106 「幻想の美学」 ルイ・ヴァックス 窪田般彌訳 文庫クセジュ・白水社




 近頃では大きめの書店に行くと、「幻想文学」なんて棚があります。幻想文学ってなんだ? 定義は曖昧ですよね。それこそひとそれぞれの捉え方があって、たとえば川村二郎のように、文学はすべて幻想文学だ、幻想文学でなければ文学でない、と言う人もいます。もちろん、そのような発言には根拠というか、厳然たる法則のようなものがあるのだろうと思いますが、さしあたり幻想文学について知りたいという人におすすめなのがルイ・ヴァックスの「幻想の美学」(文庫クセジュ・白水社)でしょう。ほかに、表題そのもの「幻想文学 構造と機能」という本もあって、これはツヴェタン・トドロフの著作。翻訳は朝日現代叢書から出ていましたが、とりあえず、まず前者をおすすめしておきたい。コンパクトな入門書です。あまり最初からあれこれ多彩な情報であっぷあっぷするよりも、これを読んで、あとはテーマや作家別の各論に進んだほうがいいでしょう。

 幻想的なもの、たとえば幽霊、怨霊、魔女、妖精、まあ、名前はなんでもいいんですが、理屈の付けられない不思議な現象、神秘的なものに、なぜ人は惹かれるのか。現代人が不合理なものに魅惑される理由を考えてみました。

 少しばかり時代を遡ったところからはじめましょう。たとえば、いまも文芸評論なんかではしぶとく生き残っているマルクス主義。マルキシズムっていうのはね、戦後の平和な時代だからこそ、これにかぶれて、錦の御旗みたいに振りかざす人が出てきたんですよ。それより前、戦時中なんかだったら、自分がいつ死ぬかっていう、「死」に直面している状況じゃないですか。マルキシズムってのは人間の「死」の問題の前ではなんの役にも立たない。だって、現実というのは、歴史的プロセスの途中なんだってことしか書いてないんですから。「死」に直面している人間は、それじゃあ歴史的プロセスの途中で死んでしまったら意味がないじゃないかってことになる。だから死に直面している人は、唯物論ではダメなんです。それだったら神秘主義の方がまだしも。死に直面すると、宗教に走る人もいる。断っておきますけどね、これは現実逃避ではありませんよ。もちろん、知的な飾りでもない。もっと切羽詰まった、深刻なものです。

 戦後の日本には、ほとんど同時代の文学としてシュペルヴィエルとかアポリネールが入ってきて、ジュール・ラフォルグとかマルセル・シュオブ、それにヴィリエ・ド・リラダンなどが読まれました。ヴィリエ・ド・リラダンなんて翻訳がいいですからね、よく読まれたようです。当時の日本文学の状況というのは自然主義が本流で、ところがもう行き着くところまで行ってしまって、正宗白鳥も徳田秋声も、島崎藤村までもが、自然主義からの脱却を図ろうとしていた。それが、次の佐藤春夫とか堀辰雄あたりの世代になると、もうアンチ自然主義で幻想文学に関心を持つことになる。室生犀星とか萩原朔太郎もそう。ヨーロッパのモダニスムとかシュルレアリスムの影響もあったでしょう。

 ところが、さらにひと世代後になると、たとえば中村眞一郎とか福永武彦などは、戦争が始まっていきなり死の問題に直面してしまった、せざるを得なかった、ということが、宗教や神秘主義への関わりの原因になっている。文学者だから幻想文学と呼ばれるような海外の作品も真剣に読んで、おかげでそれが人格の中心に入ってきてしまった。中村眞一郎ならネルヴァルホフマン、福永武彦ならロートレアモンですね。とくに戦後になると、レジスタンス万歳という雰囲気の中で、フランス文学志向からプルーストとかヴァレリーなんかも読まれはじめたわけです。

 一方、ドイツ文学は日本と同じ敗戦国の文学だから、一段下に見られる雰囲気があった模様です。しかもドイツ語の本は値段がお高くて入荷が少なかったようですから。翻訳者も、フランス文学なら仕事があるけれど、ドイツ文学なんて売れないから仕事にならない。相手にされるのはかろうじてゲーテだけ。だから戦後ドイツ文学をやっていた人がドイツに行くと、「日本人はゲーテみたいなしゃべり方をする」と思われていたとか。よって、我が国の戦後文学への影響は、概ねフランス文学なんですが、じつはそのフランスがドイツのホフマンあたりの影響をかなり受けているんですね。

 これはちょっと注釈が必要なところで、我が国におけるフランスの影響というのは、あくまで近代フランスの影響であって、かつてヨーロッパを制覇したフランス古典主義の影響ではないのです。いまの人はフランスにも幻想文学があると思っているかもしれませんが、それはロマン主義以降、近代から現代に至るまでのこと。もともとロマン主義以前のフランス文学というのは、デカルト哲学に支えられたどこまでも理性的なものでした。ラシーヌなんてアリストテレスですよ。合理主義すなわち古典主義。そこに幻想的要素はありませんでした。これをひっくり返したのがドイツ・ロマン主義のノヴァーリスやティーク、ホフマンです。ヨーロッパじゅうを荒れ狂ったロマン主義ですから、フランスもやっぱり影響されたんですね。19世紀には自然主義のリアリズムという主流に対して、象徴派が台頭してきた。さらに世紀を超えて20世紀になると、もっと過激にシュルレアリスムが登場する。フランスも頑張ったよね。でも、フランス古典主義も偉大な成果として大切にしてあげてほしいところです。


Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、Adelbert von Chamisso

 ルイ・ヴァックスは幻想文学が真に大きな飛躍を遂げたのは18世紀であるとして、最初にドイツ文学を取り上げています。なぜドイツ文学が最初なのか、いままでの話でもうお分かりですよね。そもそも、ドイツでは古くから多様な超自然的寓話が語られていました。加えてドイツという国家、というよりも地域性を見ると、ナポレオンの侵略による政治的再編成で、旧領主の土地区分が変わってしまったために、それまで自分の故郷だと思っていた土地がいつの間にか外国になっていた、なんて事態が生じたわけです。そういった故郷喪失感、足下が崩れていくような不安がドイツ・ロマン派を生んだひとつの要因です。シャミッソーなんかはいい例で、一種の亡命文学なんですよ。

 先祖代々ひとつの所に住んで、おじいさんから親父さん、そして自分へと受け継がれていくものがあるのなら、現実と幻想の二重構造なんかお呼びじゃない。ところが、ナポレオン戦争以来、その点ではまずまず安泰だったはずの、土地に根付いていた貴族や僧院までが、その足下から大地が逃げてゆくかもしれないという不安定さに脅かされるようになった。そのような出自と言語の二重性に直面したからこそ、自分にとっての真実とはなんなのか、と考えざるを得なくなった。自分という「個」を追究することがのっぴきならぬほどの欲求となったあたりから、ロマン主義が生まれたんです。

 それとは反対に、たくましいのはもとから流浪の民であった連中で、それがスペインのピカレスク・ロマン(悪漢小説)に結実している。ドイツにも中世の「ティル・オイレンシュピーゲル」なんかがありました。これがロマン主義の時代になると、旅する主人公の小説が流行った。旅というのは擬似的な故郷喪失なんですね。空間の二重化が人格の二重化につながって、その二重の一方が現実(リアル)で、もう一方が幻想(ファンタジー)なんですよ。

 それはともかく、マルキシズムに話を戻すと、これはヘーゲルあたりでも同じなんですけど、歴史はどんどん進んでいくんだから、そのいちばん先端にいればいいという、あたかも高度成長に至る論理であるわけです。ところが、歴史というものは連続する流れであって、その上を行ったり来たり、つまり後戻りもできるものであって、ひょっとしたらどこかでゆっくり休んでもいいし、脇道に逸れちゃったっていいじゃないか、という発想が出てきた。これはおそらく相対性理論の影響ではないかと思われます。つまりくねくねうねったり伸縮したりする時間の観念というものが発見されたため、ということです。

 ゲーテはイタリアを書いたり、シラーはヴェネツィアを舞台にしたり、ホフマンもイタリアを舞台にしたりしましたが、ぐっと時代を下ると、そのイタリアももう近代化されてしまっているから、時間を遡ることになる。グスタフ・マイリンクとかカフカのプラハは過去のプラハでしょ。ロデンバックは近代化される前のブリュージュ。我が国なら、永井荷風は、もう失われてしまった東京(江戸)に思いを馳せている。岡本綺堂なんかもそうです。


Gustav Meyrink、Franz Kafka、Georges Rodenbach、永井荷風

 いまは時代が混沌としている。それがまた、幻想文学が好まれる土壌にもなっているんですよ。ただ、いまの時代は先ほどから名前を挙げている人たちのような、日本の文学を実現しようという使命感みたいなものを持っているひとは、もういない。いまの時代はそうした切実な全的欲求がない、死と隣り合わせでいる自覚もない、だから単に外国文学の模倣にしかならないんです。外国文学の模倣ならまだしもで、じっさいは外国文学の翻訳文の模倣でしかない。ムラカミなんとかいうひとが書いている幼稚な小説なんかがいい例です。読む側も、選ぶ本との切実な出会いがあるわけではなくて、知的な飾りとか現実逃避のために読んでいる傾向がある。だからなにを読んでも人格形成に寄与しないんです。

 そうすると、こころある一部の人は、やはり「本物」が読みたくなる。現代人の感覚で馴染みやすいのは、やはり18世紀文学あたりから、ということになりますね。ドイツならティーク、ホフマンとか。フランスならジャック・カゾットからはじまって・・・18世紀は少ないな、19世紀になるとゴーチエ、ネルヴァル。ボードレールやバルベー・ドールヴィリ、ヴィリエ・ド・リラダン、そしてユイスマンスと続いていく。あとはもう、シュルレアリストたちの出番になります。

 そのへんももう読み尽くされてしまって、というのは、大学の研究室で研究する人まで出てきてしまったので、いまはまた先祖返りして、18世紀も含めて埋もれてしまっていたような作品が紹介されはじめているわけです。ただ、ドイツ、フランスに関しては、もう主要なところはたいがい翻訳されていると思います。その周辺にあるものや前駆(はしり)になったものもいいんですが、まず基本を押さえてほしいかなと思います。もちろん、現代の流行作家が書いている、陳腐なstory―せいぜいTVの「世にも怪奇ななんとかかんとか」のシナリオ程度のものは論外ですよ。

 ちょっと以前、1980年代あたりの話になりますが、ひところ(いまでも?)、ラテンアメリカ文学が注目されましたよね。ガルシア=マルケスがノーベル文学賞を受賞したころです。20世紀に革命とか戦争ばかりやっていた国や地域で、世界的に評価される幻想文学が出てきたのはたいへん興味深い現象でした。考えてみればアイルランドのジェイムズ・ジョイスもそうなんですが、自分の土地の土俗性という根を持っていて、これをたいへん前衛的かつ新奇な物語にしている。安部公房だって、もっとも注目されたのは「砂の女」ですよね。

 つまり、土俗的なものを失ったらダメなんです。そして、平和なのがいけないとは言いませんが、日常性を失うような境遇が必要なのかもしれません。やはり孤独が必要なんです。これは必ずしもその人が孤独であるという意味ではなくて、「個人主義」ですね。日常的な感覚から一歩踏み出そうというときに、あくまで「個」で考える・見るという姿勢でないと。日本の小説って、なにかというと夫婦関係とか親子関係とか、主人公が男なら女が出てくるし、逆も同じ。日本の小説家って、個人を書けないんですよ。SNSなんかがやっていてあたりまえのように流行って、それでいて幻想文学が読まれる、というのは、もう日常的な感覚から逃れられなくなってきているから、その反動なんじゃないかと思いますね。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「幻想の美学」 ルイ・ヴァックス 窪田般彌訳 文庫クセジュ・白水社




Diskussion

Parsifal:我が国の文学といえば一貫して自然主義リアリズムが幅を利かせていたのはたしかだね。

Klingsol:それはもう、文明開化以降、いきなり自然主義文学が入ってきたからという話よりももっと以前、王朝文学の時代からそうだよ。

Kundry:民話で口伝えに伝承されてきたものとか、説話といったものは超自然を扱っていたのではありませんか?

Klingsol:そうなんだけど、王朝文学になるとその土俗性が一掃されてしまってリアリズムになってしまったんだよ。これはちょっと不思議なところで、紫式部とか清少納言なんて中国の影響を受けて、唐の伝奇とか読んでいたはずなのに、なぜか幻想的要素はすっぱり切り捨ててしまっている。

Hoffmann:それが王朝文学も文化的に爛熟して、というと聞こえはいいけれど、じっさいのところ行き詰ってくると、「浜松中納言物語」のような幻想文学が出てくるよね。でも、これはデカダンス、行き詰った末のことだから、物語形式が分解・没落してしまう・・・。

Klingsol:江戸時代も概ねリアリズムだね。ところが町人文化が爛熟してくると上田秋成なんかが出てくる。孤独で肩身の狭い思いをしながらも、絵画でも幽霊画とか残酷絵などが流行りだす。それでもやっぱり主流はリアリズムだ。幽霊が出てきても枯れ尾花と種明かししてしまう。そこへもってきて文明開化で自然主義が西洋の主流だということで幻想文学は御破算になる。

Parsifal:なるほど、幻想には孤独が必要なんだ(笑)


Kundry:先日、Hoffmannさんが取りあげた泉鏡花はいかがですか?


Hoffmann:当時もてはやされたのはごく短い期間のことなんだよね。自然主義の日常的リアリズムの陰で一時は埋没してしまったんだ。ムカシは泉鏡花より田山花袋のほうが、研究者の間でも地位が上だったんだよ(信じられないよね)。いまでは泉鏡花が復権していると思うけど。

Klingsol:そうした日本の自然主義リアリズムを崩壊させたのは、晩年の川端康成だと思っているんだけどね。

Parsifal:そのあたりの話を詳しく聴きたいな。