 さて、言わずと知れたentertainment映画ですね。仮想世界マトリックスでごく普通の人生を送っていた主人公が、機械に支配された現実世界の救世主であることを知らされて、仲間たちとともに仮想空間で闘い、成長してゆくというSF仕立ての映画です。

 日本の武道・アニメ映画の影響を受けており、アクションをハイスピードカメラのようにスローモーションで進行させることで、超人的に速い動きを表現する視覚効果を広めたのはこの映画。主人公のネオが仰け反りながら銃弾を避けるシーンは有名ですね。CGも多用されています。



 そのような技術的なことは別にしても、作り込まれた世界観は複雑すぎず、理解しやすく、観ているこちら側も入り込みやすい。登場人物や機械などのネーミングもちょっと意味深げでユニークです。たとえばネオNeoという名前は"One"のアナグラムで、救世主キリストを指し、トリニティTrinityは「三位一体」という意味ですね。

 「いま生きているこの世界は、もしかしたら夢なのではないか」という発想は新しいものではありません。古くは荘子の「胡蝶の夢」がありますよね。それもまた、馴染みやすい設定と言えるのではないでしょうか。ただし、私はそこに哲学的とか東洋思想とかいったものよりも、見えないところに真実がある、自分の本当の姿は別にある、という、陰謀論と自己実現の寓話に近いものを感じました。

 陰謀論はもうおわかりですよね。世界はなにものかに操られているという「妄想」です。世の中のあらゆる出来事の原因を、見えないなにかに責任転嫁する、安易な世界観といってもいいでしょう。この映画「マトリックス」では、もともとコンピュータの仮想空間で犯罪を犯していた主人公が、「あなたが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と告げられ、このまま仮想現実で生きるか、現実の世界で目覚めるかの選択を迫られます。もちろん、主人公は現実の世界で目覚めることを選択するわけですが、これは世界はユダヤ資本に支配されているとか、フリーメーソンが、イギリス王室が・・・というその主語をコンピュータに換えただけのプロットです。

 これ、別段突飛な連想ではありませんよ。いわゆる「9・11真相究明運動」の人たちなんか、初期の頃は自分たちをこの映画「マトリックス」の主人公にたとえていましたからね。



 さらに、自分の意思で動いているつもりが、動かされている、というのはギリシア悲劇の古典時代からの定番といっていい、物語の枠組みです。陰謀論では、運命とか神々の意思がある実体を持った「黒幕」に変わるわけです。ここでは目に見える世界・人生が仮想空間ということになっていますから、すべては偽りであって、目覚めればそこに真実の世界が開けているという展開が用意されています。ちなみに水槽の中の脳とプラグというのは、現実世界の認識が脳の中の電気信号にすぎないという発想からのアイデアと思われますが、水槽の中の液体が羊水を象徴していると思えば、そこから目覚めることはすなわち再生を意味しているのでしょう。

 人生に不満があったら、ゲーム(機)みたいにリセットできたらいいな・・・という感覚ですね。



 自己実現の寓話というのは、「自己実現」などというとたいへん聞こえがいいのですが、つまり見栄っ張りな男女が「自分は本当は(いまこうしているような)人間ではないんだ」「自分は他人とは違う(すぐれた)人間なんだ」と、なんの根拠もなく主張して、あるいは自分に言い聞かせて、コンプレックスにまみれた自分の精神の均衡を保とうとする欺瞞のことです。

 このような発言、めずらしくありませんよ。たとえばゴルフの下手な人が、「自分は練習をしていないから」と言う。暗に、練習すればもっと上手いんだと言いたいわけです(笑)本当の自分はこんなものではないんだと他人に言って、さらには自分自身をも欺いているわけです。これが認知の歪みを導いて、自分がゴルフが上手いのか下手なのか、なにが現実でなにが現実でないのか、本人にも分からなくなっている。

 よくいますよね、「いつか」を連発する人。「いつか」きれいに片付いた部屋で優雅にお茶を飲む自分・・・「いつか」出世して思いどおりのやり方で仕事を進めて成果をあげる自分・・・そうしたひとたちの「いつか」というのは、「いま」ではないんです。本人もいつのことかわからない。「いつか」というのが「いま」と地続きの未来であることさえ自覚されず、まるで宝くじが当たるかように、その「いつか」が突然やって来ると思い込んでいる。そして10年経ち、20年経ち、30年、40年・・・その「いつか」はとうとうやってこない・・・気付いたときはもう遅いのですが、自分で気付くくらいならまだしも。気付かないまま老齢化して、何者でもない自分のプライドだけは人一倍、というのはよくある話でしょう。いわゆる「暴走老人」なんていうのは、その多くがこうした人たちの末路です。

 そのような暴走老人が語る過去の栄光は、じつは事実ではないんですよ。まったくの嘘ではないにしても、理想化された過去、そのようにありたかった自分の「物語」なのです。つまりここにおいても認知が歪んでいる。事実と事実でないことの区別ができなくなっているのです。自慢話ばかりする人というのは、自分の理想を語っているのです。ところが、じっさいはそんなに勇ましいものではない。その過去の活躍が事実だったら、いまごろそんな自慢話をする必要もないし、自己の現状に対する認識が正しければ、見栄を張ることもないはずなのです。つまり、若い人だったら、コンプレックスが認知を歪ませて、理想化された自分を「演じる」のですが、老人は理想化された過去を「捏造する」わけです。

 これがしばしば陰謀論と手を結ぶのです。なぜかというと、結局いまの自分はそんなにたいした人間ではないから。つまり承認欲求が満たされていないから。そんな自分も、陰謀論のおかげで、悪いことはすべて他人のせいにできる。自分がやらない・できないのは、自分の責任ではなくて、世の中が悪いから。こういうひとにはいかなる正論も通用しません。なぜなら自分が怠けていたこととか、その巨大なコンプレックスを認めることは、絶対にしたくないことですから。ところが、努力したって無駄だから・・・というひとは、そもそも努力なんかしたことがない人なのです(笑)

 こうした人たちがはびこるようになったおかげで、批判的に「自己責任論」が使われることが多くなったのです。これも困った話で、いくら努力しても成果につながらないことは現実にありうるんですよ。そうしたときまで「努力が足りない」という自己責任論にしてしまうと、さすがに心が折れてしまう人も出てきます。たとえば自然災害で大きな被害を被った人たちにまで、「自己責任」「自分でなんとかしろ」というのは酷に過ぎるのではないでしょうか。

 人間、他人(社会)との関係性の中でしか自己確認できないでいると、他人との比較においてしか自分を評価できなくなってしまうのです。「勝ち組・負け組」とか「リア充」なんていうことばは、他人と自分、あるいはふたり以上の他人を比較してはじめて使われることばですよね。Hoffmannさんのお話しでしばしばふれられていますが、現代の、とくに日本人は、「個」人というものをとらえて認識することができないんですよ。だから、近頃はあまりにも大きなコンプレックスを抱えている人が多くて、それが他人への攻撃につながる。他人を貶すことで自分が偉くなったように感じる。でもそれが錯覚であることは自分でも薄々気がついているから、その他人への攻撃はいっそう激しさを増していくのです。

 「よくある」話で、真面目に働いてそこそこの地位にまでついた人が定年退職後、YouTubeの陰謀論サイトにハマってしまっておかしなデモに参加しているとか、突然反ワクチン反マスクを主張し始めて、見知らぬ人にまで迷惑をかけているとか、どうしてそうなったのか、家族も途方に暮れているという例―。これ、おそらく、そもそもその人の思考力・判断力・自己を客観的に観察する能力が欠如しているということなんですよ。肩書を持って、自分の役割を果たすために働いている時には、他人と関わらなければならない。だから、必ずしも自分の考えが通るわけではありませんよね。自分と違う考えを持っている人も尊重しなければならないわけです。これがセーフティネットになっていた。ところが定年退職すると、否応なく他人と関わり合わなければならないという必要がなくなってしまう。頭に浮かぶのはいつも「正しい自分」。それだけ。自己観察できないから自我が肥大するばかり。陰謀論サイトにハマるなんていうのは、自分はほかの人が知らないなにかを知っていて「気づいている」「目覚めている」という、プライドと承認欲求を満たすための安易な手段なのです。他人との関わりがないから周りに相談できる友人もいない、それでもまともな判断力を持っていて、自己観察ができるようならいいんですが、そもそも「個」人の人格が確立できてない。他人との関係でしか自分という人間がとらえられないということは、自分を客観視できないということなのです。私ももう「熟女」どころかいいかげんいい歳なので(笑)これには日々気をつけたい、自分を律していきたいと思っています。



 閑話休題。誤解しないでいただきたいのですが、私は決してVirtual Realityに対して否定的なわけではありません。近頃gameやコミックスで流行りの「異世界転生」ものも別段、悪いとは思っていません。小説でも映画でも、客観的に鑑賞しようが、とことん没入してしまおうが、愉しみ方はそれぞれです。以前、Hoffmannさんが取りあげられたヒッチコックの「サイコ」のように、ひととおりの説明がついて映画が終わり、一区切り、現実に戻る・・・というのもよし、「血を吸うカメラ」とか「マウス・オブ・マッドネス」のように、虚構が現実に侵食してこようとするようなsuspensiveな後味を残す映画もまたよし・・・です。

 ただ、この「マトリックス」が、現状を陰謀論によって納得したいという人の願望に働きかけたこと、さらに未だ見ぬ望ましい自己像を提供することで、現代人の弱点・欺瞞をくすぐったことはたしかだと思うのです。裏を返せば現代人に対して、「現状で満足していろ」「現状で満足できなければ夢でも見ていろ」というメッセージ性すら透けて見えるような気もします。これは別に矛盾でもなんでもありません。映画というものがそもそも持っている機能です。その意味では、たいへん「わかりやすい」作品なのです。



 なお、なにが現実なのか、自分という人間の正体はなんなのかという、謂わば「自分探し」の過程で現実に目覚めるというテーマは、映画では「ダークシティ」"Dark City"(1998年 米・濠)がこれに先立つもので、「インセプション」"Inception"(2010年 米・英)もこの系列に連なるもの、少し拡大すれば「ブレードランナー」"Blade Runner"(1982年 米)に「エンゼル・ハート」"Angel Heart"(1987年 米)、「シャッター アイランド」"Shutter Island"(2010年 米)も、主人公のidentity探索という、これに近いテーマを内包しているものです。

 ちなみに「007」シリーズだって、新しいものは善悪の二元論では割り切れないようなダークなstoryを展開しています。やはり時代なのでしょう、政治の風向きによって歴史が書き換えられるような国もありますし、そこまでいかなくても、官軍・逆賊ともこれを見る角度によっては善悪・正邪のいずれかに割り切れないということが、一般的な了解事項となってきたということなのでしょう。世界は目に見えるままのものではない、という発想は、近頃の脳科学(?)によって、人間のあらゆる感覚とか認識に対する疑いが生じてきたことの影響もありそうです。

 加えて、「007」シリーズで思い出したのですが、1960年代の悪の組織スペクターなんていうのはもはやお伽噺・絵空事であって、比較的新しいものになると、悪役が国家そのものを支配している麻薬王だとか、マスコミ王などという、いかにも背後で世界を動かしている「黒幕」といった扱いになっているところには、陰謀論的な要素が加味されていることを窺わせますね。



 さらに、当たり前すぎて指摘するのも気が引けるのですが、管理され監視され抑圧された人々が、その鬱屈した暗澹たる世界で革命を起こそうという物語とも見えます。そう考えると、「マトリックス」は、ファンタジー色の強い、わりあいよくある近未来映画の定型をなぞったものともいえそうです。

 ちなみにファンタジー色が強いというのは、徹底した世界観の作り込みによって、それだけリアリズムが徹底しているということです。アンドレ・ブルトンは、幻想のなかにあるすばらしいところは、もはや幻想ではなく現実しかないということだ、と言っています。ファンタスティックなものは、ここまでリアリズムを追求してこそ、実現できるものであるということです。余談ながら、このリアリズムは所謂写実主義とはまったく別のものです。写実主義というのは、「客観的な現実」というものを信じるところから発生しているものであって、ここで私が言っているリアリズムとは似て非なるものであることをお断りしておきます。

 ただし、これはそれこそ「当たり前」のこと。画家だって、リンゴが食べたいからリンゴを描くのではありません。リンゴによって目に見えない世界のvisionを呈示しようとしているのです。映画だって同じこと。よくある、TVドラマという名前の「学芸会」とは違ったものでなければ制作する意味がありません。ちなみに「学芸会」というのは、演じている子供は自分がやっていることが自分で分かっていないということです。実生活でも、外で、そのような無邪気な行動に夢中になっている人はめずらしくありません。芝居がかった行動や発言というのは、あくまでお芝居のなかの行動や台詞なのであって、他人の口真似に過ぎないのですよ。


(Kundry)



参考文献

 とくにありません。